小学生探偵あらわる
◇
頼る相手を間違えたのかどうかは、全てが終わってからわかることだ。私はそう自分に言い聞かせながら、岳彦をわが家に案内することにした。
徒歩で十分程度。ただ、うちと岳彦の家の間には墓地が横たわっていて、迂回しなければならない。直線距離ならばもっと近くなる。
私はオカルトが苦手で、前にこの墓地で肝試しを強いられて以来、目を向けることもなくなっていた。見ればまた、あの大きな黒い影を見てしまう気がするし、生々しい恐怖を思い出してしまいそうになるから。
通学のときは足元ばかりを見て歩くようにしている。百センチ程の高さしかないブロック塀がとても憎い。
「ぼく、去年引っ越してきたんだけど。その時、この墓地を見て驚いたんだ。なんで住宅地なのにこんなでかい墓地があるんだろうって。すごく不思議だった」
岳彦が話すのを、私はぼんやりと聞いている。去年からいたのか。へぇ~。
「でも、街の歴史を調べたら納得だった。今宅地になっている辺りは、三十年前までは雑木林だった。駅前は廃すたれ、郊外に行くほど開発されて、徐々に住宅地化していったんだ。それにしては、空き家だらけだな」
雑木林を伐採して家を建て、人々が墓場に近付いて行ったということらしい。岳彦が言うように空き家が増えているのは事実で、うちの両脇二軒と斜め向かい、それと同じ辻の一番奥の家も、今は空き家だ。八軒ある中で、三軒しか人が住んでいないことになる。
「人口が減っていくから、これからますます空き家だらけになるだろうな」
私は首だけで頷いていた。
今は空き家の話よりも我が家の混沌のほうが最重要課題だ。岳彦には悪いけど、話を聞くにも身が入らない。私の荷物を肩に担いできた岳彦もまた、徐々に口数を減らしていった。
家の前に着いた。午後六時にならないとお母さんは帰って来ないし、お父さんの帰りはもっと遅い。
玄関で鍵を開けようと鞄のポケットから取り出していると、岳彦は近所の空き家ばかりを見つめていた。特に二階の窓を見上げている。
「なにを見てるの?」
「ん。ちょっとね。今、なにか動いたような気がして」
「不気味なこと、言わないでよ」
「つばめは、怖い話は苦手?」
「苦手っていうか、本当に無理。勘弁してって感じ」
「……へぇ。そっか」
岳彦はほんの少しだけ残念そうにつぶやいた。
玄関を開けると、ムワッとした臭いがした。汗臭いような、酸っぱいような、そんな不快な臭いだ。
今までこんなキツイ臭いを感じたことはなかったから、驚いていると。
「どうした?」
岳彦に聞かれて、私はおかしな緊張から解放された。
「なんか、変なの。様子がおかしい」
彼はドアに手をかけて、全開にした。薄暗い室内に西日が差し込んで、明るく照らしている。リビングのドアのすり硝子の向こうにいる黒いわだかまりが薄れていく気がする。
「光と風を入れよう。ドアストッパー、ある?」
◇
玄関を入ると、右にトイレ、左に洗面所のドアがある。いつもは洗面所のドアは開いているのに、今日は閉められていた。
靴を脱いで、玄関マットの上に立つとしっとりと濡れている感触がして、飛び上がった。
「どうした?」
まだ靴を脱ぎかけている岳彦が、眉間に皺を寄せた。
「このへん、濡れてるみたい」
岳彦がしゃがんで、玄関マットを両手で探る。
「あ、確かにここだけ濡れてるね」
「本当だ」
範囲は私の足のサイズぐらいで、他はまったく濡れていなかった。
「水を零したんじゃない?」
岳彦が振り返って、郵便受けと門灯を備えたポールの影に置かれたジョーロに目をやった。あれはお母さんの園芸用品のひとつだ。
少し前まで小さな庭で薔薇を育てていた。
「もう薔薇は枯れてるから、水やりは関係ないと思う」
靴を脱いでうちに上がった岳彦をリビングに通す。彼はソファに腰を降ろすことなく、上着の胸ポケットから小さなノートを取り出すと、そこにさっそく何かを書き始めた。
「この匂いはなに?」
「匂い? どんな?」
「漬物でも漬けてるみたいな匂いだよ」
「あ、それならぬか床かも。お母さんが台所のシンクの下で漬けてるから」
岳彦のペンが走った。
「普段からこんなに匂うの?」
「やっぱり、クサイよね?」
「うん。俺は気になるけど、おまえは鼻が慣れてしまっているんだろうな」
「そんなことない。ずっと気になってたし、正直かなり参ってる」
「これは健康に悪影響を及ぼすレベルだ。言って良いか迷っていたが、実はおまえからも臭ってる」
「う、うそ! まじで?」
私が嫌われている理由は、臭い?
武彦は憐れむように目を細めた。
「じゃあ、始めよう。お金が無くなった日の前と後で、なにか変わったことがあるのなら教えて。どんな些細なことでも良い。思いついたままぼくに聞かせてくれ」
彼のことが本当の探偵に見えてきた。
違和感というは、時間が経つにつれて気にならなくなる。だからすぐに忘れる。でも強烈な体験の前後に起きた違和感は覚えている。
本当なら思い出すのも嫌な体験だけど、何が起きているのか知るためにそれが必要ならば、やるしかない。
「思い出したら、泣くかもしれない」
フッと、微かな音を立てて武彦が笑う。
「理由がわかってる涙なら、ぼくはイヤじゃない」
そう言われて私の肩の力が抜けた。
途中で誰にも邪魔されたくなくて、私は自分の部屋に武彦を案内した。
彼は緑色の丸くて毛足の長い絨毯の上にあぐらをかいて座り、折り畳みテーブルの上にメモ帳を載せてシャープペンシルを握っている。
「深呼吸をして、最初に思い出したことをありのまま言葉にするんだ」
私は目を閉じて、深呼吸をする。
チリチリと胸が焼けて、心臓がドキドキしてくるけれど、勇気を出して扉を開けていく。
お母さんの顔がとつぜん浮かんだ。
「泣きそうな顔をした、お母さんがいる」
「よし、その調子」
武彦がペンを走らせる気配がする。
お客さんが帰ったあとの、飲みかけのお茶が入った茶碗が目に入った。そこには真っ赤な口紅がついている。
「来客用のお茶椀に、真っ赤な口紅が」
サラサラと紙を滑るペン先の音から、再び思い出の扉の向こう側に意識を集中する。
「お母さんが、ない、ない、ってわめいてる。鬼気迫る感じで、あちこちの物を持ち上げたりして、必死に捜索しているの。半分怒ってて、半分泣いてるみたいな……」
あの日は朝からお母さんは、「らしく」なかった。
私が朝食を食べていると、おはしを床に落としただけでヒステリックに怒った。お父さんは、そんなお母さんの顔色を盗み見ながら、なにも言わない。それも、今にして思えば「らしく」なかった。
学校から帰ってきてカバンを投げ捨てるように置き、すぐに外へと飛び出した私が向かったのは、近所の駄菓子屋だった。十円で買えるヨーグルトという名のクリームみたいなお菓子を三個買って、木ベラですくって食べた。あれを口に入れて鼻から空気を吸うと、微かにヨーグルトっぽい風味がする。そんな薄い感じが気に入っていた。
今日も平和だ。なんてことない一日だ。日が暮れて、ご飯を食べてお風呂に入ったら、あとは寝るだけ。そう、自分に言い聞かせていた。
お菓子のごみを駄菓子屋さんの店内に設置されているごみ箱に捨て、今度はぶらぶらと坂道を登った。
ほんの少しでも高台に登って、光を浴びる街を見渡すのが好きだった。
遠くに見える海。そこに浮かぶ小さな船。ごまつぶ程度の大きさしかない鳥たちが飛び交っている。風が強い日は、ここまで潮騒の香りが届くこともある。でもその日、風は吹いていなかった。
このあと、図書館にでも行って読みかけの漫画の続きでも読みに行こうか。それとも、校庭の鉄棒で逆上がりの練習でもしようか。迷いながら、なぜか急いで坂道を下った。雑草の力で盛り上がったアスファルトに足を取られて、転んでしまった。
擦りむいた膝に血が滲んでいた。歩くたびにハンマーで殴られているような痛みが襲ってくる傷だった。少し悩んでから、渋々おばあちゃんの家に行くことにした。
おばあちゃんの家は学校を挟んだ、町の反対側の端っこにある。家に帰るよりも長く歩いて、やっとたどり着いた。おばあちゃんは植木に水やりをしているところだった。
傷を消毒して絆創膏を貼ってくれて、それから棒アイスを食べさせてくれた。おばあちゃんは私の髪をなでながら「また、困ったことがあったらいつでもおいで」と、優しい声で言った。
陽が沈む前に、家に帰った。歩くと響く痛みにびっこを引いて、泣きたい気持ちで玄関のドアを開けた。血のにじむ絆創膏を、一秒でも早くお母さんに見て欲しかった。だけど、家の中の空気に触れた途端、私の期待は打ち消された。
異様な感じする。
首を左右に振り、必死に余計な考えを追い出した。そして力いっぱい開けたドアの向こうから流れてきた空気の冷たさに、ぞわぞわと寒気がして震え上がった。
リビングに入ると、さらに空気の違和感は増した。
お母さんが泣きべそ顔をして部屋の中をうろうろしている。ダイニングテーブルの上には、真っ赤な口紅がついたティーカップが置かれたままになっていた。そして、強烈な香水のかおり。まるでまだそこに誰かいるような、濃厚な気配。
探し物をしながら、どんどん平常心を失っていくお母さんを見ていると、私まで泣いてしまいたい気分になった。手伝おうかと思うけど、お母さんに声をかけられない。何を探しているのかわからない。しかも、お母さんはまるで私が目に入ってないみたいだった。
「何を探しているの? って、いくら聞いても、無視され続けていたの」
「なるほど」
武彦はメモを取り続けている。その思いのほか大人びた達筆な文字を見ながら、私はまた一週間前の理不尽な夜を思い出し、その扉を押し開いた。
悲しい気分を落ち着かせようと自分の部屋に戻った私のところにやってきたのは、お父さんだった。いつもより一時間も速く帰宅したお父さんは、玄関から真っ先に私のところに来て、ノックもせずにドアを開け、ズカズカと机のそばまでやって来て、私に断りなく引き出しを開けては中身のものを掴み出し、床に散らかし始めたのだ。
「なにすんの?!」
私が抗議すると、お父さんは一瞥くれてからすぐに次の引き出しに手を伸ばして、何かを探し続けている。始終、無言のままで。
「ねぇってば。お母さんもなにか探してるみたいなんだけど、いったい何を探してるの?」
何回聞いてもまったく答える気がないらしく、ことごとく無視され続ける。
お父さんの額には青筋と汗が浮かび上がっていた。
「汗?」
武彦の声に中断される。
私と目が合うと、彼は「ごめん、続けて」と言ったので、すぐにまた記憶の向こう側へと戻る。
最後まで探しても気が済まないどころか、さらに血相を変えていた。キョロキョロと部屋を見渡すと、今度は押入れを開けて季節ものの服などが入った収納ケースを開け始めた。
そんなところまで開けて探すものなのだから、きっととんでもなく貴重なものが無くなったんじゃないだろうか。そう、思っていた時だ。
「ない! こんなに探しても、出てこないなんて。おまえ、何か知らないか?」
やっと私に言葉を投げかけてきたお父さんの顔は、引き攣っていた。怒りと困惑と、それ以外のなにかよくわからない感情の片鱗を感じ取った。
「……何を探してるのかを、教えてくれないとわからないよ?」
舌がもつれて噛んだみたいな呂律で、そう答えると。お父さんは手でジェスチャーしながら上の空みたいな目つきで教え始めた。
四角いもの、銀行の名前が書かれている封筒で、そこそこ厚みがあるという。
「それって、お金が無くなったってこと?」
私が聞くと、お父さんの顔がカッと赤くなった。と、思ったとたんに、大きな手が私の頬をバチンと叩いた。
ベッドの上に倒れ込むほどの力で、いきなり叩かれたのだ。
息もできないほど驚いて、動けない。
そんな私に向かってお父さんが放った言葉は、予想を超えたものだった。
「おまえが犯人だな! さっさと出せ!」
普段、殆ど家にいないお父さんに睨み下ろされるというのは、本当に最悪で。
なぜ、私が疑われ、叩かれなければならないのか、意味がわからない。
どうして、こんなことになっているの。
「早く、出しなさい! お金を隠して大人を困らせるなんて、とんでもないことだ!」
決めつけた物言いが追い打ちをかけてくる。
何かよくわからないけれど、涙と奇妙な笑いが込み上げてきた。
それを見たお父さんは、さらに顔を赤くして怒っている。
私の服を両手で鷲掴みして、激しくゆさぶられた。
「さっさと、しろ!」
「やめてぇぇぇ!」
お母さんが、金切り声をあげて止めに入ってきた。お父さんの手から私を奪うように毟りとり、抱きしめられる。
「この子は、関係ないでしょ?!」
「……じゃあ、他に誰が?!」
大人二人が睨み合う中、私は息が喉で詰まってしまった。
ネジ式のぜんまい人形が壊れた時のように、小刻みに痙攣する。
「つばめ! ごめんね! 下でお水飲みましょう!」
お母さんが私の腕を引っ張り上げて、階段を降りていく。転んで落ちるのが怖くて、何度も階段にへたりこむのに、お母さんは私ではなくお父さんの視線を気にするように二階ばかり睨んで、腕を引っ張ってくる。
ダイニングテーブルに座らされ、コップに注がれた水を飲んだけれど、鉄が混じったような苦い味がして嘔吐した。吐き出した水がテーブルに水溜りをつくる。そこに、苦しそうな顔をした誰かが映し出された気がして、慌てて引っ掻いた。
お母さんは台所でヌチャヌチャと水っぽくて粘着質な音を立てながら、ぬか床をかき混ぜている。
なにか言いたいのに、なにも浮かんで来ない。
「つばめ! あんた、血が!」
やっと目が合ったお母さんが、私を見て顔を強張らせた。すぐ、下を向いて自分の服を見ると、血の混じった水がこぼれて赤が滲んだ染みがついている。さっき、お父さんに殴られたときに、口の中を切っていたらしい。だから、鉄の味と寒気がするんだ。
「気持ち悪い……」
私の声は枯れていた。耳障りなほど、しゃがれていておばあちゃんみたいだ。
そんな私を対面式キッチンから見ていたお母さんは、ぬか床で汚れた手で指差してなぜかケタケタと笑い出した。お父さんが二階から降りてきて、私と笑いくるっているお母さん見比べて、顔を真っ赤にして怒鳴った。
「おまえら、そんなに面白いか! ふたりして俺をバカにして!」
「あんたこそ、うちらをバカにしてるじゃないの! どの面下げて帰って来たのよ! この、ろくでなしの裏切り者!」
「なんだとぉ?!」
お父さんがお母さんの髪を鷲掴みにして、食器ダンスの扉に顔面を叩きつける。その衝撃で、はじけたドアが開いたと思ったら大量の食器が倒れたお母さんの上に降り注いだ。床は割れた食器だらけになった。
「なにすんのよ!!」
お母さんは鼻血を出しながら、破片を掴んでお父さんに振りかぶる。その手首をしっかりと掴んで止めたお父さんは、お母さんに頭突きをした。お母さんは白目を向いて倒れた。
「もう、やめて! お母さんが死んじゃう!」
私が大声で叫んだら、お父さんが床に唾を吐いて、今度は私めがけて歩いてきた。怖くなった私は四畳半の和室に逃げて、押し入れに隠れた。
「そんなにそこが良いなら、もう出て来なくてよろしい」
閉めた襖の向こうから、乾いた声がした。
しかもなぜか、お父さんとお母さんの声が重なって聞こえた気がした。
「本当のことを言うまで、しばらくご飯は抜きだ」
「わかっているわよ、そんなこと言われなくても」
冷たい会話だった。
どうなってるの?
なぜお母さんまで一緒になって、私を追い詰めてるの?
わけがわからない。
私は震えながら、闇の中にうずくまった。
その夜はそのままそこで朝が来るのを、ひたすら待ったのだった。




