毒抜きできないと飯も食えない
保健室のベッドはマットが固めだけど、寝心地は自分の布団よりも良い気がする。目を閉じると、今朝のお母さんの不機嫌を思い出して、胃が痛くなってくる。
お父さんは、私に目もくれず出掛けて行った。いなくなった後の空気もどんよりとしていて重たくて。それに、ぬか床を掻き回すお母さんのせいで、最悪な臭いが漂っていて、ご飯が喉を通らなかった。
青々とした芝生と、優しい空の色に白い雲がレース編みのショールのように空を彩っている。
赤いボールを追いかけていた私の行く先には、幸せそうに寄り添う両親がいた。あれは何年前だろう。お母さんは、お父さんのことが好きでたまらないという顔をしているのに、お父さんは気まぐれにいなくなることが昔からあった気がする。
胃が重く苦しくて、私は迫りくる危機を感じてベッドから飛び降りた。床にへたりこんだまま、嘔吐してしまう。せり上がる力に全身が震え、首や頭の筋肉が引っ張られて毛という毛が逆立った。殆ど食べてないのに、ねばついた体液だけが吐き出され床に広がっていく。酸で焼けるように痛む喉の奥が、ぎゅっと絞られて息もできない。そこにバタバタと足音が近付いてきた。
たぶん、先生と岳彦。私はそのまま気を失ってしまった。
「家には帰さないであげてください」
やけにはっきりと、その言葉が耳に残っている。岳彦が、先生にお願いしている声だった。
◇
白くてやわらかい光と、優しい風が吹いて、洗濯物の良い匂いに包まれる。このまま、ずっと、こうしていたい。嫌なこと全部忘れて、ここで寝ていたい。だから、目を開けるのがすごく嫌でしょうがない。
全然、眠れないのに。でも、やっと見つけた居心地のいい場所だから、うずくまっているだけでも癒される気がする。
もう、戻りたくない。あんな家には、帰れない。
チャイムと共に、足音が近付いてくる。生徒が何人も出入りする保健室なのに、岳彦の足音がすぐわかってしまう。他の誰も信じられないのに、たった一日一緒にいただけでこんなにも彼を頼っている自分に気付いたら、なんだか信じられない。違和感がないことが、もっと信じられない。
「起きてる?」
カーテンの隙間から顔を出した岳彦と、目が合った。
「……ぐらぐらする。寝てても、目が回ってる感じ」
「おまえ、毒にあてられてるんだ。毒抜きしないと飯も食えないだろ。先生に言って、給食の代わりにアンパンでも買って来ようか? とにかく、食べれらるものを食べないと……」
ベッド脇の椅子に腰かけた岳彦の手には、本が握られていた。
「この本。図書室で借りてきた。結構良い内容だから、読めるときに読んでみて。本は知恵をくれる」
「……ありがとう」
岳彦の本は私の枕の横に、そっと置かれた。
「ぼくがざっくり先生達に説明しておいたけど、おまえの母さん。午後には校長室に呼ばれるそうだ。学校一の聞き上手の校長先生が話をしてみるってよ」
そんな大事おおごとになろうとは思ってもみなくて、私は泣きそうになる。
「そんな顔、すんな。大人のトラブルに子供が巻き込まれて、衰弱するっていうのは立派な虐待案件なんだよ。おまえは学校に保護されている。だいじょうぶ。頼れるところに頼って良いんだ。子供にだって人権があるんだから」
岳彦の口から出てくる言葉はどれもこれも、大人びていてすごいことばかりだ。私は涙を拭いて鼻を啜りあげた。
「……あんまり他人には知られたくないことって、あるけどさ。ぼくも、去年は今のおまえとそう変わらない状況で、色々あって転校してきたんだよ。本当は、つばめと同じ学年なんだ」
唐突なカミングアウトに、私は驚いた。岳彦は、初めて見せる弱々しい目付きで、私を見詰め返した。
「学力さえ追い付いたら、どこかで学年戻れるかもしれないって言うから、今頑張って勉強してる。おまえと卒業してやるからさ、元気出してよ」
驚き過ぎて頭が真っ白。
「あ、もう行かなくちゃ。じゃ、またあとで。外のうまい空気吸って、身体の中のまずい空気吐き出せよ。今日は良い天気だから」
岳彦は立ち上がって、カーテンの向こうへと消えた。足音が出口に向かい、ドアを開けて部屋から出て行く気配がする。入れ替わりに保健の先生が私の様子を見に来てくれた。そして、服を全部着替えたことや、私の体温が三十五度台しかないことを教えてくれた。低体温といって、このままいけば風邪どころかおかしな病気に感染しやすいからと言われる。
先生特製のお吸い物の上澄みを飲まされた。温かくて美味しくて、涙が出た。




