【コミカライズ】無能の姫は黒騎士の愛に溶かされる
◾️コミカライズのお知らせ
2024/10/17にFLOS COMIC様より発売される『皆が恐れるあの方は、私の最高の旦那さまです!アンソロジーコミック』に原作として参加させていただくことになりました! sawaco先生が素敵な漫画にしてくださりましたので、ぜひチェックしてみてください。
「必ず帰ってきてくださいね」
「ああ。約束だ」
(そんなところでしょうね)
リゼリアは城下に見える男女の会話を推測する。二人は恋人同士なのだろう。抱きしめ合って熱烈な口付けを交わしている。
クレオア王国におけるキスは、単に愛情を示すだけの行為ではない。口付けを交わすことにより、女性から男性への魔力の補給を行うのだ。
城下で口付けが交わされているのも、今から出兵する騎士団の恋人に、女性が魔力を渡しているのだろう。
この国では当たり前の光景を『羨ましい』とリゼリアは思う。何故ならリゼリア自身は、当たり前のことすら満足にこなせないからだ。
(ここから落ちたら死んでしまえるのかしら)
リゼリアは部屋の窓から身を乗り出してみる。
死にたいわけではないが、この世界から自分の存在が人知れず消えてしまえば良いのに、と時折思う。
ここは牢獄のようだ。自由がなくて息苦しい。
リゼリアは窓枠に座り、古い寝台と机しかない小さな部屋を見回して肩を落とす。物置小屋とも呼べるこの場所がリゼリアの自室であり、一人きりになれる唯一の場所である。
要するに、リゼリアは城に幽閉されている。
結婚相手が見つかれば城から出られるかもしれないが、魔力を練ることができず、両親――つまりは王と王妃にも見放されている役立たずを、誰が嫁に欲しがるのだろう。
(……私も誰かを愛し、愛されてみたかった)
ノックもなしに突然部屋の扉が勢いよく開く。
リゼリアは驚きのあまり背中から真っ逆さまに地上へと落ちるところだった。
ずかずかと入ってきた初老のメイドは、開口一番にリゼリアを叱咤する。
「姫様、風に煽られて落ちたらどうするおつもりですか! 貴女は魔法が使えないというのに」
「済みません」
リゼリアは反射的に謝罪を口にする。
謝罪は姫に相応しくない行為だとよく怒られるが、謝らなければ反省の色が見えないと更に怒られるので、いつの間にか謝り癖が染み付いてしまった。
「陛下がお呼びです。今すぐ謁見の間にお向かいください」
「お父様が?」
珍しいこともあるものだ。不思議に思いながら、リゼリアは言われた通り謁見の間に向かおうとする。
「はぁ……。その姿で向かわれるおつもりですか。みっともない」
メイドはわざとらしく溜め息をついた。リゼリアの服装についてを言っているのだろう。
今着ているドレスは嫁に行った姉のお下がりで、サイズが合っていないうえ、着古したせいで布地が傷んでいる。
「これでも私が持っているドレスの中ではましな方です」
(そんなこと、何年も私付きのメイドをしている貴女はよく知っているでしょう?)
鼻の奥がつんとする。リゼリアは唇を噛み締め、部屋前の衛兵に同行するよう声をかけた。彼がついてくるのは護衛のためではない。リゼリアが城から逃げ出さぬよう見張るためだ。
恐る恐る謁見の間に入ると、国王は玉座にどっかり腰を下ろし、退屈そうに髭をいじっている。しばらく会わずにいるうちに、頭髪は随分寂しくなっていた。
「喜べリゼリア、お前の結婚が決まった」
国王は淡々と言ってのけた。
「結婚……ですか?」
予想だにしていなかった言葉にリゼリアは呆然とする。
これまで魔法の使えない末の姫に何の興味も示さなかった国王が、何故急に結婚を決めたのだろう。
不思議で仕方なかったが、王の真意はすぐに明らかとなる。
「嫁ぎ先はザールセンの騎士団長、セイン゠ド゠エルネストだ」
(えっ?)
リゼリアは目を丸くする。
「私は隣国へ人質に出されるということでしょうか」
ザールセン王国とは昨年の武力衝突以降、何度も小規模な戦いを繰り返している。
先ほど恋人との別れを惜しんでいた騎士団の青年も、大方ザールセンとの国境沿いに向かうのだろう。
そこへ嫁に行けということは、つまり同盟交渉を円滑に進めるための材料となれということだ。幸せな結婚とは程遠い。
しかも結婚相手は冷酷非道故に黒騎士と呼ばれ、恐れられている騎士団の長ときた。
城に引き篭もっているリゼリアの耳にも入るほど悪名高い人物だ。他国から嫁いできた嫁をどのように扱うか、想像しただけで目の前が真っ暗になる。
「このまま隣国との仲が拗れ、大きな戦争に発展すれば多くの死人が出るどころか、この国の存続も危うい。お前も分かるだろう?」
「……はい」
「少しは国の役に立ってくれ」
「はい……」
国王の命に逆らえるはずがない。リゼリアは震えながらも頷くしかなかった。
父は嬉しそうでも、哀しそうでもなかった。やはり、実の子であるはずのリゼリアに対して何の興味もないのだ。
「あら、リゼリア。顔面蒼白じゃないの」
「ティアナお姉様……いらしていたのですね」
謁見の間を出たところで、一番上の姉に出くわした。彼女は複数いる兄弟姉妹の中でも一際国王に愛されている。
美麗の公爵に嫁いだ今尚、頻繁に父の元を訪れていると聞いた。
「もしかして嫁ぎ先の話を聞いたのかしら」
「はい」
「良かったじゃない。魔力なしを貰ってくれる心優しい方が現れたのだから、貴女はもっと喜ぶべきよ」
姉は立派な巻き髪と豊満な胸をを揺らしながら近づいてくる。
「お相手はまさか私が魔力なしとは思っていないのではないでしょうか」
「そうかもしれないわね。クレオアの王族は人並み以上の魔力を持つことが普通だもの」
ティアナは哀れみの目で妹を見る。
彼女は心からリゼリアを哀れんでいるわけではない。ただ、妹を見下し、要らぬ世話を焼き、反応を見て愉しんでいるだけだ。
昔からそうだった。魔法の使えない姫を外に出すのは危険だと言って、リゼリアを城の小さな部屋に閉じ込めたのも彼女、ティアナである。
「実はお父様もそのことで悩んでいらっしゃったのよ。でも未婚の姫は貴女しかいないし、私、助言したの。リゼリアなら容姿だけは優れているから大丈夫でしょう、と」
「そんな……」
ティアナの口が弧を描く。
「ふふ、貴女の結婚が決まったのは私のお陰なのよ」
優しいお姉様に何か言うことは? という圧を感じる。
「ありがとう……ございます」
「そんな、恐縮しなくてもいいのに。お祝いの品を考えておくわね」
ティアナは甘ったるいコロンの香りを振り撒きながら、機嫌良さげに謁見の間へ入っていった。きっと国王に「リゼリアはとても喜んでいたわ」とでも言うつもりだろう。
◇◆◇
リゼリアは今まで着たこともない真紅の派手なドレスを着せられ、馬車に揺られていた。
目的地は隣国の国境である。そこで、ザールセンからの迎えの馬車に乗り換え、嫁ぎ先に向かうのだ。
これからのことを考えると恐ろしかったが、城から殆ど出たことのないリゼリアは、初めて見る景色に少しだけ心を慰められる。
街を抜け、緑豊かな郊外を抜け、丘を越えてしばらくすると、乾いた赤砂が広がる荒野に出た。
何もない場所にぽつんと建てられた石塔を囲むように、異国の馬車と護衛らしき騎乗の人影が見えてくる。
(黒塗りの馬車……あの一行がザールセンからの迎えね)
クレオア王国の馬車や騎士団員の服には白が用いられているのに対し、ザールセン王国は黒と紫を基調としているようだ。陰鬱で、おどろおどろしい雰囲気がある。
両国の遣いが合流すると、リゼリアと積荷の引き渡しが始まった。
「貴女一人ですか?」
「ええ」
自ら歩み出たリゼリアに、くすんで黒っぽく見える甲冑と鎧に身を包んだ男が尋ねる。
クレオア側の護衛が騎士団の人間であるように、相手側の護衛も黒騎士団の人間なのだろう。強者らしいオーラや身のこなし方から、なんとなくそうであるような気がした。
「身の回りの世話をする者はお連れでないと」
「……はい。私の国では身一つで嫁ぐことが普通なのです。そちらの国では無礼にあたるのでしょうか」
リゼリアは震える手を握り締め、動揺を悟られぬように言葉を返した。二国の言葉はよく似ているため、意思疎通に問題はない。
「貴女が構わないのであれば、こちらは構いません。荷積みが済み次第発ちましょう。馬車でお待ちください」
黒騎士らしき人物は、勝手に抱いた想像よりも優しく、礼儀正しかった。リゼリアをエスコートし、乗車を手伝ってくれる。
クレオアで馬車に乗り込む時は、長いドレスの裾を踏まぬよう、一人で格闘したものだ。
(国の姫が従者の一人も連れていないなんて、不審に思われなかったかしら)
リゼリアは馬の中で一人になると、小さく息を漏らす。
身一つで嫁ぐことが普通など、大嘘だ。どの姉も、嫁ぐ時はお付きのメイドを連れて城を出て行った。
一番上の姉、ティアナの時はお気に入りの料理人や庭師に至るまで軒並み連れて行ったと記憶している。
単にリゼリアについてきてくれる人物がいなかっただけだ。嫌々ついてこられてもリゼリアが窮屈な思いをするだけなので、これで良かったと思っているが。
コツ、コツ。
控えめなノックの後、馬車の扉が開いた。
「間もなく発ちます。置いてある水と食事は好きにお召し上がりください。道中何か問題があれば、そちらのベルを鳴らしてお知らせを」
「何から何まで、ありがとうございます」
「……」
リゼリアが礼を言うと、鎧姿の男は無言で佇んだまま離れない。甲冑のせいで表情も、視線の先も分からなかったが、彼はリゼリアを凝視しているようだ。
「何か?」
「いえ、何も」
扉が閉まり、馬車は旦那となる男の元へと走り出す。異国での結婚生活がいよいよ始まろうとしていた。
◇◆◇
「ああ、セイン。戻っていたのか」
執務中にどこをほっつき歩いていたのか。
戻ってきた部屋の主、マルク゠ノブレス゠ザールセンは、扉の前に佇む黒騎士団の長を見て大袈裟に驚く。
「先程着いたところだ」
クレオアの姫の身柄引き受けから戻り次第、報告に来るよう命じたことを、彼は忘れていたに違いない。
これがザールセンの次期国王というのだから世も末だ、とセインが不敬の思想に至るのは、乳母子として生まれた時から一緒に育った旧知の仲だからだろう。
「で、クレオアの姫はどうだった?」
「……まだ分からない」
「ははーん。噂通りの美人だったと見た。どうせ我儘で醜悪な女だろうと嫌がっていたわりに、大人しいもん」
マルク王子はにやにやと軽薄な笑みを浮かべて見せる。セインは無性に腹が立ち、剣の柄に手をかけた。
「首を刎ねるぞ」
「反逆罪でお前も断頭台行きだ」
王子は鼻で笑い、魔法で部屋の灯りをつけて執務机に腰を下ろす。
「道中、何か報告すべきようなことはあったか?」
「特にはないが、リゼリア゠ノイ゠クレオアについて、何か知っていることはあるか」
セインはマルクの姉妹がそうであるように、姫とは高飛車で我儘で可愛げがない存在だと思い込んでいた。
ところが、クレオアの姫は礼儀正しく謙虚で、触れたら壊れてしまいそうなほど儚く見えた。
クレオアの王族の特徴とされる金髪碧眼でなければ替え玉を疑うほど、セインの想像とかけ離れている。
「うーん、身辺調査で分かっているのは箱入り娘ということくらいかな。彼女に関してはあまり情報がなくてね。――ああ、あと一つだけ。どうやら彼女には魔力がなく、魔法が使えないようだ」
「全く使えないのか?」
「恐らく」
これにはセインも少々驚く。魔力量に個人差はあれど、魔法を全く使えない人間というのは珍しい。
「あちらの国の風習からして、国内で貰い手を見つけるのは難しかったのかもしれないね」
(厄介払いということか)
セインは大方を把握した。ザールセンに同行する従者が一人もいないことからしても、彼女は自国で大切に扱われていなかったと推測する。
「マルク、停戦の申し入れは受けるな?」
「勿論。こちらとしても無駄な戦争は避けたいし、贈られたのが魔力なしの姫だとしてもセインには何ら問題ないだろう」
「俺に不都合はないが、魔道具だらけの家をどうにかしなければならない」
セインの邸宅は魔法が使えることを前提に作られている。使用人がいるとはいえ、自分一人で灯りもつけられないようではきっと困る。
「異国の地に一人で心細いはずだから、奥さんを大切にしてあげるんだよ。その様子なら心配無用そうだけど」
マルクは愉しそうだ。
女にも結婚にも興味がないと言っていた乳母子が、異国から迎えた妻を気にかけている様子が面白いのだろう。
「停戦合意が進んだからといって、クレオア王国に寝首をかかれないよう気をつけろ」
「心配せずともあらゆることを想定し、対策を打っているよ」
呑気な王子に忠告をし、セインは邸宅へと向かう。
(怯えられなければ良いが)
この国に、セインと結婚したがる女性はいない。血濡れの騎士団長の二つ名を持つ人間だからだ。
◇◆◇
「リゼリア様、本当にお美しいです〜!!」
「ありがとうございます」
興奮気味に拍手をする若いメイドに、リゼリアは苦笑いを返す。自国では褒められたことがないため、どう反応して良いか分からない。
リゼリアは夫となる男の家に着くなり、そのドレスは似合っていないとメイドに連行されたのだった。
リゼリアの部屋だという場所は、クレオアの自室の五倍はあった。煌めくシャンデリアに、立派な調度品の数々がリゼリアを迎え、目が眩むと同時に申し訳ない気持ちになる。
クローゼットにはぎっしりと衣服が用意されており、そこからメイドが選んだ薄い青のドレスを着せられた。
「可愛らしいドレスですね」
「リゼリア様は華奢で儚げ美人ですから、淡くて繊細なドレスがよく似合うと思います。これらは既製品なので、今度旦那様におねだりしてより合ったものを作ってもらいましょう」
ツインテールのメイドは楽しげに言うと、はっと驚いたような表情をする。
「はっ、申し遅れすぎました! 私、貴女付きのメイドとなるアマリーです」
「リゼリア゠ノイ゠クレオアです。これからよろしくお願いします、アマリー。私はこの国のことをよく知らないので、色々教えてください」
「お任せください。こう見えても少し前までお城の使用人として働いていたので、きっとお役に立てるかと!」
アマリーは誇らしげに胸を張った。嫌味っぽさはなく、ただただ元気で可愛らしいメイドさんだ。
リゼリアは胸を撫で下ろす。例え結婚相手が冷酷非道の騎士団長だったとしても、彼女のような明るく友好的な人間が側に居てくれるのならなんとかやっていけるかもしれない。
(なんだか本当のお姫様になった気分)
鏡の前でくるりと回ってみる。着るもの一つで見違えるようだとリゼリアは驚いた。自分が自分でないような感覚に包まれ、しばらく鏡を見ていると、急に下の階が騒がしくなる。
「旦那様がお帰りのようです」
「旦那、様……」
つまりはリゼリアの夫となる人のことだ。セイン゠ド゠エルネスト。爵位は伯爵で黒騎士団の長。結婚するというのに、知らされているのはそれだけである。
「怖がらなくても大丈夫ですよ。確かに血濡れの騎士として恐れられていますし、無口で怖い印象を受けますが、恐らくお優しい方です」
アマリーは無邪気に言うが、『恐らく』という言葉が気がかりだ。
リゼリアはメイドの後について螺旋階段を降りる。ぐるりと回って正面に降り立つと、幾人もの使用人が控える中央に背の高い男が立っている。
「リゼリア゠ノイ゠クレオアだな」
「はい。確かに」
男の重苦しい雰囲気に、リゼリアは恐怖よりも「この方の健康状態は大丈夫なのかしら?」と感じた。
黒髪と生気のない深い青の目が一層そう感じさせるのかもしれないが、彼は病でも患っているかのように不健康そうだ。
「セイン゠ド゠エルネストだ。知っていると思うが、騎士団長を務めている」
聞き覚えのある低い声は、ザールセンに入る時に案内してくれた鎧の男のものと良く似ている。話し方は異なるがもしや、とリゼリアは思う。
「エルネスト様、ふつつかな娘ですが、どうぞよろしくお願いいたします」
「君も今日からエルネスト伯爵夫人だ。セインで良い」
「はい、セイン様」
不健康そうで無愛想なことを除けば、旦那様は想像よりも若く、見惚れてしまうほど美しい人だった。
「リゼリア、こちらへ」
言われるがまま、リゼリアは男の元へと歩み寄る。どのくらいまで近づけば良いか分からず戸惑っていると、腰を引き寄せられ、それに驚く間もなく口付けをされる。
「どうだ?」
「え? え……っと、柔らかく、甘くて……蕩けるようでした」
辺りはしん、としている。
リゼリアは何が起きたのかよく分からず、瞬きを繰り返した。
(……私、今、キスをされたのでしょうか?)
「俺の聞き方が悪かった。魔力は感じられるか?」
「魔力、ですか?」
魔力など生まれてこのかた感じた試しがない。書物を読み、色々試してみたが何をしてもリゼリアは魔力を生み出すことが出来なかった。
セインは眉間に皺を寄せると、リゼリアの腕を掴んで歩き出す。力強かったが、腕が痛むほどではない。
「しばらく二人きりにしてくれ」
家の主人がそう言ったので、使用人たちは連れられていくリゼリアを見送るだけだった。
彼の自室と思わしき部屋に連れ込まれたリゼリアは、革製のソファに座るよう命じられる。これから何をされるのか、僅かに恐怖を覚えながらも従順に応じる。
「済みません」
「何故謝る」
「私に魔力がないことが分かり、落胆されましたよね」
「そのことなら既に知っている」
セインは騎士団の制服らしき外套を脱ぎ、黒の手袋を外す。
「……魔力を与えることのできない妻で申し訳ありません」
「妻が魔力を分け与えることを美徳とする風習はこの国にはない。それに俺は魔力が有り余っている」
リゼリアの真横に彼は腰を下ろした。密着具合にリゼリアは思わずびくりとしてしまう。これほど至近距離に誰かがいるというのは、物心ついてからの記憶にない。
決してセインを拒んだわけではないが、勘違いさせてしまったようだ。彼は無表情のまま小さく溜め息をつく。
「そう怯えなくても――いや、無理か」
「済みません」
リゼリアはまた咄嗟に謝罪を口にしてしまった。謝り癖を怒られるかと思いきや、彼はぎこちない手つきでリゼリアの頭を撫でた。
「魔法が使えないというのは本当だな」
「正確には生まれつき、魔力を練ることができないのです」
「十分な魔力が与えられれば使えるということか?」
「試したことがないので分かりません」
魔力を分け与える場合、粘膜の接触が一番効率的とされている。そのため、軽々しく試せることではないのだ。
「もう一度、今度は多めに魔力を流す。君が嫌でなければ試してほしい」
「そんな、勿体無いです」
「問題ない。俺の場合、溜まりすぎた魔力が体を蝕むくらいだ」
彼が不健康に見えるのは魔力量のせいなのかもしれないと、リゼリアは納得した。
何かの文献で、自らの許容量を超える魔力を得た時、身体が耐えきれなくなり肉体が崩壊すると読んだことがある。
「それではお言葉に甘えて」
「少し我慢してくれ」
セインはリゼリアの顎をくいと引き、唇を触れ合わせ、舌を差し入れた。どうして良いか分からず、リゼリアはただただそれを受け入れる。
嫌悪感はない。むしろ魔力を移すための行為だと理解しているのに、リゼリアの胸は高鳴る。恋人たちが口付けをして魔力を分け与えている姿にずっと憧れてきたからだ。
(この感じ……これが魔力?)
甘くて温かい何かが、身体中に染み渡っていく。魔力を得て身体が喜んでいるのか、リゼリアは言葉にできないほどの幸福に包まれた。
ぼんやりしていると、彼の体が離れていく。
「上手く行ったようだな。魔法の使い方に関する知識はあるか?」
「は、はい。一通りは勉強しました」
リゼリアはハッと我に帰り、基礎魔法の使い方を脳裏に思い描いた。
「この家は魔道具だらけだ。魔法が使えないと生活に困る。試しにそこにあるランプの灯りをつけてみてくれ」
「やってみます」
手元に意識を集中させ、魔力らしき温かいものを指先へと集めていく。その指で、ランプの魔力注入部に触れた。瞬間、ガラスが爆ぜる。
バリンッ
リゼリアは咄嗟に目を閉じたが、破片が飛んでくることはなかった。薄っすら目を開けると、リゼリアの前に薄い膜のようなものが張られている。恐らくセインが魔法で護ってくれたのだろう。
「加減を覚える必要があるな」
「す、すみません……」
前途多難だが、どうやらリゼリアは魔力さえ与えられれば魔法が使えるらしい。
◇◆◇
リゼリアは毎日決まった時間に起こされる。といっても、メイドが呼びに来る頃には自然と目が覚めているのだが。
アマリーに世話をされ、朝の身支度を済ませてからリゼリアは下の階へと降りる。夫である男は既に騎士団の服装で紅茶を飲むなどしており、妻が姿を現すとわざわざ席を立って朝食の卓までエスコートをしてくれる。
「おはよう、リゼリア」
「おはようございます」
そして、必ず口付け――魔力の授与を行うのだ。祖国ではろくに朝食を与えられてこなかったリゼリアは、魔力が与えられるだけでお腹いっぱいに感じてしまう。
今日は特別な日なのだろうか、と思うほど豪華な朝食をセインと共に食べた後は、仕事に出ていく彼を見送る。
「行ってくる」
「行ってらっしゃいませ」
この時も短い口付けを交わす。魔力の交換を伴わない、挨拶としてのキスだ。初めて見送りのキスを求められた時は驚いたが、この国ではこれが普通なのだろうと思うようになった。
日中は本を読んでザールセン王国のことを学んだり、刺繍や裁縫をしたりして、夫が帰るまでの時間は自由に過ごさせてもらっている。
「ただいま」
「無事のお帰り、何よりです」
セインが帰ってくる頃には外は真っ暗だ。リゼリアはいつでも彼を出迎えられるよう、玄関から近い一階のリビングで待つようにしている。
見送りも、出迎えも、セインから指示されたことではなく、リゼリアが率先して行っていることだ。このくらいしか、自分にできることが思いつかなかったとも言える。
「困ったことはなかったか?」
「はい、おかげさまで」
セインは帰ってくると、再び魔力の供給をしてくれる。つまりは、唇を重ねる。それから二人で夕食をとり、就寝の準備に移るというのが一日の流れだ。
「おやすみ」
「おやすみなさい」
就寝前はセインがリゼリアの部屋を訪ねてくる。彼は妻としての務めを求めることはなく、触れるだけのキスをして出ていく。
「愛されてますねぇ」
アマリーは一連の様子を見て、しみじみ呟いた。
「そうですか?」
小さな部屋に押し込められ、冷遇されて育ったリゼリアからしたら、今の生活は恵まれすぎているとは思うが、セインに愛されているのかは分からない。
「使用人たちは皆、旦那様の意外な姿に驚いていますよ。あれは絶対一目惚れだという噂でもちきりです」
「そうなのですね」
リゼリアは微笑み返したが、自分のような無能に騎士団長が一目惚れすることなどあり得ないと思う。彼はただ、クレオア王国との和平のため、人質兼妻である存在に形式上優しくしてくれているだけだろう。
「リゼリア様、灯りはご自分で消しますか?」
「はい。もう少し本を読んでから寝ることにします」
「何かあったらいつでもお呼び出しください」
アマリーは寝台で読書をするリゼリアに一礼をすると、さっと部屋から出て行った。ぐちぐち文句を言い続ける祖国のメイドとは比べ物にならないくらい、素晴らしいメイドだ。
(さて、今日は治癒魔法の章ね)
リゼリアは練習と勉強の甲斐があり、一通りの生活魔法を使えるようになっていた。魔法が使えるようになったことが嬉しくて、今では高等魔法に関する書物を読み漁っている。
折角魔力を分け与えてもらえているのだから、何か彼の役に立つことを覚えたいとリゼリアは考えているのだった。
本を読み始めてどれくらい経っただろうか。控えめなノック音がして、リゼリアは一時読書を中断する。何か用事を思い出し、アマリーが戻ってきたのかと思った。
「はい、どうぞ」
音もなしに扉が開き、隙間から黒い影が入ってくる。アマリーではない。一瞬誰なのかを判別できずに、リゼリアは悲鳴を上げそうになる。
「驚かせて済まない」
「セイン様? どうかされましたか?」
セインは険しい顔で仁王立ちし、リゼリアを睨んでいる。
何か怒らせるようなことをしてしまったのだろうか。黒騎士から発せられる強い魔力のオーラにリゼリアは震えた。
「先程伝えそびれたが、周囲が休みを取れとうるさく、明日は非番だ」
「そうでしたか。邪魔にならないようにしますので、明日はゆっくりお休みになってください」
「街へ出掛けないか?」
リゼリアは思わず「えっ?」と聞き返してしまいそうになる。この人はたったこれだけを言うために、敵を睨みつけるような恐ろしい形相をしていたのだろうか。
「嫌なら断ってくれて構わない」
「驚いただけで嫌ではありません。ただ、セイン様が本当はお一人で過ごしたいようであれば、私のことはお気になさらないでください」
「俺が君と過ごしたいんだ」
「それではぜひ」
張り詰めていた空気がふっと緩む。
セインは相変わらずの無表情で「おやすみ」と言い、静かに部屋を出て行った。本当に、明日の外出を伝えるためだけに来たらしい。
(私、セイン様と一緒に街へ出掛けられるの?)
形式上は結婚しているのだから、夫と出掛けることは何ら不思議ではないのかもしれない。
けれども、長年城に閉じ込められていたリゼリアは、自分が街へ出掛けられること自体が夢のように感じられる。
リゼリアは、あの人はただ夫として最低限の務めを果たそうとしてくれているだけだ、と自分に言い聞かせる。そうでないと、要らぬ期待に胸がドキドキしてしまい眠れそうになかった。
◇◆◇
「何でも好きな物を買うと良い」
「えーっと……」
寝不足で迎えた翌日、リゼリアは連れて来てもらった服飾店で途方に暮れていた。
普通の『服飾店』も、普通の『買い物』もよく知らないリゼリアだったが、今置かれている状況は少し異常なのではないかと思う。
なにせ、セインが到着するなり店にいた他の客は追い出され――というよりは皆、逃げ出すように退散してしまい、残された店員たちの表情には恐怖が滲んでいる。どうやら、黒騎士団の長はザールセン内でも恐れられているようだ。
一方、セインはふかふかの赤い絨毯が敷き詰められた広い店内を見回して、好きに買い物をしろと言うのだった。
リゼリアはそもそも買い物の仕方が分からない。店内に飾られているドレスやアクセサリーは明らかに上質なもので、きっと相応に高価だろう。簡単に選んで良いものなのだろうか。
店員は目を合わせようとしてくれないので、リゼリアは益々どうして良いか分からず立ち尽くす。
「女性は買い物が好きだと思ったが、違ったか? ここはザールセンの中でも特に人気の店だと聞いた」
「私は買い物をした経験があまりないので、少し戸惑っております」
苦笑いを浮かべるリゼリアに彼は言う。
「君は本当に姫らしくないな」
「済みません」
リゼリアはまた、咄嗟に謝ってしまった。セインの表情がかたいため、怒られているように感じてしまう。
「言い方が悪かった。どんな我儘姫が嫁いでくるかと思いきや、君のように大人しい人だったから安堵しているということだ」
姫らしくないとは祖国でもよく言われた。それは大体悪い意味で使われていたが、彼の中では違ったらしい。
(セイン様、もしかすると動揺していらっしゃる?)
彼の声は少しばかり上擦っている。見た目は怖いが、優しい人だ。リゼリアの気を害したと思い、必死に弁解してくれているのだろう。
「セイン様、よろしければ私に似合うものを一緒に選んでいただけませんか?」
「俺はこうしたものの良し悪しは良く分からない」
「私も良く分かりません。ですから、セイン様が似合うと思ったものを身につけたいのです」
セインは頷くと、似合いそうなものをいくつか見繕って持ってくるよう店員に頼む。
初めは怯えていた店員だったが、意外にも穏やかな騎士団長の姿に安心したのか、徐々に商人魂を取り戻していったようだ。
オーダーメイドデザインのドレスを勧められ、セインは値段も聞かずに数点作るよう依頼した。他にも靴や寝巻き、ネックレスから髪飾りに至るまで、彼はどんどん選んでいく。
体のサイズを測ってくれた老齢の女性が、「旦那様にとても愛されているのですね」と微笑を浮かべて呟いた。
リゼリアが申し訳ない気持ちでいっぱいだと話すと、彼女は「殿方の施しには、お礼を言うことが最高のお返しだ」と教えてくれる。
「こんなにたくさん買ってくださり、ありがとうございます」
次々馬車に運ばれていく品を見て、リゼリアは旦那様に礼を言う。
「構わない。他に使うあてもないしな」
自分のものは何一つ買っていないというのに、セインは満足そうだった。
これからは謝罪ではなく、出来る限りお礼を口にしよう。リゼリアはまた一つ学んだ。
「そういえば、クレオアの王から、会食の誘いが来ている」
「お父様から?」
「君にも同行してもらいたい。今日買ったものはその時に着ていくと良い」
「はい」
クレオア国王が末の娘に興味を示すとは思えないので、恐らく外交の一環だろう。和平の話でもするのだろうか。
以前のリゼリアなら憂鬱な気持ちになっただろうが、買ってもらったドレスに身を包み、セインの隣を歩くこと想像すると、会食の日が楽しみに感じられた。
「オーダーメイドの品は完成次第、お届けに上がります。本日は誠にありがとうございました。またいつでもご用命ください」
店主だというふくよかな男は、店の外まで見送りに付いてきた。馬車へと向かうエルネスト夫妻に深く頭を下げる。
「初めてのお買い物、緊張しました」
「初めて?」
「この国での、という意味です」
うっかり口を滑らせてしまったリゼリアは、慌てて誤魔化す。姫らしくないところに好感を持ってもらえているうちは良いが、本当に姫なのか疑われるようになっては困る。
リゼリアにとってはこれが、クレオア王国の役に立つ最初で最後のチャンスだろう。和平を乱すような真似をしてはならない。
「リゼリア、甘いものは好きか? この後は最近流行っているという氷菓子の店に行こうと思っている」
「氷菓子ですか。初めて聞きます。楽しみです」
氷魔法で作るのだとセインが教えてくれる。
リゼリアは甘いものが好きだ。それはこの国に来てから知ったことである。氷菓子とはどのようなものなのだろうと胸を躍らせ、馬車に乗り込もうとした時だった。
「リゼリア、目を瞑って」
「え?」
セインの骨ばった手がリゼリアの目元を覆う。
触れ合った場所から全身が粟立つ程の魔力を感じた瞬間、何か柔らかいものが貫かれ、どちゃりと崩れ落ちる音がする。
きゃああああっっっ!!!
女性の悲鳴が聞こえ、何か恐ろしいことが起きたのだとリゼリアは悟った。きっと、セインが誰かに魔法で攻撃したのであろうことも。
「セイン様……大丈夫ですか?」
「済まない、仕事ができてしまった。氷菓子は今度にしよう。良いと言うまで目を瞑っていてくれ」
ひょいと体が持ち上がる。セインに抱き上げられたらしい。彼の許可が下り、目を開けると馬車の中だった。
「家まで送りたいところだが、俺はここに残る。君と馬車には魔法を三重にかけた。御者も元騎士だ。戦いの心得はある」
「はい。セイン様もお気をつけて」
リゼリアがそう言うと、セインは珍しく眉尻を下げ、僅かに笑う。悲しそうな、嬉しそうな、何とも言えない表情に、リゼリアの胸はぎゅっと苦しくなる。
「俺が怖くないのか?」
「少し、怖いですけれど……」
怖くないと言ったら嘘になる。けれど、彼が不当に力を振るう人間には思えない。
「私にとっては優しい旦那様です」
「……そうか」
セインの顔が近づいてくる。リゼリアは目を閉じ、甘い口付けを受け入れた。
◇◆◇
「マルク」
「おー、怖っ。そのつい先程殺ってきましたオーラ、どうにかならない?」
執務机でうたた寝をしていたマルク王子はびくりと肩を跳ね上げる。
その剽軽なオーラはどうにかならないものか、とセインは王子に思う。今は生産性のない言い合いをしている場合ではないので、口には出さなかったが。
「街で襲われた。調べたところ、どうやらクレオアが雇った刺客らしい」
「血濡れの騎士団長を襲うなんて、クレオアは随分と勇敢な選択をするね」
「狙われたのは俺じゃない。リゼリアだ」
あの時、通行人に扮した刺客は魔力ごと気配を断ち、リゼリアを狙っていた。
セインのように戦闘経験を積んだ人間であれば、魔法の発動前の微かな予兆で殺意に気づくので、返り討ちは容易ではあった。今までも、これからも、リゼリアを護る自信はある。しかしながら、そういうことではない。
クレオアは、彼女の国は、和平を願って異国に嫁いだ姫を切り捨てようとしたのだ。
「だから怒っているわけね」
「何が和平だ。自ら戦いの火種を蒔こうとしているくせに」
「本当にね。今回の件でクレオアの思惑は明らかだ。後はどう対処するかだな」
マルクは少し癖のある前髪を弄りながら言う。いい加減そうに見えて聡い男だ。僅かな情報から多くのことを想像し、全てを言わずとも的確に理解する。
刺客をけしかけたクレオアの思惑は恐らく、全面戦争の開始だろう。
リゼリアを屠り、大切な末の姫が殺されたとザールセンを責めるつもりなのだ。厄介な黒騎士団長の処分までも要求してくるに違いない。
「向こうにいる協力者に聞いたけど、彼女、ずっと城に幽閉されていたみたい。そうなったのは、妹の美貌を恨んだ姉の陰謀だとか」
「通りで時折おかしな発言をするわけだ」
セインの中で静かに怒りが燃える。
(彼女はもう、俺の妻だ。妻の命を狙う者を許すことはできない)
魔法でクレオアの城ごと吹き飛ばしてしまおうか。セインの人並外れた魔力量ならそれも可能だ。
「セイン、怒り任せにクレオアに殴り込むのはやめてくれよ」
「止めるのであれば、何か方法を考えろ」
「そうだねぇ。どうやら城の中にもネズミが紛れ込んでいるみたいなんだ。折角なら上手く泳がして会食の場で一芝居打ってみようか」
王子は組んだ手に顎を乗せ、にやりと笑う。セインよりも策略家で、一応やる時はやる男だ。こうなればセインは幼馴染の計画通りに動けば良い。
◇◆◇
会食はザールセンの王城で行われるらしい。クレオアからは国王と王妃――後妻であるためリゼリアの母親ではない――そして外交を担うハリオット公爵とその妻ティアナが出席すると聞いている。
リゼリアは一番上の姉まで会食に同席すると知り、動揺した。彼女が関わって、何か良いことが起きた試しがない。むしろ逆だ。
会食当日、リゼリアは早朝から複数の使用人の手で磨き上げられた。仕上がりを見たアマリーには「はわ〜! 眩しいです!! リゼリア様は女神ですか!?」と驚かれた。
セインも「よく似合っている」と言ってくれたが、すぐにそっぽを向いてしまったので、お気に召さなかったのかもしれない。
「こんにちは。マルク゠ノブレス゠ザールセンです」
王城にはセインの都合で少し早めに到着した。応接間にて幼馴染であるという赤毛の男を紹介されるが、その男の名前なら流石のリゼリアでも知っている。
「マルク……王子……?」
「ようやく会えて嬉しいよ。セインのやつがなかなか紹介してくれなくてね。噂通り美しい人だ。そのドレスもよく似合っている」
「セイン様が選んでくださったドレスなんです」
「へぇ。あのセインが」
王子はリゼリアの手をとると、甲にキスを落とす。
自分がクレオアの姫であった自覚のないリゼリアは、王子の気さくな振る舞いに卒倒しそうになった。
「マルク……人の妻に手を出すな」
「ただの挨拶だって。殺る気満々で睨まないでよ。そんなに嫌なら、常にくっついていること」
王子はダンスのリードをするかのように、リゼリアの手を引いてセインの元へ連れて行った。手を離された拍子によろめいたリゼリアを、セインが抱き留める。
「二人とも顔が真っ赤だ。ウブで可愛いね」
王子は愉しそうに声を出して笑った。
「殿下、団長、クレオアからの馬車が城下町の門を抜けました。間もなく到着します」
部屋の外から声が掛かる。いよいよだ。リゼリアは深呼吸をして、心の準備にとりかかる。
マルク王子とその婚約者、そしてセインとリゼリアは城のエントランスに立ち、クレオアからの重客を出迎えた。何か粗相があれば国際問題に発展しかねないので、城の中には緊張感が漂っている。
クレオアの国王はリゼリアどころか、マルク王子の前をも素通りした。愛想笑い一つ浮かべず、気怠げに歩く男は傲慢そのものだ。
彼の愛娘であるティアナとその旦那は対照的に、甘ったるいコロンの香りを撒き散らしながら笑顔で挨拶をするが、何もかも嫌味にしか聞こえない。
「リゼリア、ご機嫌よう。心配していたけれど、こちらの国で随分と幸せな生活をさせてもらっているようね」
「彼女、心配で食事が喉を通らなかったくらいなんだよ。君は優しい姉を持って幸せだね」
リゼリアは「普段が食べ過ぎなのではありませんか?」と言いたくなるのをぐっとこらえ、姉と義兄に上辺だけの礼を言う。
「お義兄様、お姉様、ありがとうございます」
「心配なら無用だ。ここにいた方が彼女はクレオアよりも良い暮らしができるだろう。何せ、余計なお節介を焼く姉がいないのだから」
横からセインが口を挟んだ。形式上は旦那である彼の挑発的な態度にリゼリアはぎょっとする。
「あら、随分とこの子にご執心なのね」
「リゼリアは美しくて、慎ましく、素直で愛らしい姫だ。他国へ嫁にやる決断をしたクレオアの国王には感謝している」
「……そう、良かったわ」
姉の顔から笑顔が消える。面白くない、という表情で歩いていってしまった。
「セイン様、姉が済みません」
「俺こそ済まない。君が我慢する様子を見ていたら口を出さずにはいられなかった」
(私ったら、そんなに分かりやすく顔に出ていたのでしょうか)
姉についてをセインに語ったことはない。彼が何故、姉の嫌味に気付いたのかは不思議だったが、言い返してくれて嬉しかった。
(機嫌を悪くした姉が、変なことを考えなければ良いのだけれど……)
昔から、姉は気を悪くするとリゼリアにあたるのだ。
リゼリアの心配をよそに、会食自体は滞りなく進んだ。態度の悪いクレオアの王も、流石にザールセンの王とは世間話をするようであった。
姉の夫、ハリオット公爵は外交官にも拘らず、自分の話ばかりだ。リゼリアは相手をさせられているマルク王子に申し訳なく思う。
デザートを食べ終えた後、姉は「手洗いに行く」と一度席を立ち、上機嫌で戻ってきた。リゼリアは姉の笑顔に嫌な予感を覚える。あれは何か企んでいる時の顔だ。
リゼリアの不安が現実となったのは、食事を終え、ティーサロンへ移動する時のことだった。
「きゃっ!」
一行の最後尾を歩いていたリゼリアは、突然強い力で体を押され、冷たい大理石の上に倒れ込む。
(セイン様?)
リゼリアを押したのは他の誰でもない。横を歩き、エスコートをしていたセインだ。
一体何があったのか。リゼリアが顔を上げると、セインは立ち止まっている。背から腹にかけて彼の体を異物が貫いており、銀の刃を伝ってながら落ちた赤い液体が床を染めていた。
「セイン様、血が……」
「大丈夫、だ。怪我はないか?」
大丈夫でないことは明らかだ。それなのにセインはリゼリアの心配をしてくれる。彼はリゼリアを庇って刺されたのだ。
「そこの君は魔法医を呼んで。残りの者は犯人の確保を!!」
マルク王子が指示を出すと、止まっていた時間が動き始める。セインを刺し、ガラス窓を突き破って逃げた男は王城の使用人だった。
(何故顔見知りでもない私を狙ったの?)
クレオア王国に恨みでもあるのだろうか。もしくは、騎士団長の嫁に相応しくない人物だと思われたのだろうか。
「どうしてなの……」
リゼリアの代わりに姉のティアナが呟く。
彼女は事件に驚いているようだったが、怯えているというより、不可解な顔をしているように見えた。まるで何故リゼリアでなく、セインが刺されたのか? とでも考えているかのように。
「ザールセンは随分と野蛮な国だね。刺されていたのがクレオア王だったらどうなっていたことか」
ハリオット公爵はセインを気遣うでもなく、そう言ってのける。どこか棒読みの台詞にリゼリアが驚いていると、ティアナも声を張った。
「そ、そうよ。これは国際問題よ」
「お義兄様、お姉様、今はそれどころでは……」
長い刃はセインの腹部を完全に貫いてしまっている。彼は真っ青な顔で床に膝をついた。
「セイン様、お気を確かに」
「……急所は外れている、心配、いらない」
セインは今にも死んでしまいそうな声で言う。
リゼリアは新しいドレスが血塗れになることも厭わず、セインがより掛かることができるようそばに寄った。
「リゼリア嬢、落ち着いて。この程度であればうちの魔法医が治癒魔法ですぐに治す」
王子は落ち着いた声でリゼリアを宥めるが、肝心の魔法医の姿は未だ見えない。
「治癒魔法! 治癒魔法ですね!?」
リゼリアはセインから譲り受けた、できる限りの魔力を練り始める。
(大丈夫、できるはずだわ)
治癒魔法の呪文は全て本で覚えた。体内に異物が残っている場合の対処知識もある。実践経験は――小鳥の折れた羽を治した程度しかないが、求められる繊細さは同じだろう。
冷静さを失ったリゼリアは、痛みに苦しむセインを助けたい一心で魔法を展開した。
居合わせた一同が、リゼリアを中心に広がった眩い光の魔法陣を呆然と見つめている。
まずは防御魔法の要領で止血をし、異物と毒素を取り除き、最後に破れた部分を丁寧に繋ぎ合わせる。
「何故貴女が治癒魔法を? 魔法が使えないんじゃなかったの!?」
姉が金切り声を上げるが、リゼリアは無視をする。治癒魔法は最後の最後まで気が抜けない。
一連の処置が終わり、セインの体に開いた穴が完全に塞がれると、リゼリアは急な魔力放出による目眩に襲われた。
「リゼリア、ありがとう」
今度は回復したセインがリゼリアを抱き留める。人前だというのに、彼は口移しで失った分の魔力を注いでくれた。
「ははは! リゼリア嬢ったら想像以上だよ。魔力はないのに、魔法の才能はあったんだね」
マルク王子は腹を抱えて笑い始める。
「治癒魔法使いは貴重だから、ザールセンとしては魔法の才に溢れた素敵なお姫様を迎えることができてとてもありがたいよ」
これまで大人しくしていた王子の豹変ぶりに、リゼリアは驚いた。通路を進んだ先でザールセンの王、つまりは王子の父親が顔を手で覆い、項垂れているのが見える。
「治癒魔法が使えるとなると話は違いますわ! お父様、リゼリアを国に呼び戻して頂戴。適当に魔力供給をして、国の役に立ってもらいましょう」
ティアナも負けず劣らず、体裁そっちのけで自分勝手な意見を述べる。
「治癒魔法をもってしても、貴女の性格の悪さと老いは治せないんじゃないかな」
マルク王子が鼻で笑うと、ティアナは地団駄を踏む。
「失敬な!! 妹を連れ去っておきながら、取り戻そうとする私まで侮辱するなんて国際問題ですわ!!」
「そうだ!! 我が妻を侮辱するなど、赦せるはずがない。和平の話はなかったことにしてもらう!!」
ハリオット公爵がティアナに加担するが、二人とも言っていることが無茶苦茶だ。
リゼリアは激昂する姉夫婦を宥めようとしたが、「マルクに任せておけ」とセインに止められる。
「本当に頭の悪い人たちだ。黒騎士団の長たるセインが、あんな原始的な襲撃を避けられなかったと思う? ザールセン王国が城に紛れ込んだネズミに気づかないとでも?」
「なっ、何が言いたいのです?」
ティアナは王子に気押されて、じりじりと後ずさる。
「刺客を雇い、王城に忍び込ませ、リゼリア嬢を殺そうとしていたのは君たちだね?」
「証拠がありませんわ」
「犯人を捕らえ、吐かせれば済む話だろう。頭の悪い雇い主なんて、すぐに裏切られるさ」
「そそそ、そんなことは!!」
タイミング良く「犯人を捕まえました!」と騎士団の人間が走ってくると、姉夫婦は分かりやすく怯えて見せた。
「大方、リゼリアをザールセンの人間が殺したことにして国を脅そうと考えたのだろうけど……そんなに全面戦争がしたいなら、受けて立つよ」
マルク王子は笑顔で言う。
リゼリアはザールセンで暮らしていくなら、この王子は敵に回してはならない人だと直感した。
◇◆◇
会食からしばらくして、ザールセン王国とクレオア王国の間では正式に停戦の合意が結ばれた。
中身はザールセンに有利な内容だったが、全面戦争に発展すればもっと酷い結果になっていたに違いない。
クレオア国王も流石にあの一件で姉夫婦に愛想を尽かしたらしく、ハリオット公爵は爵位を剥奪され、姉は貧しい庶民暮らしに発狂しているという噂を聞いた。
一方、リゼリアの生活は何ら変わっていない。セインはリゼリアを形式上の妻として扱い、毎日口移しで魔力を分け与えてくれている。
「リゼリア、おやすみ」
「セイン様……あの、私はもう用済みなのではないでしょうか」
このままで良いのだろうか。気になったリゼリアは就寝前に勇気を出して尋ねてみる。
「用済みとはどういうことだ」
「私は和平のため、人質として嫁いできた身です。停戦の合意が結ばれた今、無理をして夫婦を続ける必要はないように思います」
その言葉を聞いて、セインはぴくりと眉を動かした。
「リゼリアは無理をしているのか?」
「いえ……私は……」
リゼリアは許されるのなら、形式的にではなく、本物の妻としてエルネスト邸で暮らしたい思う。けれど、そのように浅ましく無相応な願いを自ら申し出ることはできない。
「俺は君を人質だと思ったことも、飾りの妻だと思ったこともない」
「それは女として見れないということでしょうか」
「何故そうなる……」
セインが目配せをすると、壁際に控えていたメイドのアマリーはそそくさと部屋を出ていった。
枕を背に寝台に座るリゼリアは、セインの真摯な瞳にドキリとして姿勢を正す。
彼はリゼリアの手を取り、薬指の根元に軽く口付けた。
「リゼリア、君を愛している。一目惚れだった。君が嫌でなければこのまま結婚生活を続けてほしい」
「セイン様が私を……愛してくださっている?」
「そうでなければ、魔力供給のためだったとしても毎朝毎晩口付けなどしない」
「そう、ですか」
かぁっと頰が熱くなり、リゼリアはもう一方の手で顔を仰いだ。
「返事を聞かせてくれ」
リゼリアに覆い被さるようにしてセインの顔が近づいてくる。彼の首に手を回し、目を閉じて唇が重なるのを待った。
温かく、甘い魔力が体内に流れ込んでくる。体中に染み渡り、全身がとろとろに溶けていくようだ。
(ああ、セイン様はずっと私を愛してくださっていたのね)
甘い魔力の正体を今になって理解した。
「私もセイン様のことが好きです。浅ましい願いと知りつつも、愛されたいと思っていました」
「俺なりに愛しているつもりだったが、足りなかったようだ。これからは言葉でも行為でも君に伝わるよう努力する」
セインは珍しく目を細めて微笑んだ。
その日、二人は初めて並んで眠った。一晩中誰かの温もりを感じられるというのは、孤独に生きてきたリゼリアにとっては泣きたいほど幸せなことだった。
〈了〉
短編にしては長めですが、ここまで読んでくださりありがとうございました。☆をポチッとしていただけると大変励みになります!