盗まれたんじゃなかったんだ
「実態を持たない霊が人間に悪さをするときは、脳に影響を及ぼす。視覚、聴覚、嗅覚、触覚、味覚、さらには記憶や感情までも操る。永い時を生き続ける【鬼】は経験豊富なうえに学習能力が高い。だから逃げるのも上手いんだ。きっともう逃げられていると思う」
湊さんの手が私の手を持ち上げ、導かれるままに歩みを進めると、指先がなにかに触れた。
「ここに永いこと住み着いていたんだよ。先程、死んだ奴は」
それは押し入れだった。押し入れのふすまが古いものに置き換えられている。
そしてあっという間に、幻覚が消えて現実に戻った。
隣には背の高い湊さんが私の背中を支えたまま、腰を曲げて耳元で囁き続けている。
「おやおや。おかしいな。さっきまで確かに五体は居たのに、もうもぬけの殻になっているね」
そう言うと、彼は右手でふすまを左へスライドさせた。
押し入れの中はからっぽだった。
「問題があるのは押し入れじゃない。このふすまの裏なのさ」
湊さんはふすまを持ち上げて、枠から取り外すと裏返しにして立てかけた。
驚いたことに、ふすまの裏には艶めかしい花魁の絵が描かれている。柳の木、着物が開け、乳房や白い太ももを露わにした美しい女が、泣いているのか微笑んでいるのかわからない虚ろな目をして、こちらを睨みつけている、絵だ。
「この絵に、取り憑いている悪霊が元凶だ。これも今日処分する。幸せな家庭を築いた夫婦の生き血を吸いたがって、また被害が出てしまうだろうから」
「誰が描いた絵なんですか?」
絵とは思えない生々しさに目を反らさずにはいられない。こんなすごい絵が、中古物件の押し入れのふすまの裏に描かれているなんて誰が想像しただろう。
湊さんはじっくりと目を凝らすように、絵を調べ始めた。
「あった。ここにサインらしき記号が書かれている。この絵師は、よく知っている人物だ」
「昔の人じゃないんですか?」
思わず声が裏返ってしまった。湊さんは眉間に深い皺を寄せて、険しい表情になっている。
「……天賦の才能も使い方を間違えたらとんでもないことになる。彼は、間違いを正さない。本当に困った人だよ。本気で止めに掛かっても、次から次へと……」
そう言うと、酷く疲れた様子でため息をこぼした。
よくわからないけれど、うんざりするほど絵を見つけてきたということを意味しているのだろう。
「絵はね。様々な意図を隠す場所であり、霊にとったら良い器にもなる。文字や贄を描き、絵の中に特殊な空間を作り出して住処を与えるんだ。どうやっても消えてくれない悪霊や精霊達・八百万の神々とも言うんだけど、それらを害のない状態にして管理する役目を持つ者がいて、そのうちのひとりが数年前から暴走してしまってね。まさか、こんなところで見つけるなんて」
湊さんは右手の人差し指と中指だけを立て、唇に触れさせながら聞き取れない音量でなにか呪文らしきものを早口につぶやきはじめた。
グニャリ
絵が歪んだように見えたけれど、気のせいなのだろうか。わからないけれど、でも先程とはなにかが違っている気がする。
湊さんは空を切るように指を払い、そのたびに絵の色が変化しているように見える。
濃い朱色が薄い朱鷺色に変化した瞬間を目撃した。
「もう少し下がっててくれ」
今更もう足手纏いにはなりたくない。言われるがままに後ろへと下がる。すると、絵のあちこちから大きな泡玉のようなものが膨らみ始め、あれよあれよと巨大化した。
湊さんは私を背中に庇いながら、部屋の角まで退避する。
グシャ、ビシャ
泡が弾け飛び、中から血の塊のような赤黒いドロドロした液体が垂れ出した。とんでもなく臭い。先程嗅いだ強烈な悪臭は、これだったのだ。
「屍からとった腐った血で描いている。とんでもないバカ野郎だと思うだろう?」
彼はそう言うと、絵にシーツを掛けて窓から下へと降ろしはじめた。外にはあの黒いスーツをきた大きな男がいて、ふすまを受け止めている。
「呪いの品はこれで全部かな。いよいよこれからが本番だよ」
「はい。かしこまりました」
大男さんは声帯が潰れてしまったんじゃないだろうかという掠れた高い声で、返事をした。
「つばめ。リビングに戻って儀式を執り行う。その前に水分補給をしよう。全員分のカップを用意してくれるかい?」
「はい」
袖まくりした腕に汗が浮かび上がった肌が、やけに艶めかしく光っている。こんなに寒いのに。
廊下を歩き、階段を降りてリビングのドアを開けると、そこには白装束を来たお父さんとお母さんが椅子に座っていた。ふたりとも明後日の方を向いて、互いの存在から目を反らしているとしか思えないような配置だ。
それにしてもさっきまでの暗い家は、幻を見ていたということなのだろうか。
湊さんが取っ手の長い水差しでいれてくれた白湯を私が戸棚から出したマグカップに入れ、ひとりずつに手渡しし、一気に飲むように伝える。
お母さんは怯えた小さな女の子みたいになって、いやいやと首を振って拒絶した。でも、湊さんはまるで学校の先生の諭すような、あやすような口調で説得した。
湊さんの手がお母さんの額や耳の後ろに触れるたびに、お母さんの目付きが段々と元に戻っていくような気がして、目が離せない。
「じゃあ、始めていきますよ」
自らも白湯を飲み干した湊さんは、鋭く目を光らせながら宣言した。
裏庭の窓がガラリと開いて、先程見た大男さんが白いゴム手袋を嵌めて立っていた。その足元にはあの酷い悪臭放つぬか床のバケツが置いてある。
「取り出して、そこに並べてくれ」
「はい。かしこまりました」」
大男さんは額に汗玉を沢山ぶらさげながら、しゃがんでぬか床の蓋を開けると、黒く変色しちゃっているぬか床に右手を突っ込んだ。そして中から何かを取り出し、床に敷かれた新聞紙のうえにそれを広げた。
「これって、お札ですよね?」
私が言うと、湊さんは「そのようだ」と言ってうんうんと頷いている。
「数えたいんだけど、洗うの手伝ってくれるかい?」
「あ、はい!」
私は大男さんが並べたお札らしき紙切れを何枚か持って、シンクの中に置いて水をかけた。ぬかが剥がれて、排水溝に流れていく。紙切れは確かに一万円札だった。
バシッ
お父さんに引っぱたかれた頬の激痛が蘇える。
盗まれたんじゃなかったんだ。
こんな場所に隠されていた。
「……なんで、こんなことを?」
お母さんに文句を言ってやりたくて振り返ると、ごめんなさいと泣きわめき出した。




