六十六年ではいまだ遠く
「……あら、秘め事をのぞくなんて。はしたないのではなくて?」
セリーヌが上気した頬のまま、首筋を撫でつつ言う。じっと、上目遣いに湿度のある視線をカミラへ送り、命の交換に昂ぶりを覚えているようだった。
「こちらはわたくしの主吸血鬼である、カミラ様です。元々闇商会に属していたそうで、こちらのむかしのツテを経由してあなたがたへの護衛依頼をいたしました」
そして驚愕の事実を、告げる。
……闇商会に属していた?
それが事実なら、これまでずっとカミラが見つからなかった理由がわかる。闇商会は政治の領域で、宗教の領域である異端審問会には流れない情報がある。
いまも、おそらくそうだ。セリーヌという政治の領域の人間に関わることで、カミラの存在は表から抹消されている。体制の庇護下にあったのでは、異端の側からじゃいくら探しても見つからないわけだ。
そう考えるジズの前で、セリーヌは陶酔した顔のまま語る。
「いま血を吸っていただいたのも、道中で七日七晩のルールを越えないようにするためですの。護衛は二重。あなたがたはこれ見よがしの守りで、本命は……カミラ様なのです」
カミラを信頼しきった目つきであった。陶酔、崇敬。二人の関係が見えるような顔つきだ。
言われているカミラはセリーヌをあまり見ておらず、扉の脇で呆然としているジズを見据えている。その目に、とくにこちらを敵視する色はない。
……落ち着け、とジズは己に言い聞かせた。
まだ気づかれていない。眷属吸血鬼は主吸血鬼と異なり、転化してからも肉体がピークを迎えるまでは成長する。おかげでジズはカミラとの遭遇時より十歳ほど齢を重ねた外見なので、仮にあのとき顔を覚えられていたとしても即座に見抜かれることはない。
ならばまだ、不意打ちのチャンスがある。
浅く荒くなる息を必死に整え、自分の中の殺意を深く心の底に沈めて凝縮していく。
まったく、なんたる偶然なのだろう――いや、あるいは必然なのか。
今日、道を急いで崖を飛び降り予定より早く着いたからこそ――この場で、遭遇できた。
もしあのとき崖を徒歩で降りる道を選んでいたなら、この吸血の場には出くわさずなにも気づかないままセリーヌたちを送り届け、ニアミスに終わっていたかもしれない。
偶然の積み重なりが、いまここに必然を生んでいた。
ジズはカミラに怪しまれぬよう、一旦は視線を切る。これ以上見ていたら、様子がおかしいと感づかれる恐れがあった。
「なるほど。道中の陰ながらの守護があること、了解です。お二人の逢瀬に失礼しました――では、後ほど」
半歩引いて、部屋を辞そうとする。胸の中では心臓が跳ねまわっていた。
この扉を閉じたら、そのままカミラが朝霧のように消え失せてはしまわないか? ようやく見つけた仇敵へすべての感情をぶつけたいがための焦りがある。必死にこらえて、ジズは扉を閉めていく。
しかし。
「なにをしているの。その部屋、なにかあるの?」
後ろから、ウィルヘルミナがやってきた。
止める間もなくほぼしまりかけた扉の隙間から、ひょこりと中をのぞきこむ。
途端、
彼女の全身の毛が逆立つのを見た。
瞬間、
こちらを見るともなく見ていたカミラの目の中、瞳孔が開かれるのを感じた。
ジズは時間を置いての不意打ちをあきらめた。閉まりかけた扉によってちょうど己の左半身が隠れていたのをいいことに、ロングコートを払ってその内側で両腰に提げていた杭の一本を左手で引き抜く。
抜くときの動きのまま下手投げで杭を擲った。手を離すまでに指先で鋭く側面に摩擦をかけ、まるでライフリングで回転をかけられた弾丸のように杭を放つ。扉は容易く貫通され、まるで警戒していなかったセリーヌの首めがけて飛んだ。
しかしカミラが掌底を打ち下ろし、杭に当てて軌道をわずかに逸らす。喉に当たらず胸に突き刺さった杭は貫通せずに運動エネルギーをセリーヌの身体に伝え、この勢いのまま、彼女は後ろに転がっていった。
「――――カミラァァァァァァァッっっ!!」
ウィルヘルミナが咆えた。マントの内からシャンッ、と円刃連鎖を展開する。彼女が前に突き出した手首をぐりんと一捻りすると、貝殻を模すように渦巻き状に軌道を描く円刃連鎖が正面を埋めた。そのまま走り出す。全身を鎖と刃の殻で覆いながらの、攻防一体の突撃。
カミラはこれに対して冷静に、スリットから出した右太腿にベルトで縛って括りつけていたホルスターから散弾銃を抜いた。
銃身を切り詰め近接殺傷力を上げたそれのダブルバレルを、目線の高さで水平に掲げた左肘の上へ乗せるようにして狙いを定める。
「ああ、ミナ。闇商会からの護衛ってあなただったんだ? ずいぶんと久しぶりだね」
愛称で呼び、挨拶と共に引き金を絞る。
ヅバンっ、と空気が爆ぜた。
渦を巻き回転する刃と鎖に散弾のほとんどは散らされたが、いくらかはウィルヘルミナに当たっている。しかし主吸血鬼は怯んでも止まりはしない。弾丸を食らったらしい頭部をのけぞらせながらも走り、距離を詰めている。
ジズも見ているだけではなかった。ウィルヘルミナの斜め後ろを追うように駆け、もう一本の杭を抜く。再生を始めようとしているセリーヌの喉笛に今度こそ杭を突き立てる。そのつもりで投げ放った。
またも空気が爆ぜ狂い、カミラの散弾銃が火を噴く。ジズの投げた杭は空中で弾き飛ばされ、石壁に激突して床に転がった。しかしこれで散弾銃の装弾数は使い切らせた。
「いまだ!」
ジズが叫べばウィルヘルミナが右腕を振り上げ、動きに伴って渦を巻いていた円刃連鎖は鎌首をもたげる。
振り下ろされた波打つ鎖は地を這い石敷きの広間に破砕を振り撒いて、カミラに襲いかかった。
彼女は散弾銃を剣のように掲げてガードし、己の横に円刃連鎖の一撃を逸らす。床を砕き打った鎖をガンっと踏みつけにして、この動作と共に散弾銃の中折れ式銃身を解放。薬莢を弾き出して新たな弾丸を左手の内から込めると手首のスナップだけで薬室を閉じ・再びウィルヘルミナに銃口を向ける。
両腕をぎゅっと縮めて顔を守り、頭から散弾の殺傷範囲に飛び込んだウィルヘルミナは腕と顔を穴だらけにされて後ろに下がりそうになった――それでも円刃連鎖を手放さなかったため、踏まれて固定されている位置から距離はさほど開かない。
眼球から高速再生させたウィルヘルミナは一歩の跳躍で間合いを詰め、カミラの散弾銃の銃身を握り締めた。
銃口を己の腹部に密着させ、カミラの右手を膝で蹴り上げることにより無理やり引き金を引かせた。銃撃で内臓をどろどろに撒き散らしつつも、これで再び弾丸を使い切らせる。口から黒っぽい血を吐きながら、ウィルヘルミナは叫んだ。
「こごでっ、殺ずッ!」
「出来やしないよ、可愛いミナ。この六十六年で私を見つけることもできなかったじゃない。まあしかし、闇商会に入っているとはね……この私の影を踏みつづけるような人生だね」
せせら笑うカミラ。しかしこの攻防の間にもジズは二人の横を抜け、セリーヌへ近づいている。
杭がなくとも問題ない。《槌形拳》は無手での威力こそ真骨頂。
やっと胸から杭を抜いて再生を始めていたセリーヌに、蹴りを見舞う。杭打つ槌のごとき重撃は女の首程度容易くへし折る。距離がある上にもみ合っているカミラは銃撃無しでジズを止める手がない。
これで終わりだ。
思ったそのとき、右目の視界を遮る影があった。
次いで、目に激痛が走り蹴りの狙いが外れる。
「ぐうっ?!」
目が焼けるようだ……なにが起きた。
ジズは右手で眼球表面ごと、異物を抉りだす。
左目の視界で捉えたそれは、ジュぅと肌焼く薬莢だった。
――まだ熱いこれを、先の排莢動作の際に左手へ握りこんでいた? それを、ウィルヘルミナともみ合いになったまま指で弾いて針の穴を通すようにジズの目を狙ったのか?
セリーヌに反撃で蹴りつけられて後方に飛びながら、ジズはカミラを見た。
ウィルヘルミナに素手で猛攻を仕掛けられつつ、横目にジズを見る彼女は笑っていた。
本気で、狙っていたのだ。この展開を。
「痛みに弱いね、ミナの眷属は。そんなざまではこの私には勝てないよ」
つぶやき、カミラは散弾銃の銃身でウィルヘルミナの横顔を殴りつける。折れた歯を散らしながら彼女が吹き飛ぶと、踏みつけにしていた円刃連鎖の先端を蹴り上げた。
左手で鎖部分を掴むと、軽く振るう。
それだけでウィルヘルミナが操られた。鎖に繋がった分銅の一部であるかのように、連鎖の一部を握る彼女ごと武器としてカミラは扱う。
ぶんと振り回されたウィルヘルミナを叩きつけられてジズは壁際に押し込まれた。石壁とウィルヘルミナとで挟まれ、肋骨がめきめきと音を立てる。
「ぐむ……、」
「胸部ダメージには反応が早いね。どうやら胴回りの苦痛には慣れているようだ。眼球と鼓膜と脳髄と粘膜以外は相当、苦痛に耐える練習をしたね? だが無意味だよ」
言いつつカミラはすでに装填を終えており、滑るように距離を詰めウィルヘルミナの腹部にゴリッと銃口を押し当てる。
くぐもった破裂音が身体越しに伝わり、二発目は貫いてジズの腹部もめちゃくちゃにした。腹膜に潜り込んだ散弾とウィルヘルミナの骨片が激痛を呼び起こす。それでも目を焼かれるよりはマシだ。まだ動ける。
視線で足元を探った。求めていたものを見つける。
「ユージンとの戦いを、思い出せ」
眼前にあるウィルヘルミナの耳元にささやく。
次いでジズは足元に転がっていた、散弾で先ほど弾かれた杭を爪先で蹴り上げる。単なる目くらましと思ったのだろうカミラは無造作に左手で打ち落とそうとした。
けれどウィルヘルミナが腕を伸ばす。
杭の頭を左掌で掴み、打ち落とされる前にカミラの胸に突き付けた。
この、杭と腕とが一直線に伸びきった一瞬を逃さず。
ジズは渾身の力で、ウィルヘルミナの背中へと、拳を密着させてから強く打ち込んだ。
――《槌形拳》。
ユージンを前に、切断された己の右腕や太枝を介して打撃を伝えたのと同じ戦法だった。
ウィルヘルミナの腕から掌へ、掌から杭の頭へと伝達された力がカミラの胸を刺し貫く。
「おお。がんばるね」
ごぶりと血を吐きつつ平然と言った。心臓が破れれば少しは動きが鈍る……かと思いきや彼女はまるで止まる様子がない。
心臓を潰されたまま躊躇なく前進し、杭はおろかそれを掴むウィルヘルミナの二の腕までをずぶずぷと己の胸の内に収めてしまう。凶気の行動にさしものウィルヘルミナも頬をひきつらせた。
「このっ、「遅い」
右手で殴り遠ざけようとしたウィルヘルミナの拳を左手で受け止め、逆に右拳を返してくる。
速度のある拳ではなかった。
拳をひたりと、胸部に密着させてから――強く押し込むように重く穿つ。
ウィルヘルミナの胸骨がばきばきとへし折られ、ジズが先ほど彼女の背へ打ち込んだままだった右腕もひしゃげ砕けた。折りたたまれた腕ごとウィルヘルミナの背がジズの胸を圧迫し、壁まで力積が貫き通る。臓器が複数割れ裂けて、体内で血が膨れ上がった。
その、胸に食らった衝撃はたしかに、《槌形拳》のそれだった。
「ばか、な……」
血を吐きつつジズは動揺する。
この女が異端審問に属した過去はないし、ジズたちが抜けた後でもカミラの特徴は伝えてあるので入会などできない。つまりこの女――いま見たばかりのジズの技をただ真似ただけでこの威力と精度なのだ。
動きのひとつひとつが正確で、かつ臨機応変・思考の柔軟性に富む。
散弾銃を使いながらも戦い方は銃に縛られることなく、極めて質の高い体術と予想外の奇策を織り交ぜて破綻させない。
基礎能力と対応力の怪物。戦闘センスが図抜けている。
ウィルヘルミナが、過去戦ったどの主吸血鬼よりも上だと称していたのは過大評価ではなかった。ユージンのように武術を深く修めているわけでも、ヨハネのように言葉や仕草で相手を誘導するのでも、エリザベートのように非道卑劣を尽くすのでも、ヴラムスのように吸血鬼の再生を極めたのでもない。
しかし強い。
あるがままにある。選ぶことなく動く。
それを可能とさせる天与の精神と天賦の才。歩く災害。
「終わりにしようか、空っぽな人生を歩んだきみたち。この私に刃向かうには――」
言いつつカミラは指を揃えた。鋭く尖った刃物を思わせる、貫手。
臓器を複数個所にわたり粗く広く傷つけられたジズの再生は綺麗な傷口より遅くなる。主吸血鬼ほどの再生力がない彼にとって心肺機能の停止は引きずるダメージで、目がかすんだ。
その視界の中で、貫手がジズの喉を狙っている。
「――六十六年じゃまだ早いよ、ミナ」
死が迫ろうとした。




