吸血鬼は善行を成さない
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「新人君はさ。もしかして私のこと、殺そうと思ってた?」
夜。衣服を替えて変装し、宿に潜り込んで互いの身の上を粗方話したあと。
ウィルヘルミナも交えて三者が詰める部屋の中、フリーダはそう言った。
ベッドに腰掛ける彼女の手には、槍がある。彼女の視線はその磨き抜かれた穂先に落ちており――つまりは鏡面に映らないジズとウィルヘルミナを、認めていた。
吸血鬼であると、認識をしていた。
「……正直、そいつを串刺しにしたときには。あなたを殺さない限り、僕の主を助けることはできないだろうと、頭をよぎりました」
窓辺のスツールに座っていたジズは、問いに本心を返した。フリーダは数秒、待ってから、「そっか」とだけつぶやく。ウィルヘルミナは我関せずといった顔つきで、ソファに不遜な態度で寝転がっていた。
「でも、私を守ったんだね。二度も」
ジョルジェの襲撃とウィルヘルミナの反撃、両方のことを言っているのだろう。もっとも、前者はそれこそ『自分が殺そうとしていたから』他者の殺意に気づけたもので、後者は自分の主がしでかしたことだ。
「人間は殺さない、殺させないと決めていたので……その通りに動いただけで、守るとかまっとうな考えは頭になかったです」
「でも『楽』に逃げようとしなかった。自分の目的を達することだけ考えたら、私を殺すか、見殺しにする方が簡単だったはずでしょう」
「頭をよぎりはしました。実行しなかっただけで」
「ちがうよ。きみは実行したんだよ」
まっすぐにジズを見て、フリーダは聞かせるように語った。
「『苦難』を選んで、実行したんだよ」
どこか、自分に言い聞かせているようでもあった。
次いで、ウィルヘルミナの方も見る。
「あなたも、苦難を選んでいるんだね」
「……なんの話よ」
ソファに転がり、無作法にも組んだ脚をひじ掛けの上に載せながら、ウィルヘルミナは気のない感じで言った。
「そこのわからずやを眷属にしてしまったことについては、あなたの言うとおりだけれど」
「ううん。そういうのじゃなくて……だってあなた、さっき私に見つけられてしまった理由が、『人を助けるため』だったでしょう?」
「……もう忘れたのよ。そんなこと」
スキットルからウイスキーを口に運び、ウィルヘルミナはフリーダと目を合わせない。代わりに、ジズが目を合わせた。
「人を?」
「うん。このところ、街の人が――吸血鬼の事件で――疑心暗鬼になって、ギスギスしていたみたいでね。ささいなことから喧嘩になっていて、それを止めようとして負った怪我を物陰で再生してたから、私はこの人を吸血鬼だと認めたのです」
「こいつが?」
目的のためなら平然とフリーダを殺そうとするし、復讐以外には我関せずの態度をとってばかりの、こいつが。
とても信じられず、ジズはソファの方を見た。とぷん、とスキットルを傾ける音がするだけで、やはり彼女は目を合わせようとしなかった。フリーダはこれを見ながら、つづける。
「自分で街の人を殺しておきながら、なぜ人助けはするのかな……と不思議に思いましたけど。結局、人を吸い殺したのはジョルジェで。この人はなにもしていなかったんだね」
「人助けのつもりなんて、ないのよ。邪魔だったからどかそうとしただけ」
感情の擦り切れた声で、ウィルヘルミナはそう言った。
けれど、ジズは。
よく考えてみれば彼女が……ウィルヘルミナが、復讐の邪魔にさえならなければわざわざ人を殺そうとはしないことを、知っていた。
人間にまぎれて暮らそうとできるだけの理性を保ち、内心がどうであれ自分に本当の危機が訪れない限り人を殺そうとはしないと、知っている。
フリーダの言うところの『楽』な選択肢があっても、ウィルヘルミナはジズにそれを提案こそするが、基本的に判断は(嫌味を言いながら)ジズに預ける。もちろんそれは自分の生命線である眷属たるジズを、『傷つけられないルール』があるから、ということもあろうが……それだけではないのかもしれない。
フリーダは沈黙する二人を見ながら、静かにつづけた。
「お二人の問答を聞いていて、なんだか私は自分のことを話されているように感じたの。身内だからとジョルジェを殺せなかったから、私は殺されそうになっていた。でもそもそもの、あの子を殺せなかった理由が……私が自分に弟殺しの業を背負わせたくなかった、っていう『楽』への逃げによるものだって。気づけました」
だから、と言ってフリーダは。
手にしていた槍の穂先を、鞘に納めた。
「私は異端審問官だけど――命を助けられたこと。吹っ切るきっかけをくれたこと。これら受けた恩に対して、お二人を見逃すことで報いましょう。ありがとう。きっかけをくれて」
微笑みに、今度は闇を感じない。
しかし、耐えきれなかったのか、頬を涙が伝った。
弟を殺めたという事実に向き合うには、彼女にとってこれから長い年月が必要だろう。
四十年経ってもまるで消えない復讐の火と向き合いつづけるジズは、そのように感じた。
†
翌日になり。フリーダはジョルジェの首だけでも故郷に持ち帰るつもりだと言うので、途中で道を分かれた。
「一族は国境守護だ、って言ってましたね。国境線付近だと結構遠いと思いますが」
とジズが言えば、
「それでも、きっと故郷の土の方がよく眠れるよ」
とフリーダは微笑んだ。
次いで、ウィルヘルミナにも意見を訊く。
「……それとも、自身が主吸血鬼になった『絶望』染みこむ土地では、眠れないでしょうか」
「さあね。ただ、城や家のない吸血鬼には帰る場所もない。そのことが生む喪失感というのは、あるでしょうよ」
遠まわしに故郷への埋葬を勧め、それきり口を開かなかった。
長身のフリーダの後ろ姿が見えなくなるまで、ジズとウィルヘルミナはその場に立っていた。
彼女が居なくなってから、ジズはため息をつく。
「見逃してはもらったけど、これでもう異端審問会に入ることはできないな」
「三十年もすればあの女も衰えているか死んでいるかでしょうよ。そのときに入りなおせばいいだけ」
「簡単に言ってくれるよ」
ジズは歩き出した。ウィルヘルミナはマントを翻し、後ろをついてくる。
「どこへ行くのよ、眷属」
「どこでもいいだろ。フリーダさんに会う方向でなければ」
「……それはそうね。私、しばらく槍とは戦いたくないもの」
どうやら槍が苦手になったらしい。無理もないことだと思いつつ、ジズは肩をすくめた。
それから、歩きつつ一言だけ、彼女に言葉をかける。
「すまない」
「あら。なにについての謝罪?」
「あの街で『一滴残らず血を吸われた死体』の話を聞いたとき、お前のことを疑った」
「ああ……くだらない。そんなことだったの」
ウィルヘルミナは鼻で笑い、ジズの横をすり抜けると早足で前を歩き始めた。
「いましなかっただけのことを、明日もしないとは限らないでしょうよ。単なる気まぐれを善行と考えるのはやめなさい。あなたも、あの女も」
「だったら、善行、善人ってのはいつ決まるんだ?」
「善が尊ばれるのはそれが希少で、離れがたいと思うからよ。つまり『惜しまれるとき』にしかそれは見つけてもらえないし、認められない。すなわち」
決まるのは、死んだときよ。
酷薄に言い放ち、ウィルヘルミナは歩速を緩めなかった。けれどそれはジズにとってちょうどよい速さで、二人はそびえる山の方向へと歩みを進めていった。




