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子供の知らない大人の事情

   ◇




「そんな酷い目に遭ったのか。おまえ」


 岳彦の声に、我に返った。


「それで、次の日はどうなったんだ?」


「何事もなかったみたいだった。朝、起きたときのお母さんはいつも通りで、ちゃんとご飯を用意してくれたし、食器も片付いていて、私が和室の押し入れから出て行っても特になにも言わずに。お父さんなんて新聞読みながら私に歯を磨いて来いって言ってた」


 べそをかきながらそう訴えると、岳彦は額に手をあてて参ったと言わんばかりに顔をしかめている。


「それはかなりおかし過ぎる。失礼を承知で聞くが、おまえのお母さん、持病とかあったのか?」


「ないよ。私が知っている限りだと、薬を飲んでいた様子もなかったと思う」


「不眠症とか、恐怖症とか、情緒不安定とかは?」


「なかったよ。元々、うちのお母さんはふわふわしたうさぎみたいな性格で、しゃべるときものんびりだし、ガーデニングとか刺繍とかお菓子作りが趣味だったんだもん。急に、変わっちゃったの……」


 少年探偵は頭を抱えて考え込んだ。


 手元のメモには、流れるような文字でメモが殴り書きされている。


「じゃあ、お父さんのほうは?」


「夫婦仲がすごくよくて、娘の私から見ても愛妻家っていうか。見てるのか恥ずかしいぐらい、すごくお母さんのこと愛してるっていうのが常態化していたんだけど、そういえば今年に入ってからあまりそういう姿を見なかったかもしれない」


「続けて」


「お父さん、ひとりでよく出掛けるようになったし、平日も帰りが遅いことが増えた気がする」


「それで、お母さんの様子は?」


「元気がないっていうか、ガーデニングも疎かになって植木を全部枯らしちゃったんだよね。最近はめっきりお菓子作りもしなくなってた」


「喧嘩とか、そういうきっかけはあったのか?」


「特にこれっていうのはなかったと思うけど……。でも、日曜日はいつも一緒に買い物に行くのに、お父さんが行かないことが増えていったことだけは確か」


「そのことについて、お母さんはなにか言ってなかった?」


「仕事が大変だから仕方がないのよって、寂しそうに言ってたかな」


 言いながら私は両親の仲が急激に冷えていた事実に気付いて、悪寒を覚えた。


 岳彦は表情を曇らせながら、しずかにつぶやいた。


「大人の事情が絡んでるな」


「大人の……事情?」


 彼はゆっくりと頷いた。


「口の中の傷は、治ったの?」


「え?」


 突然、岳彦の視線が私の唇に注がれ、私は固まってしまう。彼の右手がゆっくりと、唇に触れようとしていた。


 夕陽のオレンジに照らし出された私達の影法師が、繋がっていく。


 彼の両目は、意外にも透き通った黄土色をしていた。その神秘的な美しさに、息を飲む。


「血はすぐに止まるけど、口内とはいえ傷は残るよ。ご飯食べれていないのはそのせいもあるんじゃない?」


 ――わわ! 私の身体を気遣ってくれている!


 そう思ったら、カッと全身が熱くなった。


「それに、心の傷はそう簡単には治らないよね。お母さんも気になるけど、おまえのお父さんの行動変化がとにかく怪しい。調べてみるか。ただし、後悔するかもしれないよ?」


 彼の顔が近い。


 言葉をあたまの中で繰り返して、やっと理解する。『後悔するかもしれないよ?』―――どういう意味?


「おまえん家ちは、もう決定的な亀裂が入ってる。それを完全に壊してしまうかもしれないっていう意味だよ。おまえは、お父さんとお母さんのどちらかを失うことになる。それでもいいかって聞いてるんだけど……」


 私は。


 足元を掬うほど突き上げてくる悲しみに、ゆっくりと飲み込まれていく。


 すぐには決心がつかない。でも、私を疑って顔を殴ってきたお父さんを、どうしても許せない。絶対に、許さない。


「いいよ。ぶっ壊しちゃえ。こんな家族、もう要らない!」


 真っ黒い感情が棘を持って口から飛び出していた。


 言いながら自分で震えている。


 自分の毒に衝撃を受けている。


 もう何日も前の痛みだというのに、まだそこがジンジンと痛み狂っている。頬に手を乗せて、骨が記憶する痛みに意識を集めながら、あの忌々しい瞬間をありありと思い浮かべた。


 どうして私がこんな酷い目に遭わなくちゃいけないのだろう。


 私を守っていた家の屋根や壁に亀裂が入って、強い嵐によってどんどん崩壊していくようだ。


 壊れるのがイヤなのに、壊れていく様子を見ながらどこかで面白くて、もっとだ、もっと、と高笑いしている自分がいる。


 一国一城を失えば良い。守るはずの家族に復讐されて、惨めな人生を味わうがいい。


 屍みたいに動かないお父さんを見下ろしながら、私は笑いながら泣いていた。


 そのイメージが見えた途端、私は我に返った。


「大丈夫か?」


 岳彦の静かな声が、そっと沁みてくる。


 震える両手で自分の顔を覆って、頭を振った。イヤな夢を見た。見たくもない腹黒い自分に出会ってしまった。恥ずかしいし、それ以上にすごく、怖い。


 私が、私じゃなくなっていくみたいで。


「つばめ」 


 西日が陰り、部屋には闇が満ちようとしている。失っていく光と、入れ替わりに現れた暗がりが私の心の奥にくすぶっていた黒いものを掬い上げているようにさえ感じられる。


「……っはぁ……」


 岳彦の息遣いに、再び我に返った。


「その恨み、しっかり今ここに吐き出せ。つばめ」


 岳彦が、真っすぐに私を見詰めていた。


「その怒りも悲しみも、全部ぶちまけろ。いま、ここで、ぜんぶだ」


 なぜだろう。


 岳彦のことを、もう子供だとは思えなかった。


 私は彼の言うがままに、息を吸い込んでから、吐き出した。


 罪を着せられ、罰を与えられ、血を舐めた。


 あの日から、私の魂は休まることができずにいる。


 眠ることも、食べることも出来ない。


 それが、つらい。


 つらい。


 こんなに辛いのに、お父さんもお母さんもまったく気付いてくれない。


 この家の中で、私は存在していないのと同じだ。


 つらい。苦しい。許せない。


 喉が潰れるほど、泣き叫んだ。


 叫んだあとは、背中を丸めてうずくまった。


 時々、温かい手が背中を撫でてくれる。それがあるから、こんなにも泣けた。その手が無かったら、この部屋にあるもの全てを壊していたかもしれない。


 ブルブルと武者震いがする。呼吸しづらくて、お腹の中が痙攣している。まだ、苦しい。


「だいぶ、吐き出せたけど。まだ全部じゃないか……。今日はもう、眠った方がいい。疲れただろ?」


 すっかり暗くなった自分の部屋で、岳彦の声だけが響いた。


「おまえが眠るまで、ここにいるよ。まだ親は帰って来ない、か……」


 その声を最後に私は目を閉じた。


 やっと眠れる。


 優しい夢を、見れる気がする。




 ◇




 朝の気配で目が覚めた。小鳥がさえずっている音を、窓の外に感じる。昨日、泣き疲れてそのまま眠り込んだようだ。私はいま、自分のベッドのなかにいる。


 首だけ動かして辺りを見渡すけれど、武彦はもういなかった。


 ――当たり前か。


 閉められたカーテンの隙間から空が見えた。だいぶ白んでいる。朝日が間もなく顔を出す頃合いの光は目にも心にも優しい。


『こんな家族なら要らない』


 その叫びが、心の中の真ん中に黒く焼き付いている。


 私は、お父さんのことが許せないぐらい大嫌いになっていたんだ。それに、これからどうなるのか何もわからないせいで、すごく怖い。


 私に罪を着せたお父さんに復讐してやりたい。


 昨日はそう思っていたけど、それが本当に私の望みだとは思えない。


 自分がどうしたいのか、胸に手を乗せて問いかけてみる。


「私は、どうしたい?」


 つーんと刺すような痛みに、呼吸を止める。


 心はまだこんなにも痛くて、涙がとめどなく溢れ出した。色んな気持ちが混じり過ぎて、考えがひとつに纏まらない。幸せだった頃の記憶を取り出そうとしても、なぜか思い出せない。


 真っ暗だ。闇に染まって、そこになにがあるのか見えなくなってしまった。


 黒いスクリーンに浮かんで来たのは、お父さんの顔。


 吊り上がって充血した目、青筋が浮かんだ額、硬くて太い拳。


 私の首を鷲掴みして、振り上げた拳で頬を殴られた痛み。


 ビクン、と身体が反応する。


 終わったはずの出来事が、こうしてまた再現されて、その度に生々しい痛みを伴う。


「いや! もう、イヤ!!」


 振りほどこうと暴れると、もちろんそこにお父さんはいない。


 なのに、私は肩で息をしていて、心拍数も高くなっていて、短距離を全力で走ったときのように疲弊していた。


「バカみたい……」


 私がお金を盗ったと決めつけたお父さんなんか、大嫌い。


 バカバカバカ!


 殴りたい。お父さんにやり返したい。なのに、またあの大きな拳で殴られるのが怖くて、手も足も出ない。悔しいはずなのに、身体が震えて使い物になりそうもない。


『おまえはどうしたいんだよ?』


 突然。岳彦の顔が浮かび、声が聞こえた。


 私の事を本気で心配している、そんなまなざしだった。


 味方がいるって、心強い。


 震えも、胸の痛みも、すぅっと引いていく。


 岳彦を頼るしか、今の私には選択肢はない。


 変な奴だと思っているに違いないけれど、昨日勇気を振り絞って良かった。


 あの瞬間、確かに感じたなにかに私は賭けをした。


 目が吸い寄せられて、彼に違いないと感じていた。


 ――私の救世主は、あの子で間違いない。


 岳彦は予想以上に頼りになりそうだし、なにもできずに終わっていく流れを変えられるのはあの子しかいない。


 迷惑かけるのを承知で、私は全面的に彼を信じる。自分の勘を、信じ抜く。そう決意した。


 ベッドから起き上がり、トイレに向かう。


 階段を降りていくと、玄関には両親の靴がそろえられていた。用を足してから、そっとリビングを覗くと、お母さんがそこに布団を敷いて寝ていた。お父さんとは同じ部屋で寝たくないと言って、そうしているのだ。


 お父さんはといえば、二階の寝室のベッドでひとり寝ているはずだ。この家で一番広くて天井の高い主寝室が、引っ越してきた時からずっと苦手だった。あの部屋は夏の暑い日でもずっとひんやりと冷たい。長くは居たくないと感じるなにかがある。視線のようなものを感じたこともあったけれど、あまりにも不気味過ぎるのでいつも頭からすぐに追い出してきた。


――もしかして?


 ふいになにか思いついたはずなのに、すぐに消えていく。煙みたいに空気の溶けてしまう。


 それは、すごく大切なことのような気がするのに、実態がなくてつかみどころがないせいで、夢の後味に似た違和感だけを残した。


――こういうのも、岳彦に言わなくちゃいけないやつじゃない?


 私は左手のてのひらに右手の人差し指で何度も丸を書いた。大事なことは左手の中に記憶しておくものだとおばあちゃんが教えてくれた通りにする。


 喉の渇きを思い出して、台所で水道水を汲んでみた。少しだけ流してからコップに汲んだ水はふつうに美味しかった。武彦の家で飲んだ水と同じ味がしている。お母さんが運んでくる水は、腐った墨汁が混じったような変なにおいがするのに。


 ベッドに戻って、布団をかぶった。窓の外から聞こえる鳥のさえずりを聞きながら、もうちょっとだけ布団の柔らかな感触に埋もれていたくて、目を閉じた。




 ◇




「つばめ! 起きなさい!」


 お母さんの不機嫌な声の起こされる。まだ七時前なのに、昨日は夕飯も食べずに寝ていたからと、お風呂に入ることを命じられた。


 脱衣所兼洗濯用のかごに脱いだ服を入れていると、後ろからお母さんがやってきて私をじろじろと見降ろしてくる。その視線が怖くて、起立したまま両腕で前を隠すと、なぜか舌打ちをされた。ショックだった。


 追い炊きもぬる過ぎて温水プールみたいだけど、しょうがない。時間もないし、冷たさを我慢して頭と体を洗い終えてから脱衣所に戻ってくると、いつもお母さんが用意してくれるはずの着替えがひとつも出ていなかった。


 体を拭いたバスタオルを体に巻き付けて、自分の部屋に戻って着替えを済ませた。濡れた髪をタオルでくるんだまま一階へと降りていくと、今度は仏頂面をしたお父さんが先に朝食を食べ始めていて、やはり私のほうを見ようともしない。


「………」


 蚊の鳴くような声で、おはようと言ってみても誰も何も返してくれず。それにしても、なんて重たい空気だろう。


 久しぶりに用意された朝食は、つぶれて焦げた目玉焼きに、干からびたキャベツの千切り。いつものように自分でご飯をよそおって席に着くと、お父さんは逃げるように席を立ち、カバンをひっつかんで仕事へと出かけて行った。


 気まずいのは、あちらも同じようだ。さっさと謝ってくれさえすれば良いのに、そうしないのは、きっとプライドなのか、それともまだ私のことを泥棒だと決めつけて勝手に軽蔑しているのか。どのみち、本人が話してくれない限り知りようもない。


 目の前に並んだ料理を見下ろすと、またあのなんとも言えない悪臭を感じる。有機物が腐敗するときに出る、ガス臭に限りになく近い悪臭だ。この匂いのせいで、食欲が消えた。空になったお父さんの皿を見ると、よく残さずに全部平らげたものだな、と関心する。


 私は鼻の奥のシャッターを閉めて、さてどうしたものかと考えてみた。


 お母さんの様子をうかがうと、対面式キッチンの向こう側に座り込んでぬか床をかき混ぜているようだ。ぶつぶつと独り言をいっているみたいだけど、湿っぽいぬかの混ぜられる音ばかりが際立って、お母さんが何と言っているのかまでは聞き取れない。その後ろ姿が小さく見えて、短い間にどんどん痩せこけてしまったような気がする。ちゃんと食べてないんじゃないだろうか。


 それにしても、ぬか床から漂ってくる匂いもまた、強烈だった。オエっとなりながら、声だけは漏らすまいと気を付けつつ食卓に座り直す。睨めっこしているだけじゃ減るわけじゃあるまいし、意を決して飲み込んでしまおうかと思い立ち皿を持ち上げてみたけれど、ダメだった。


 ――こんな生ごみ臭いものなんて、生理的にとても食べられないや。


 結局、せっかくのご飯を残すことに決めた。「ごめんなさい」と謝ってから、ランドセルを部屋に取りに行き、急いで家を出る準備をする。幸い、お母さんはなにも言わなかった。


 靴を履き、玄関を開けた時。


 肩の後ろになにかが触れたような気がして、振り返ろうと思った。でも、すぐにその考えを引っ込めた。


 私のすぐ後に、なにかの気配が迫ってきている。さぁっと鳥肌が立った。


 ――なにも見たくない。なにも知りたくない。


 咄嗟に、そう思って、ドアを開ける。


 家の外に踏み出ると、急に肩が軽くなった。それから閉じるドアを振り返ってみたけれど、やはり思った通りそこには誰もいなかった。

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