苦楽の選択
「ウィっ……!」
おぞましい様となり果てたウィルヘルミナは、しかし、ジズが声を上げそうになるとぎょろりと両の眼を動かして制した。
まだ正体をバラす真似をするなと、そう命じていた。
その間にもフリーダは串打たれた魚のように身動き取れなくなったウィルヘルミナに長い腕を伸ばし、首を片手で鷲掴みにする。
「咽頭を内側から柄で圧迫されて、苦しいね。腹膜を擦り上げ、肺を傷つけ、口蓋を裂き割り……と、痛覚と苦しさを網羅するように串刺しにするのがこの技です。あまりの痛みに指一本動かせないから、いくら不死の吸血鬼といっても、槍から逃れることはできない」
ゴキん、とウィルヘルミナの頸椎を握り砕く。白目を剥くウィルヘルミナだが、死にはしない。この様を見て、ふむとフリーダはうなずいた。
「主吸血鬼だったんだ。じゃあこのまま七日七晩、放置しましょう」
平然と言う。微笑みを絶やさないまま言う。
あまりにも異常なこの様子に、割れた人波は恐怖の悲鳴を上げながら逃げまどっていた。
ジズも、また。
異端審問会の闇を煮詰めたようなこの女に、恐怖していた。
「ああ。この場にもしこの女の眷属が居たら、名乗り出てね。あなたの主の、苦しむ時間を減らしてあげられるから」
諸共に殺すという宣言である。もはや、状況は最悪のものとなった。
ジズは、もっとフリーダの戦い方について考えを深めておくべきだったと後悔した。野営の際に三体の主吸血鬼を倒したときのことを訊きだしてはいたが、決着の付け方についてはついぞ語られなかったのだ。
その理由は彼女の言を借りるなら「血腥いから」でもあったろうが、不死を無力化できる秘技だから、というのもあったのだろう。
主吸血鬼は頭部を撃たれて脳をこぼそうと全身を焼き尽くされようと再生するが、体が傷ついただけならば傷を癒着させて再生する。
それを逆手に取り、まさか槍一本で再生を阻害した上で『激痛により身動きを取れないようにし、七日七晩放置する』などという離れ業で始末していたとは。
「新人君。アシスト、おつかれさま。たぶんこれで任務は終了かな?」
微笑んだままフリーダは言う。
ジズは、必死に頭の中で生き延びる方策を探した。おそらくフリーダは七日七晩、ウィルヘルミナの傍を離れない。たとえウィルヘルミナが死んだフリをしても、用心深く最期の時を待つだろう。
しかし、いまのところジズのことは仲間として信用している。
野営から抜け出してウィルヘルミナに血を飲ませていたときのことを思い出す。
『――毒でも盛れば始末できるはずよ』
彼女は、そう言った。
最後のアイコンタクトは、そういうことか?
仲間のフリをして毒を盛れ、と。たしかに、それならばフリーダは殺せるだろう。
だがそれは人を殺めるということだ。ジズはカミラへの復讐を第一と考えてはいるが、それでも、人間を殺してまで目的を達成しようとは考えていない。死を振り撒く者と化してしまえば、それはカミラと同じだ。怪物に成り果ててはならない。
でも。
苦痛に身をよじり、その動きがまた己を傷つけ、際限ない悪夢の中に居るウィルヘルミナを救うには。ほかの手立ては、考え付かない。
……フリーダが目標に達し、ことが済んで一息ついているいま。
現在こそが。
殺せる、唯一の好機なのではないか?
頭の中でそのような黒い考えがよぎった。
よぎっていたからこそ、動けた。
「っ、フリーダさんッ!」
「……え?」
ジズが駆け込み、彼女を突き押す。
フリーダが地面に転がる。同時、彼女に血が降り注いだ。
腹部を思い切り貫かれた、ジズから飛び散る血の雨だった。我に返ったフリーダが叫ぶ。
「しっ新人君⁈」
「ぅぐ……」
胃袋をやられた。赤黒い血が口腔に込み上げ、げぽりと泡を伴い地面に垂れる。
血の行方を目で追う途中に、自分に突き刺さるものがなにかを視認する。
槍だ。黒い柄が長く伸び、骨ばった白い手がこれを掴んでいるのが見える。ぐりゅ、とひねって傷を広げながら抜こうとするのが見える。
視線を上向ける。使い手は痩せた、ブロンドの髪をした男だった。年の頃はジズの外見年齢と同じくらいだろうか。二十歳になるかどうかといった、まだあらゆる経験の浅そうな顔立ち。
穏やかそうに垂れた眉に苦笑の色を載せながら、男が口を開く。
「あーあ、しくじったなぁ。目的を達したときこそが狙い目だと思ったのに」
「な、に……?」
「ああ、気づいてなかったのかい? おれはずっと付け狙っていたんだよ。きみたちをね」
ジズの問い返しに、軽やかに笑いながら男は言った。槍を引き抜き、血の跡を残す。
「『追ってるやつは、追われてることに意外と気づかないもの』ってことさ。そのために人間吸い殺して、お誂え向きに居た別の吸血鬼に罪を擦りつけて、あんたらがこいつを討伐して達成感から気の緩みが出たところを突く。……そこまでは、いい感じに進んでいたんだけどね……邪魔されるとは思わなかった。いい相棒を持ったみたいだね? 姉さん」
男はせせら笑った。
ジズは、血の軌跡の向こう、地面に転がる彼女を見やる。
男とフリーダの、穏やかそうな眉と。まったく同じ色のブロンドが、目に焼き付く。
「……ジョルジェ……」
フリーダは、はじめてひきつった表情を見せた。
なによりも雄弁に、その顔が男の語りを信実だと裏付ける。
男――ジョルジェは、フリーダの弟であるらしい。
そして。
「ジョル、ジェ……あなたは……いや、あなたをっ、私は、今日こそ、仕留めるっ!」
激昂するフリーダが、一瞬にしてウィルヘルミナを串刺しにしていた槍を抜く。右手で中ほどを、左手で石突のあたりを握って、稲光のような速さでジョルジェへと間合いを詰めた。
けれどジョルジェはこの雷を止めてみせた。
「おれを刺すならこいつを殺すよ? 姉さん」
ジズの腹から引き抜いた槍を、今度は喉元に向けていた。
これを見た途端に、フリーダは突きを止める。いかに彼女が雷のごとき速さでも、ジョルジェの方が一手早かった。彼はにたり、と笑う。
「そうだよね。姉さんは自分のせいで、これ以上だれかを死なせるわけにはいかないものね。くくく、足手まといの新人が居るときを狙って、本当によかったよ」
「ジョルジェ……やめて、お願い、お願いだから」
「『お願いだから』? その次に、なんて言うのさ」
「……っく、うっ、うううぅ……」
「まさか『死んでちょうだい』なんて言わないよね? 弟相手に! この世でただひとり生き残ってる、血を分けたきょうだいに! 異端の存在になったから死んでほしいだなんて、まさか、言いはしないよね⁈」
自分で言っていておかしくなってしまったのか、ジョルジェは哄笑をあげた。その間も、フリーダの穂先は震えるばかりで一寸たりとも先へは進めなかった。
だからこのタイミングで動けたのは、
むしろ先ほどまで身動きの取れなかった二人の方だ。
ウィルヘルミナとジズが、その場から飛び出す。
彼女は喉から脚の間にかけて、ブラウスとロングスカートを真っ赤に染め。彼は突き付けられた穂先で頸動脈を切り裂かれ、司祭服を真っ赤に濡らし。
直後、互いの得物を抜いた。
円刃連鎖の横薙ぎと、杭の投擲が弾き合う。チッと舌打ちし、ウィルヘルミナはフリーダに刃が届かなかったことを嘆いた。
すぐさまジズがフリーダの背後に立ち、主が眷属を傷つけられないルールによってウィルヘルミナからの追撃を防ぐ。
「……や、め、ろ」
切られた喉からの出血でぎざぎざした発音になりながら、ジズは自身の主を止めた。
ウィルヘルミナは怒りに燃える。
「殺さなければ殺される! あなたは手をこまねいて自分の死をただ見ているつもりなの? いい加減理解なさい、あなたは吸血鬼なのよ!!」
「そうやって自分の都合だけを見つめた《奴》の妄執こそが、僕とお前の家族が死んだ原因だろうが!」
「あなた死にたいの⁈」
「死にたくはない! でもっ、いまここで『楽』に逃げようとした自分を否定しなきゃ、いつか僕はカミラと同じになる!」
その上で奴を討っても、自分を誇れない。気ままに生きた結果ジズの家族とウィルヘルミナの母を殺したカミラを、その生き様ごと否定してやらなくては、気が済まない。
「カミラを否定するには、奴とちがう生き方を貫かなきゃいけない……お前だってそう思っているから、延命以外の吸血を一切しないんじゃないのか?」
ジズからの言葉に、ウィルヘルミナはひどく嫌そうな顔をした。
それから、しぶしぶと言った顔で、円刃連鎖を構えた手を下ろす。
この、一挙動よりも少しだけ早く。
ジズの背後で風切り音がした。
振り返る。
因縁絡み合う姉弟二人の姿が、視界から消えている。
「……そうだね。新人君の言う通りだよ」
フリーダは低く屈みこんでいた。肩には槍の柄。穂先から滴り落ちてくる血が彼女の手を染めている。
次いで立ち上がり、石突を地に突き立て穂先を天へ向けた。
影が差す。
上に跳ね上げられていたジョルジェが、頭から落ちてくるところだった。さあっと青ざめて、ジョルジェが焦燥に駆られた悲鳴を上げる。
「ねっ姉さ、嘘だろ、おれを、こ、殺すのか⁈」
「さよなら、ジョルジェ。私は――もう、『楽』に逃げない」
喉笛から槍を飲み込んだジョルジェは、くぐもった絶叫を上げ続けた。
フリーダはその傍らに寄り添い、無言でうつむいていた。絶叫の意図を、込められたであろう怨嗟を、少しでも身の内に刻み込もうとしているかのようだった。
じきに、彼の眷属吸血鬼であるという少女があたりを囲む衆目の中から現れる。
彼女は涙ながらに主の苦痛からの解放を願い、フリーダはそれを叶えた。
頸を握りつぶされた少女が地面に転がり、これを見たジョルジェは咆えた。けれど眷属を失ったことにより落ちていく再生力の中、声は次第に小さくなる。
フリーダはジョルジェが落とした槍を握ると、
静かに彼の首を切り離した。
「おやすみ」
苦悶の表情で固まった弟の首を抱き、フリーダは膝から崩れ落ちた。




