帰郷
――A.D 1891 July.8th
雄大な山の稜線というのはめったなことでは変化しない。ゆえにどこに行っても、その土地の山の稜線はそこでしか見られないものだ。
幾多の山々を四十年かけて越えてきたジズは、久しぶりに――本当に久しぶりに、『見慣れた稜線だ』と感じた。
羊が放牧された、夏草茂るのどかな草原の向こう、風がさかのぼってくる緩い傾斜の道を下っていくと集落がある。点在する住居のなか、やたらと大きなオークの木が横に植わっているのが村長宅だったはずだ。
家の数は増えていない。……羊の数は、全体的に減ったように思う。独立戦争時の徴発で軍用の毛布や食料として羊が接収されたのかもしれない。
歩くうち、幅のある川にぶつかる。山から運ばれてきた砂利が丸く削り洗われている川辺に沿って、白く泡立つ流れがあった。村落は盆地を下ってくる川に両側を挟まれており、石橋で渡って立ち入るようになっている。
この石橋へ踏み出す一瞬、ジズは肌を生ぬるい風が撫でるような嫌な心地がした。生理的な嫌悪感だ。
吸血鬼のルール。
吸血鬼は流れる水を渡れない。
だがそれは「飛び越えることができない」「泳いで渡ることができない」というものであり、橋や船を使った移動は可能だった。もしも水に落ちたなら、身動きが取れなくなってしまうのだが。
ジズは井戸を囲んだ村の中央広場が近づいたところで、振り返って彼女に言った。
「ここで待ってろ」
「ここ、酒場はないの」
「ない。ただ、サイダーとかエールを作ってる醸造所がある。買い付けを考えにきたとでも言って金を払えば、あがらせてくれるだろうよ」
「そう」
短いやりとりのあと、二人は別れた。別行動自体はよくあることだったが、戻る時間を伝えたり待ち合わせ場所を決めたりしないのはあまりないことだった。
そんなものを決めなくともジズが簡単に探し回れるほど村が狭く、また彼が村に精通しているがゆえだった。『オグリンダ湖に最も近い、清流の村ルナプネ』との看板の横を過ぎる。
村落を通り抜けて、先ほどとはちがう石橋を渡り、また丘を上がっていく。
天に伸びる夏草を薙ぎ、次第に整備されていない荒れ道を通っていく。以前は踏み固められていたはずの路面は雑草の芽生えによりひび割れ、通行という人間の負わせた役目から解放されつつあった。
ジズのブーツが、じゃりっと炭を踏んだ。
視線を上げると点々と、炭が転がっている。
辿っていくと、開けた土地に出た。
背後に小高くなった森を頂く丘の中腹で、そこだけ夏草の茂りがない。
燃え残った柱の残骸、崩れ落ちた壁の破片、粉々になったスレート……。
基礎部分だけを晒しているが、そこにはたしかに家の痕跡があった。
ジズは静かに、踏み出していく。
家の前に立った。そこは玄関だった。あの日見た、割れた鏡がまだそこに落ちている。いまは真昼なので姿も映るが、夜になればもう映らないだろう。
「……ただいま」
玄関から足を踏み入れるが、なんの障害もない。当たり前のことだが、招かれなければ入れないというルールは自身の家には適用されない。
しばらくの間佇んでから、ジズは家の中を歩き回った。
入って左手が居間。かつてはここでダイニングテーブルを四つの椅子が囲んでいた。そこでは妹の横で食事の面倒を見るジズと、それを微笑ましく見守る父母の姿があった。居間の奥にはキッチンがあり、母が得意な煮込み料理の匂いが漂ってくるとうれしかった。
廊下に戻り、階段をのぼる――ことはできないので、頭上を見つめる。
階段を上がって、手前が自分と妹の部屋。奥が父と母の部屋。父母が寝静まったころに一階へ降りて、こっそり夕飯の残りを食べようとしたことがあった。戻ってくるときに軋む段を踏んでしまい、あわてて起きてきた父母にこっぴどく叱られたものだ。
天井の一部を切り取る天窓からは星がよく見えて、四人でこの階段に腰かけ星座を眺めたこともある。いっそ、屋根にのぼれば星に手が届くのではないかと思って、妹と梯子をかけようとしてまた叱られた。
でも叱ったあとにはいつも決まって、父は甘めのホットミルクを飲ませてくれた。子に嫌われたくないがためのご機嫌取りだったのかもしれない。ジズと妹はこっそりそう話し合い、くすくす笑った。
それら思い出がすべて炭と瓦礫に代わっている。
あの雪の夜に平和と平穏のすべてが終わり、ジズには闘争の日々だけが残された。
「カミラが居なければ、こうはならなかったんだ」
ひとりごちて、焼け落ちた暖炉の奥にいまだ残る炭と灰を握る。故郷に帰ってきたことで感じたのはこの、ただ果てない憎悪の再認識だった。
――フリーダとの一件のあと、異端審問会に入ることもできずジズたちはしばしさまよっていた。立場を失うと途端に国境はおろか市と市の間をまたぐことも難しくなるし、この頃は山などを歩いているだけでも『土地の所有権』によって『招かれた家以外に入れないルール』にひっかかり、身動き取れなくなることが起き始めていた。
旅のうまくいかなさに次第、二人は疲れ始めていた。
そこでジズが、フリーダの帰郷から連想してなんとはなしに故郷の様子を見に行きたいとウィルヘルミナに語ったところ、彼女が承諾していまに至る。
実際、来てよかったような気はする。
手を染める灰があの夜を思い出させ、擦り切れた精神を鼓舞してくれた。
あの日ジズの家族を殺していったカミラの、笑う顔。血濡れた手。すべてが正確に思い出されて、胸の奥で血がぐつぐつと煮え滾るのを感じた。
殺意が自分を再定義する。
強い目的意識はその他のあれこれを麻痺させる。麻痺させて、くれる。
「……次に来たときは、墓前に行く。復讐についての朗報を伝えるよ。きっと」
名残惜しく思いながらも掌から灰を払う。はらはらと舞い散る。
風に流れていく雨雲のような色合いに、ウィルヘルミナの髪を思い出したジズは少し表情を曇らせた。
†
来た道を戻り、ジズは川を越え村の中に入った。
日が暮れると面倒なことになると思い、ウィルヘルミナと合流したら早めに村を発つつもりだった。おそらく彼女は文句を言うが、本気で嫌がってるときとそうでないときくらいは見分けがつくようになってきたのが最近のジズである。
そんなこんなで村まで戻ってウィルヘルミナを探していると、不意にジズは呼び止められる。背後からの声は、年経た恰幅の良さを感じさせる太い音だった。
「おい、あんた……ちょっと」
「はい?」
「顔をよく、見せてくれないか」
奇妙な申し出に、ジズは振り返るのをやめる。
なんだか、厄介ごとの空気を感じた。ジズは呼びかけを無視して、通り過ぎようとする。
しかし男は強引で、ジズの肩を引き寄せた。無理にその手を外してもよかったが、それをやると傷つけるかもしれないとの躊躇が反応を遅らせた。
結果、
「……やはり……お前、ジズ……!」
名乗ってもいないのにジズの名を呼ぶ、白髪の男と顔を合わせることになる。
口髭と、たるんだ頬やまぶたが印象を変えていたが、大きな眼鏡の奥にあるまなざしは変わっていない。太い声の原因でもあろう太い体型もまた、順当に増えたのだろうことが分かる程度で想像の埒外という変化ではない。彼は――ジズの幼馴染だった。
「アンドレイ……か」
ジズのつぶやきに彼は、自分が相対する人物がかつての友だと確信を得たらしかった。
次いで、恐怖に慄く。
「おい……どういうことだ。お前、俺と同じ齢のはずだろう……その見た目はなんだ……? それに家を焼いて、家族の骨を置き去りにするだなんて……」
アンドレイはジズに疑いの目を向けてくる。
カミラの襲撃によって起きた火事に家を焼き尽くされてすぐ、ジズはウィルヘルミナとここを発った。ぐずぐずしていればカミラを追う異端審問に追いつかれ、同じく吸血鬼と化していたジズたちの命も危ぶまれたためだ。
けれど父母と妹の遺体を残して姿を消したというのは、齢を取らない姿で現れたことと併せて、あらぬ疑いをもたらしたらしい。
「お前あの日、悪魔に魂でも売ったのか?」
言い得て妙だった。相手は吸血鬼だが、悪魔に等しい。
アンドレイの言葉選びにある種胸がすく快さを覚えて、ジズは眉根を寄せながら、笑った。
「すまないな。父さん母さんと、妹の埋葬をさせて」
笑いかけながら軽い表情にのせて言うことで、アンドレイには決定的にジズを化け物と見てもらうよう誘導した。
半端に事情を説明して情を移されたりすると、まだまだ活発な異端審問会が『異端に与する者』と判じてアンドレイをも審問にかけかねない。そうさせないように、ジズとの繋がりを断ち切るための演技だった。
アンドレイは誘導に素直に乗る。笑うジズを悪魔憑きと見做して、指さしながら罵声を浴びせかけはじめた。
堕ちてしまった幼馴染について、心を痛めているからこそこうなるのだろう。四十一年もの歳月を経てもなお、ハーカー家について思い悩んでくれていたからこその態度だ。
「……ごめん、な」
これだけは笑わず、本心から言った。
踵を返し、その場から逃げ出す。もうきっと、会うことはない。あとは止まらず駆け続けた。
走る途中でウィルヘルミナが横合いから現れた。一杯ひっかけていたらしく目元が赤くて、片手の指の間に瓶を三本ぶら下げている。どうせエールだろう。
「もう行くの。墓地の方には行ってなかったけど、お墓参りはいいの?」
「僕が行けば家族がゆっくり眠れないよ。……悪いな、急がせて」
「まったくその通りね。ゆっくり飲む暇もないとは思わなかった」
言いつつ一本を飲み干し、空き瓶を放り投げる。面倒くさそうに走って先に橋を渡り終え、夕闇が迫る山に向かっていく。
背後、振り返ると村落では家屋の中に光が灯り始めている。中央広場にはランタンで辺りを照らしながら銃を手に出てくる人々の影が躍っており、その対応の早さに彼らが異形への対処を訓練していたことがうかがえた。
それがジズの家の焼失に起因するのか、その後の四十一年間になにかがあったための早さなのかはわからない。だがもう帰れないこの村が、いまも強く生きている証のように感じられた。
失われたものはあったが、失われていないものもあったのだ。
そのことがわかって、ジズは憎悪以外の気持ちが胸に熱を投じたのを感じた。
「……まあ。あなたがモチベーションを取り戻せたのなら、上等でしょうよ」
走りつづけながら、ウィルヘルミナはジズの顔を横目で見て言った。
労わるようなことを言う彼女に対して、ジズは似合わないな、とだけ思った。それ以上のことは、とくに感じなかった。
それこそが自分の変化だということには、かなり年月を置いてからしか気づけなかった。




