67 本州一の猛獣と戦士
動物ショーに来場している他の人間に見つからないように檻に近寄ってみると、そのツキノワグマは想像を絶する巨体だった。
説明しよう。
ツキノワグマとは体長最大180センチメートル、体重120キロもある猛獣で、日本では本州のみに住む熊である。令和の世でもツキノワグマによる被害は後をたたず、2016年には7人が被害に遭い、うち4人が食べられてしまうという悲劇が起きたことで有名である。
そして、このツキノワグマはそんな通常サイズではなかった。体調はゆうに2メートルを超えており、体重は想像もつかないほどのボリューム感を持っている。その爪は凶暴に光り、牙は人間なんぞひと噛みで噛み潰すほどの物騒な鈍い輝きを見せている。
「来たか、白い犬」
腹の底まで響くような、野太い声。その声を聞いた途端、横にいたチャトランは思わずブルブルと身震いしていた。あの勇敢なチャトランですら恐れる存在。だが、今はがっしりとした檻に囲まれている。万が一にも、この新品の檻が壊されることはあるまい。
「なにか俺に用でもあるのか?」
「……ふーむ」
ツキノワグマは、俺を舐め回すようにジロジロと見つめる。これ、檻がなかったらまたチビっちゃっていたかもしれない。デート相手のチャトランの前でチビることにならなくってよかった、と俺は心底安堵する。
「なるほどな。実はな、テレビでお前のことを見た」
うん? 熊なのにテレビなんか見るの?
そっか、俺ってクマの世界でも有名犬なんだぁ!とちょっとだけ嬉しく思う。
「お前、何か武道を嗜んでいるな? 足運びが普通の犬と違う」
「えっ?」
これには驚いた。達人は達人を知るという。まあ俺は達人というわけではないが、俺のちょっとした歩き方で「武道を嗜んでいる」ということがわかるなんて、このクマ、只の野生の熊というわけではなさそうだ。
「……ふむ。よくわかった。なあに、有名な犬がいたのでちょっと話してみたかっただけだ。今日は存分に動物ショーを楽しんで行くが良い」
「……ありがとうごさいます」
言葉はあくまでも丁寧だが、剣呑な雰囲気は隠せない。俺はこのクマから、直接的ではないが敵意のようなものを向けられているのを最初から感じている。
俺はクマの檻の上部に書かれているボードを見る。
そこには「本州一の猛獣・ツキノワグマ/オス/名前:球磨嵐」と書かれていた。
球磨嵐……俺はその名を心に刻んだ。
今は信じられないが、こいつとはいつか、刃を交えるような気がする。それは予感というより、ある種の確信に近い感覚だ。
「行こう、チャトラン」
俺はくるりとクマの檻に背を向けると、その場を立ち去った。早く、その場を離れたかったのだ。
その後、通りがかった一番大きなテントには、何か変なマークとアルファベットが描かれている看板が付けられていた。
M >――< O
アルファベットの「M」と「O」の間に、左右を向いた山括弧と棒線。何を意味しているのか全くわからなかったが、多分この団体の名称とシンボルマークなのだろうか。
まあ、無料でわざわざこんなことをするぐらいの団体だ。お金持ちが道楽でやっているか、きっといい人たちの集団なのだろう。シンボルマークとか、どうでもいいか。
「帰るつもりなの? モフ」
チャトランが俺に尋ねる。いつもの自信あふれる女帝の声色ではない。不安げな、心配そうな、か細い聞き方だった。彼女も、あのツキノワグマ・球磨嵐に影響を受けたらしい。俺は無理に笑顔を作って、チャトランに振り向いた。
「ああ。実はせっかくここまで来たから、久しぶりにチワワのくーちゃんの家に遊びに行きたくてさ。チャトラン、付き合ってくれる?」
作り笑顔、バレてないかな。真顔のチャトランを見ながら俺は少し心配になる。だがチャトランはふっと表情を緩め、笑顔になった。
「ええ。デートにはおじゃま虫だけど、あなたの友人だから会ってみたいわ」
くーちゃんは友人なのか? そうなのか? よくわからないけど、とりあえず良しとしよう。俺はチャトランを伴い、くーちゃんの家に向かった。
◇◇◇
くーちゃんが住む家の庭に入ると、この日はお爺さんが庭木の手入れをしていた。通販で買ったかのような高枝切り鋏を器用に扱いながら、庭の柿の木の枝を剪定している。
お爺さんは庭に侵入してきたポメラニアンとトラ猫を見つけると、やさしく声をかけてくれた。
「おお、たしかそっちの白い犬は、うちのくーちゃんの友達だったなぁ。くーちゃんは居間で、ばーさんといっしょにおるよ。そこから上がっていきな」
この老夫婦にとって庭に入ってきた動物は、すべてくーちゃんの友人らしい。ま、入りやすくていいけどね。でも人間は簡単に家にあげない方がいいと思うよ、おじいちゃん。
俺たちは縁側に上がると網戸を前足で開け、居間へと入っていく。すると、昼寝をしているらしいおばあさんの隣に、目を爛々と輝かせたチワワがこちらを向いて立っていた。短い尻尾がプリプリプリと振られ、なんだか可愛い。まさかこの犬が、この辺り1番のパワーの持ち主で、元暴れん坊、現在は戦士と呼ばれている存在だとは思えないほどだ。
「モフ きた。ながく いなかった。元気か?」
おお、ちゃんと日本語(日本動物語)を話せているじゃないか! 半年ですごい進歩だ。
「ひさしぶり 俺は元気 くーちゃんは元気か?」
なんだかカタコト言葉が移ってしまった。となりのチャトランがクスリと笑う。
「おれ、元気。モフ ききたいこと ある いま いいか?」
「うん、何が聞きたいんだ?」
「おまえ 大きいどうぶつ みたか 川のちかく おおきい くろいどうぶつ」
「大きい動物……?」
すぐに思い浮かぶのは、さっき見たばかりのツキノワグマ、球磨嵐だ。
「おれ じっちゃんといっしょに 見た あのどうぶつ つよい おれ かてない つよすぎワロタ」
なんだか語尾だけ変なネットスラングが混じっているが、こいつも令和から転生してきたフィリピン人だ。変な言葉だけ、日本人の船長に教わりでもしたのだろうか。
それはいい、肝心なのは話の中身だ。あの巨大アライグマ・ガスカルをぶっ飛ばした、パワー溢れるくーちゃん。その彼が、球磨嵐には勝てないと判断しているとは思わなかった。
「おれ しゅぎょうちゅう アレキサンドルといっしょ がんばる おまえも がんばれ モフ」
そう言うと、くーちゃんはじっと俺を見つめてきた。もしかしたら力強い眼差しのつもりかもしれないが、チワワの目力では「かわいい」としか思えない。でも、気持ちは受け取った。
「おう! 修行して、一緒にアイツを倒そうぜ!」
「りょ」
まるでギャルのラインみたいな返事だった。いや違うぞくーちゃん。令和の最新のギャルが使う「了解」は「り」一文字だ。
相変わらずどうでもいいツッコミを心の中でしながら、俺とチャトランは戦士くーちゃんの家を後にした。
だが、俺とチャトランのデートはこれで終わりではなかった。まさか帰り道、あんな予想もしない出会いが待っているとは、この時の俺は知る由もなかった。




