おろし金になった男
明け方早い時間に目が醒めた。枕元のスマホと眼鏡を手元に引き寄せメールのチェックをした。
台所で音がする。妻がすでに朝食と私の弁当の支度をしてくれているのだろう。
早めの出社を心がけ、それだけが取り柄の私でもまだ早すぎるかもしれない。
スマホを元の場所に戻そうとして私はバランスを崩し、ベッドから落ちた。
カタン、と音がする。
何か別のものが落ちた音だと思ったのだが、勘違いだった。
私自身がカタンという音でベッドから落下したのだ。
どういうはずみかベッドから落ちたら別の何かになってしまったようだ。
身体は動かないが、視線を横に移すと妻の姿見があった。
よくよく目を凝らすが、ベッドの横に『おろし金』があるほか何も見えない。
大根などをおろすのに使うあのおろし金だ。
何としたことか私はおろし金になってしまったようだ。
妻が寝室に入ってくる。
しかし私の姿がベッドにないので、一度出て行った。
しばらくして首を傾げながら、もう一度寝室に戻ってくる。
「あなた。どこですか」
ベッドの横のおろし金が私だと気づくのにしばらくの時間が必要だった。
おろし金の近くに落ちる眼鏡を見て悲しげな声をあげた。
「あら、あなた。おろし金になってしまったのですか」
妻は少しの間考え込み、私の年老いた母を呼びにいった。
「お母様。あの人がこんな姿に」
「まあ、これは大変」
「お母様。どうしたら」
「会社に連絡して今日はお休みさせていただきましょう」
「はい」
「一旦ベッドに戻しておきましょう。一晩休めば元に戻っているかもしれません」
「わかりました。…それでも元に戻らなかったら」
母は額に手を当て、妻は私を見下ろしながらしばらく黙り込んだ。
「お医者さんに連れて行くしかないでしょうね」
「お医者さんでいいのでしょうか。おろし金なのに」
「そうですねえ。荒物屋さんの方がいいのかしら」
妻がそっと私をつまむとベッドに丁寧に置いて、布団をかけた。
夕方になっても私はおろし金のままだった。
朝から夕方までおろし金の身体で色々なことを考えたが、すべて無駄であることだけがわかった。
窓に夕焼けが滲む頃、妻が寝室にそっと入ってきた。
「あなた。お加減はどうですか」
そう言って私をつまむと、ダイニングに連れていく。
「お母様。やはりおろし金のままでした」
「そうですか。何か食べ合わせが悪かったのかもしれませんね」
そう言いながら母は焼いた鯖をグリルから出して、皿に盛り付けた。
「食事にしましょう」
「はい、お母様」
「申し訳ありません。大根おろしを忘れました」
妻が言って、大根を野菜室から出した。
それから妻と母はおろし金を探すが、どうしたことか見当たらない。
「ありませんね」
「はい、お母様。どうしたら」
妻がチラリと私を見た。
母が少しだけ間を空けてから、妻に静かな声で言う。
「仕方ありませんね。使わせていただきましょう」
「わかりました」
「あなた。許してね」
妻はホッとした表情で私を握り、大根を下ろし始める。
いいのだ。私はおろし金なのだから、そうやって使ってくれればいいのだ。
私は初めて私があるべき使われ方をされたことにようやく落ち着く。
そして人間であった頃から今に至るまでになかったほどの安堵感を覚えた。
読んでいただきありがとうございます。
数日前、少しだけ頭痛のする夜に書きました。




