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強く賢くなればいい

 授業が終わる度に廊下に溢れ出す子供たちの声が、保健室まで届いてくる。悩みのない人はいないとは聞くけれど、この学校で今一番深刻に悩んでいるのは紛れもなく自分なのだと実感する。彼らと私の間にはとても広い川が横たわっていて、川の水が日増しに増していく。そこに橋などなくて対岸でひとりぼっちの私は、みんなが当たり前としている日常に流れていくのを、指を咥えて眺めているしかない。


 孤独。


 だけど、岳彦の唐突な告白を聞いたら、彼はこちら側にいるのだという気がした。でも、大変な出来事を乗り越えて今があるなら、あちら側にいるべきだ。わざわざこちら側に戻ってくるのはどうだろう。私は、とんでもない負荷を岳彦にかけてしまっている気がして、申し訳ない気持ちになっていた。


 保健の先生も、担任も、岳彦も、私に関わるときっと嫌な思いをする。私は生まれて来なければ良かった子なのかもしれない。


 昼休み。前田先生が来て、丸椅子に腰掛けながら「まだ寝ていなさい」と言ってくれた。


「話ができるなら、今聞いておきたいんだけど。つばめの口から聞きたい」


 普段は威圧感がある前田先生は、深刻そうな顔つきで私を覗き込んでくる。この人は、どこまで他人の家庭に踏み込む覚悟があるのだろうか、と気になった。


「何があったんだ?」


「先生。私が話したら、どんなことが起こるんですか?」


「え?」


 先生は目を丸くした。


「誰かが警察に捕まるんですか?」


 私の言葉に、先生はさらに驚愕の表情を浮かべ中腰になる。でも、すぐに気を取り直したようにぐっと拳をひざの上で握りしめて、身を乗り出した。


「そういう心配はまだ気が早いよ。家族間で起きたことはある程度家族の中で解決するのが望ましいんだ。早々警察沙汰には……」


 そう言いながらも、先生の目は泳いでいた。最近のニュースでは、よく私ぐらいの子供が親の手によって死んでいたりする。私もいつか見ず知らずのアナウンサーに名前を連呼され、報道される素材になってしまうのだろうかと想像してしまうと、それはそれで妙な緊張が重く圧し掛かってくる。


「そうならないためにも、早く手を打ちたいんだ。つばめにとって悪いようにはならないと思う」


「思う、じゃ足りません!」


 私は起き上がった勢いでそう言った。つい、口からこぼれた本音だ。


「私、今夜にもお父さんに殺されるかもしれない。いや、お母さんに……」


 どっちも、恐ろしい。何を考えているのか、わからないし、わかりたくもない。ただ、怖い。とても、怖い!


「私が、家庭のことを学校に話したとバレたらどんなキツイおしおきをされるか……」


 世間体を第一に気にする両親だ。恥じ晒しだと攻め立てられるに決まっている。自分の仕出かした罪の重さに悲鳴が飛び出しそうになる。


「落ち着きなさい。大丈夫だから! ほら、こっちを見て。ぼくの目を見るんだ、つばめ!」


 前田先生は日焼けした顔で、私の真正面に顔を近付けた。真っすぐな眼差し。それでも、なんだか頼りない。頼って良いのかわからないというのが、本音だ。ことが大きくなるということは、こういうことなのだ。


「……こんなに震えて。よっぽど、怖い目に遇ったんだな?」


 囁くようにそう言われて、私の目から大粒の涙が伝い落ちていく。


 消えたお金もそうだけど、両親の間に漂う不穏な空気を吸えば、どんなに健康な子供でも三日でおかしくなる。ストレスは毒だ。


 体の自由も奪われて、今私は結局先生達を巻き込む方へと進むしかない。


「午後四時に、おまえのお母さんが来る。その時、おまえを連れて帰しても良いのかどうか判断するためにも、ありのまま話してくれないか? 先生は力になりたいんだ。おまえを、おまえの両親から守れる大人は先生しかいないんだ、と思ってる」


 前田先生の言葉から並々ならない覚悟を感じた。


 私は、自分の服の袖で涙を拭いて顔を上げる。先生の真剣な眼差しを見つめ返した。


「一週間前。うちの中で、五十万円とお母さんの指輪が消えたんです」


 ◇


 校長室には、前田先生と保健の先生、そして校長先生が待機していた。午後四時なのに、学校の校門から来客用駐車場に入ってきた車を保健室の窓から見ていたら、お父さんも一緒に来たのがわかった。


私は見つからないようにカーテンに身を隠して、隙間からそれを覗き見ていた。


 すぐ後ろには岳彦がいてくれている。私の頭の上から、同じく両親の車を眺めていた。


「……あれが、おまえの両親」


「うん……」


 車から降りたお父さんはネクタイを締め直し、服の皺を整えてドアを閉めた。助手席のお母さんは駆け込むように玄関へと向かっていく。お父さんは悠々とした歩き方で玄関へと入っていく。


「……不協和音が聞こえそうだな」


「うん……」


 私は思わずため息を吐いた。


 前田先生には、時系列で起きたことをありのまま話した。不穏な緊張感漂う家で、料理の味も、水道水の味さえもおかしくなっていることも。空気が悪く、酸欠で死んでしまう水槽の金魚のようだ、とも。


 私を疑い、殴り、今では完全に無視を決めている冷酷非情なお父さん。いつまた、なにかの拍子でキレたら、今度は殴られるだけでは済まない気がする。


 それから、お母さん。料理や洗濯、掃除は一応しているみたいだけど、いつもブツブツつぶやいて私を無視するし、お父さんとは目を合わさないように距離を測っている様子が見られる。身形が乱れ、目付きも怪しくて、それが本当に不気味で恐ろしい。


 先生は、お父さんよりもむしろお母さんの様子に注目していた。「早急に、専門家にカウンセリングを受けて貰うように勧めてみる」と言った。私もその方が良いと思う。


 後ろに立つ岳彦に振り向いて、私は訴えた。


「これで余計にこじれたら、どうしよう」


「大丈夫だよ。そのときは、ぼくが全力で助けるから」


 さらりとそんなことを言われて、私はどう返して良いのかわからなくなった。


「大人のトラブルの犠牲にならないように、強く賢くなればいい」


 それは同意だ。だけど、今はこんなにも不安で、生きた心地がしない。


 大人同士でどんな話し合いをしているのか、とても気になっている。話の方向性が見えたら、保健の先生が迎えに来て、話し合いの席に出なければいけないことも説明されている。


「私、もう二度とお父さんのこと信じられないと思う」


「うん。わかるよ……」


 岳彦は寂しそうに、そうつぶやいた。

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