ぼくにない勇気そのものだった
岳彦は思い詰めたように表情を硬くしたまま、立ち上がった。そのまま歩いて事務所のドアを開けると、ふらりと外に行ってしまった。かかとの残像を、閉まるドアに遮られる。
「……あの子はだいじょうぶ。屋上に行ったんだろう。塞ぎ込むのはいつものことだよ。しばらくひとりにしてやってくれ」
湊さんがそっと口を開いた。
「君が意志の強い子だということはよくわかった。まぁ、焦らずに少しずつ力を磨いて使いこなせるように鍛えて行こう。ご両親には追って俺からも話そうと思うんだけど、お母さん元気になったかい?」
「それが、まだ誰かに見られている気がするって言ってて……。引っ越しが終わったら退院するって言ってます。それまでは安全な場所にいたいから、あの家にはなにがなんでも帰りたくないみたい。せっかく清めてもらったのに、すいません」
「無理もない。あの家はそもそも建ててはいけない場所に建てられている。一帯の家全部がそうだ。大昔、鎮守の森には祠があって、そこに大蛇の神が祀られていた。それを、時代が変わり価値のわからなくなった地主が売り払い、建設会社が建売住宅にして販売した。それからおよそ三十年、どの家も出たり入ったりを繰り返している。祈祷師業から見れば、とんでもないリスクを住人に背負わせておきながら金を取るのだから罪深いよね」
湊さんはテーブルのカップを品良く持ち上げると、音もなくそれを飲む。見習って、私もせっかくの温かいココアをゆっくりと味わいながら飲んだ。
大祓いを受けてから、お母さんは少しずつ正気を取り戻しているけれど、まだうちに帰りたがらずにそのまま入院している。お母さんが入院する精神病院は湖畔にひっそり建っていて、院長先生と湊さんは親しい間柄なのだと説明された。
お母さんのそばにずっといてくれている大男の飯山降矢さんは、湊さんの従兄弟なのだと言う。精神病院の患者に以前悪霊が獲り憑いて、院長先生を襲ったことがあって以来、そこに常駐しているそうだ。彼がいれば普通の悪霊は寄ってこない。ただそこにいるだけで病院全体を守ることができるという意味では、降矢さんは貴重な存在のだという。
「そういえば、岳彦がなぜ五年生なのかあの子から聞いてる?」
思いがけない話題変更に、私はココアを拭き出した。シャツとハーフパンツに染みがついてしまい、濡れた布巾を借りてふいても無駄だった。
「フフッ。そんなに取り乱すなんて思わなくて、なんかごめん。洗濯してあげるから、脱ぎなさい。今、岳彦の服を持ってくる」
クリーニング屋さんのようにきっちりと折り畳まれた服が運ばれてきて、事務所のついたてで簡易更衣室を用意してくれた。そわそわした気分で服を広げると、真っ白いワイシャツと黒いスラックスだ。サイズは丁度いい。
汚れたシャツとハーフパンツを脱いで、借りた服に袖を通す。石鹸のような清潔な香りがかすかにする。この前来た白装束のときと同じような気分になっていく。
「どうだい?」
ついたての向こうから声がかかる。ボタンをしめながら、岳彦の服を着ていることが急に恥ずかしくなる。
「……サイズは大丈夫でした」
汚れものを渡すと、彼はニコニコ微笑みながら「似合ってる」と言った。妙な高揚感に襲われ、どんな顔をしたらいいのかわからずに俯いてしまう。
「じゃあ、洗濯機に入れて乾燥するまで二時間半ほどかかるから。さっきの話の続きをしよう。昼ご飯は南蛮そばと海老天丼で良いかな?」
「こんなところに出前があるんですか?」
「出前じゃないよ。俺が作るんだよ」
湊さんはジャケットを脱いで腕まくりをした。
◇
空が青く澄んでいる。こんなに清々しい青空を見るなんて、本当に久しぶりな気がする。不思議なことにつばめと出会ってからぼくは、悪夢を見なくなっていた。だから、彼女がいるというだけでものすごく安心する。まるで、この空のように穏やかな気持ちになれる。
ぼくは勇気をはき違えていたのかもしれない。つばめを見ていて、色んなことに気付かされた。
取り返しのつかないことが起きてからも、つばめはなんだかんだ言ってちゃんと両親の身を案じていた。奪われた幸せを自分の手で取り戻したいとまで言っている。あの年齢で、あの童顔で、あの小さな体で、ぼくとは真逆だ。なのにどうしてだろう。彼女が、自分の一部になってしまったかのような、不思議な気持ちがする。だけど、だからって湊が物事をなんでもかんでも都合よくまとめようとしているみたいで、気分が悪くなってここに逃げて来てしまった。あの時と同じだ。
大人は勝手だ。ぼくの気持ちを置き去りにしたまま、どんどん決めてしまう。それに対して言い返すだけの強い言葉も思いつかない自分にも、うんざりだ。
鬼退治がしたい―――。
つばめの言葉に、こんなにも揺さぶられるなんて。また同じ失敗をしてしまうかもしれない。そう思ったら、怖くて怖くて動けなくなる。
一年前。良かれと思ってやったことで誰かを不幸にしてしまうことを、ぼくは知った。あんな思いをするのは、二度と嫌だ。思い出すのもおぞましくて、吸い込んだ息を空へと解き放った。
想いの強さだけじゃ、鬼退治なんかできない。ぼくの浅はかさがあいつを傷つけてしまった。勘違いしていた自分が恥ずかしくて、みっともなくて、情けなくて。一年を棒に振った。
ぼくを育ててくれた住職や奥様、それに湊に対してとても申し訳なくて。親に捨てられたぼくを愛情深く育てた三人には、まだなにも恩返しらしいことができていないのに。そうと思いながらも、今のぼくにはやっぱりなにもできない。今回の事でもまた無力さを思い知ったのだ。
才能なんてなかったんだ。人に迷惑しかかけられなかった。そんな自分が、どうしても許せなかった。




