あなたに復讐しているんでしょう
◇
「どこまでが自分の意思で、どこからが操られていたのか、わかるようなものではないんです」
静かな口調で話す湊さんの声が聞こえる。その間もずっと、私は嘔吐した。気持ち悪いものが、身体の奥から、あとからあとからこみ上げてくる。吐くたびに岳彦が水差しで甘酒を薄めたような飲み物を口まで運んでくる。
「お祓いはもうすぐ終わるよ。もうすぐだから、がんばれ……」
涙声の岳彦に髪を撫でられた。指先がちょっと動く程度にしか、動けない。重くて、寒くて、それなのになぜか熱くて。首のあたりがジンジンと痛い。やっと開けていられる目で、周囲を見渡す。
窓際には濡れたお札も、それ以外の不思議なものもすべて綺麗に水洗いされて、新聞紙の上に並べられていた。再び、湊さんの声に耳を澄ませる。すすり泣く声も聞こえてくる。
「……ごめんなさい。ごめんなさい」
「もう……いいんだよ。そんなに謝るな。俺だって悪かったんだから」
お父さんの声。優しかった頃の声のトーンに戻っている。
「私が悪かったんです。御作さんの言葉を信じて、あなたを疑ってしまった……。全てはあの時からおかしくなっていったんだから」
「御作美代子さん。この女性で間違いありませんか?」
湊さんが胸ポケットから一枚の写真を取り出し、ふたりの前に差し出している。その写真を覗き込んだお父さんの顔色が変わるのがわかった。
「……詩織」
「いま、なんて仰いましたか? もう一度、その人物の名前をはっきりと言って下さい」
穏やかな口調が、急に緊張感に満ちた音に変わる。
岳彦に上半身だけ抱きかかえられながら、私は大人のやり取りをじっと見張っていた。
「本田詩織さん……です。私にこの物件を進めてくれた、不動産屋の営業の女性だ」
「不動産屋さんの営業の人は男性だったでしょ?」
お母さんが険しい顔でお父さんを見つめる。
「内覧の時から伊達さんが担当になったんだ。詩織さんは、……本田さんは伊達さんの上司だ」
「失礼ですが、甲賀さんはなぜ本田詩織さんのことを、ファーストネームで呼ばれているんですか?」
湊さんが問いかける。お父さんは、どこを見ているのかわからない目つきで頬を痙攣させている。
「後ろの子供達が気になって、言えませんか?」
「平気です。つばめはあなたたちが思うよりずっとしっかりしているし」
皆が一斉に私を見てきたので、頷いた。
「……彼女は、私が初めて付き合った女性です。でも、日菜子と出会う前に別れてから、偶然再会するまでは一度も会っていません。数年前、商談で使った料亭でばったり再会したのがきっかけで、つい連絡先の交換をしたら、頻繁に呼び出されるようになりました。親から不動産屋を継いだと言うので、丁度家探しを始めた頃だったから話を進めていくうちに、距離が近くなって……一度だけ、酔った勢いで……」
「私に嘘ついたのね!」
お母さんが悲鳴交じりの声で叫んだ。
「落ち着いてください。奥さん」
湊さんが話を進めていく。
「甲賀さん。実は、本田詩織さんはかなり長い間あなたに執着していたようです。奥さんの職場にいた御作美代子さんと本田詩織さんと同一人物だ。詳しい事情はわかりませんが、彼女は他人の名前を勝手に使っていたらしい。この写真の女性こそが、正真正銘の御作美代子さんなんですが。見覚えありますか?」
もう一枚、写真を懐から出した湊さんの手元を両親が覗き込んだ。
「知らない人です」
お母さんが、怯えた顔をしてそうつぶやいた。
「本田詩織さんは、甲賀さん。あなたを陥れようとしたようです。あれを見て下さい」
湊さんが指差す方には、あの二階で発見した禍々しいふすまがあった。大男さんが白いシーツを引き下ろすと、着物が乱れた色っぽい女の絵が現れた。さっき二階で見たときよりも色褪せはいるけど、異様な存在感がある。
「あの絵。あなたがたの寝室の押し入れに設置されていたことは、ご存知でしたか?」
ふたりとも首を横に振った。
「いや! 怖い!!」
お母さんの怯え方が尋常ではない。お父さんは魅入られたように、目を大きく開けて呆けている。
湊さんが手振りで合図すると、大男さんが絵に再びシーツを掛けた。
「あと、この真下に枯れた井戸があることは?」
「知らない! そんなものがあったなんて……」
お父さんは不安そうに答えた。
「墓場に囲まれ、古い井戸があって、そのうえあの絵と来た。あれは幽霊画を好んで描く鮎川康永という日本画の画家が描いたものです。あまり有名ではありませんが、熱狂的な愛好家がいて、絵の値段はかなり高い。甲賀さんの年収でもまだ足りないほどです。なぜ、そんな高価な絵がふすまの裏に描かれているのか、興味深いとは思いませんか?」
湊さんの言葉は、すんなりと耳に入ってくる。聞きたくない内容でも、ちゃんと理解できるように最低限の情報を順序正しく繋いでいる。そんな印象を覚えた。
「つまり、どういうことなの? 彼女の狙いは?」
「狙いって?」
お父さんがうろたえている。
「だっておかしいじゃない! 別人の名前を使って私に近付いて来たのよ? たいして親しくもないのにうちに遊びにきて、あげくの果てにあなたの赤ちゃんがここにいるのよって、自分のお腹に手を乗せて言ったのよ!」
お母さんがまた喚き出した。
「そんなこと、あるわけないだろ! たかが恋や愛で、こんな……」
「あなたがそんなんだから、恨まれたのよ! 男なんて、女が身ごもったってどこ吹く風よね! 私がつばめを妊娠したときも信じられないって散々言うから、一緒に産婦人科に行って検査したんだものね! それで漸く結婚を決心した。あなたっていつもそう! 後手後手なの。臆病でズルいの。卑怯なのよ!」
お父さんが傷付いた顔をして、黙り込んだ。
「ちょっと! つばめの気持ちを考えて下さい!」
私を抱きかかえている岳彦が、急に声を荒げた。お母さんは凍り付いたように私を見つめている。
「よくわかりました。本田詩織さんは、おそらくあなたに復讐しているんでしょう」
湊さんが、低い声でそう言った。




