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暗い夜空に浮かぶ青い宝石

「泣いて謝っても済まないことだぞ! これは!」


 それまで静かだったお父さんが、いきなり大声を張り上げた。私は思わず引き腰になって、身構える。


 身体は覚えてしまったんだ。


 誰が一番、危険なのか、を。


 そして、お母さんもまた降ってくる火の粉を払うかのように両腕で防御の姿勢を取っている。お父さんはお母さんに向かって歩き出し、右手にこぶしを作って今にも殴りかかろうとしているようだ。


「ごめんなさぁぁぁいぃぃぃ」


 お母さんは腰でも抜けた人みたいに、床に倒れ込んで必死に謝っている。


 私は咄嗟に濡れたお札を丸めて、お父さんの背中に投げつけた。


「やめてよ! もう、良い加減にして! お父さんがそんなんだから、お母さんが苦しんでるんじゃない! お母さんだけが悪いなんて、私は思ってないんだから!!」


 お父さんは顔を引きつらせながら、私のほうを振り返った。信じられないものを見るような、怯えた顔つきだ。こんなに弱々しい姿を見たことがない。


「つばめ……。ごめんな、ごめんな、つばめ。お前のこと、疑って……。でも俺にはあの時、お前が悪い顔をしてほくそ笑んでるようにしか見えなかった。わざと俺達を困らせているとしか……」


「なぜそんな風に考えてしまったんでしょうね? 甲賀さん」


 湊さんが介入する。


 窓際では大男さんが手際よくぬかまにれのお札を並べ続けている。プラスチックカードらしきものや、釘やナットまでが出てきた。ぬか床に漬けるにはあまりにも相応しくない品々だ。


「ああぁぁぁぁぁぁ!」


 お母さんが床の上であおむけになって、ジタバタと手足を激しく動かしながら喚いている。昆虫がひっくり返って暴れている姿に似ていた。


 手に持ったおおぬさでお祓いの詞を唱えながら、湊さんがきびきびと歩いてお母さんとお父さんの間に入った。


「あなたの心に獲り憑いた疑心悪鬼という鬼を、すぐに払い落として差し上げましょう」


 お父さんは首を斜めに傾けたまま、湊さんを見上げて詰め寄っていく。まるでチンピラのように。


「お前ごときに何ができる?!」


 突然。部屋の空気が変わった。


 凍てつきそうなほど冷たい空気が流れてきて、吐息が白くなる。


「視えるぞ。お前の罪が。その手で人を殺めたな。そんな穢れている手で、この弱きものたちを本気で救えると思うておるのか? 愚か者めが」


 明らかに別人の喋り方になったお父さんの肌の色が、おかしい。朱色の墨汁を塗ったようなへんな色に変わっていく。さらに、黒い蜘蛛の巣のような模様が蛇のような動きで線を引いて、肌を覆っていく。髪の毛は伸びて、背中の真ん中まで来ると頭頂部から白髪に変化した。


 私は何度も目をこすった。自分の指で頬を抓った。


 痛い。


 夢じゃない。これは、現実に起きているのだ。


 信じられない。


「お、おとうさぁぁぁん!!」


 夢中で手を伸ばして叫んでいた。


 バケモノになったお父さんがゆっくりとこちらにふりかえる。


 白目が黒くて、瞳が黄色く輝いていて、瞳孔は猫のように縦に細くて。私の知らない顔になっている。


「つばめ。可愛いわしの愚かな娘よ」


「娘なもんか! あんたなんて知らない! お父さんを、返して!」


「わぁぁぁぁぁぁ」


 お父さんの足元でお母さんが泣き叫ぶ。腹ばいになって、お父さんの足首にすがりつき、首を横に振りながら言葉にならない叫びを繰り返す。


 鬼になったお父さんがニタニタと笑い顔を浮かべ、お母さんの頭を踏みつけた。堪らず、私はお父さんめがけて駆けだす。


 湊さんの声が、一定の音域を保ちながら流れ続けていた。


 まるで、水の中を泳ぐように重い体。蜘蛛の巣にとらえられたように、うまくうごけない。


 お母さんが断末魔のような悲鳴を上げ、憎き鬼は満足そうに笑い、私はまっすぐに向かっていく。右手には包丁を握りしめて。


この鬼を始末しなければいけない! この手で、終わらせなければならない! 多くの人々を惑わし、狂わせ、その生き血を啜る禍々しい鬼を!


 殺してやる! 殺してやる! 殺してやる!


 めった刺しにして、ミンチにしてやる! 腸引きずり出して心臓を握りつぶすんだ!


バン!!


 ドアが開いた。


視界の端に動く、もうひとりの介入者が私めがけて走り込んでくる。


 振り上げた右手首に、彼の長い指が届いた。私がそれを振り下ろす前に、彼は、岳彦は私の右手と身体を強く抱きしめて床へと雪崩れた。


 放り出された包丁が、クルクルと回転しながら逆方向へと落ちていく。刃が床に突き刺さる瞬間。お父さんも同時に、床に崩れ落ちていた。


 転んだ私のすぐ目の前に、お父さんの顔が。


 涙の筋が瘦せこけた頬に白く光っている、顔が。


バサッ、バサッ、バサッ


 湊さんのおおぬさがお父さんの身体を叩いていく。飛んでくる水しぶきから、ほのかにミントに似た香りがした。


 熱い。焼けるように熱い。


「つばめ! あれはおまえの父親なんだ! 目を覚ませ! 操られてはいけない!」


 水の中で聞くように、岳彦の声がまだ遠いところにある。


「ぎゃぁぁぁぁああああ!」


 お母さんの獣じみた悲鳴は、ものすごく遠いところから聞こえている。


 グニャグニャになった視界。


 身体の感覚が消えて、真っ暗な世界に飛ばされてしまったような気がした。


 怖くて、怖くて、たまらなくて、夢中で誰かを呼ぶ。自分の声も聞こえなくなっているけれど、くちびるが「たけひこ」をなぞった。


 下校する平和ボケした生徒達が一斉に通学路に溢れかえる中で、彼の放つオーラの色だけは誰とも違っていた。暗い夜空に浮かぶ青い宝石。そんな比喩が似合う、澄んだ藍色。清らかで穢れない、強い魂の光。懐かしかった。やっと見つけた。この広い世界でただひとりの、私のともだち。


「た・け・ひ・こ」


 肺や喉を焼く痛みが薄れていく。突き上げる殺意も、暴れたい衝動も、こわばった全身の筋肉からも力が薄れていく。


 いつの間にか冷たい手が私の額と喉を抑えていた。清酒の香りが充満するリビングの中で、白装束を乱しながら床に倒れて眠っている両親を見渡す。私は岳彦と湊さんの二人がかりでなにかを施されていた。


 不快感が薄められていくのをじっと感じながら、咽上がるたびに喉の奥から太い蛇が外へと出ていく幻を見た。涙が止まらなかった。

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