もう騙されるものか
シャラン
寝室のドアの取っ手に手をかけようとした寸前、ドアの向こうから聞いたこともない音がした。沢山の鈴が一度に鳴っているような―――ためらう。
「つばめ。岳彦が君のために祈ってくれている」
湊さんの声が、スッと心に沁み込む。
岳彦に報告するんだ。気難しい顔じゃなく、笑ったところも見てみたい。暗い話題以外で、彼と沢山話がしたい。もっと仲良くなりたい。そのためにも、私が自分の手で悪夢を終わらせなくちゃ。
「はい。感じています」
ドアノブを掴んだ途端、急に景色が変わった。いつの間にか大きな和室の中にいる。獣臭を感じて、鼻を抓んだ。この家に入ってから色んな刺激臭を嗅いできたけれど、この匂いが一番キツイ。涙が出てくる。
どう考えてもうちの間取りからはかけ離れた巨大空間にひとり放り込まれたようで、怖くて動けない。すると、左手の奥の暗がりから畳を擦り歩くような足音が聞こえてきた。
「……湊さん。なにか居ます……」
―――反応がない。
「う、う、うそ! 湊さん?! 一緒にいてくれるんじゃなかったの?!」
反応しない。急に足元が消えて奈落の落とし穴に吸い込まれていく自分が見えた。
「き、……キャアァァァーーーーー!!」
迫りくる気配に向けて、悲鳴を上げながらも両手を前に突き出す。
校長室で岳彦がやっていたポーズを真似して、先程唱えた舌を噛みそうな呪文を唱える。
「ノウマク サンマンダバザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」
不思議なことにちゃんと覚えていた。気配はぴたりと足を止め、闇の向こうからこちらを見ている。パキン、ゴン、ドンドンッ、あらゆる場所から音が鳴り出した。
「ノウマク サンマンダバザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」
床だ。
何をすべきか思いつき、私は両手を畳に叩きつけた。
「ノウマク サンマンダバザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」
触れてみると、畳の感触ではない。どうやら私は幻覚を見ているようだ。
床に手を着いたまま、摺り足で部屋を進む。
何もないはずの場所に、身体がぶつかった。両親が寝ていたベッドだ。
呪文のおかげだろうか。あちらは私を見ているだけでなにもして来ない。
「ノウマク サンマンダバザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」
だけど段々と息苦しさが増していく。
酸素が薄いみたいだ。
ベッドに捕まりながら、押し入れに向かって移動し続ける。湊さんの言う遺物があるとしたら、そこしか考えられない。引っ越してきたばかりの頃、私はありとあらゆるドアを開けて隅々まで見て回ったから、間取りは頭の中にある。
目の錯覚を祓い落とすため、一度目をギュッとつむった。
シャラン
また、あの音がした。
急に空気が軽くなり、重力から解放されたように身体がらくになる。
「つばめ! つばめ、しっかりしろ!!」
湊さんの声が遠くから急速に近付いてくる。
え?
「つばめ! 負けるな!」
状況が読めない。湊さんの顔が近くにあって、びっくりして飛び起きた。
「……あれ。私、今なにをしてたんだろう」
頭が真っ白だ。気持ち悪いほどなにも覚えていない。
「手っ取り早い方法を教えてやろうか? お前が自ら身を捧げれば、両親は死なない」
端正な顔立ちの日本人離れした湊さんの口から、耳を疑うような言葉が溢れ出す。
ザワザワする。また、次の夢を見させられているのだろうか。
湊さんが言いそうもない卑猥な言葉はすぐに無音となった。意味がないと気付いたのか、グワッと顔を歪めた湊さんが砂細工のように一瞬で崩れ落ちた。
シャラン
今度は自分の部屋だ。夕焼けのオレンジに染まる壁にもたれるようにして、岳彦が座っている。
友達のいない私が初めて自分の部屋にいれた、最初のひと。高身長で大人びた目をした岳彦が、思い詰めたような愁いを浮かべながら近付いてくる。
「つばめの願いを言ってごらん。ぼくが叶えてあげる」
岳彦が絶対に言わなそうな甘い声。
―――鈴の音だ
一連の幻覚は、あの鈴が鳴ったときに変わる。私を近付かせないために、鬼がやっているのだろう。そうとしか思えない。私の心の中にある大切な思い出を使って、都合の良い夢を見させているのだ。それが大昔からの鬼のやり方であることを、なぜか私は知っている。餌にくいついたら、一瞬で食べられてしまうことも。
もう騙されるものか!
「つばめ。ぼくは出会った時からお前のことが……」
私は両手で耳を塞いだ。
「ノウマク サンマンダバザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」
鬼は記憶をいじる。過去を歪ませ、夢と現実の境界線を壊し、至福と絶望を操る。
奴らにとったら人間は玩具も同然なのだ。永遠の時間を持て余し、暇つぶしのために戯れ、使い物にならなくなったら一飲みする。悪趣味もいいところだ。
「お前なんか、地獄の業火で燃えてしまえ!!」
奪われた人間の命は鬼の体の一部となって現存し続けている。でも、縛られた魂は長い年月をかけて徐々に光を吸収され消えていくのだ。
それにしても、闇の中で存在し続けている鬼が、人の魂から光を吸い上げなければ生き続けられないなんて皮肉だな―――
青白い炎の塊が雨のように降りしきる。
岳彦の髪や皮膚が燃えて、僅かな時間で髑髏に変わった。
髑髏が悲鳴をあげる。
その喚き声は、夜の水辺から聞こえてくる鳥の鳴き声に似ていた。
ギャァァァァアアアアアアアアアアアアアアアア
鈴の音はもう鳴らないようだ。
「鬼を一匹退治しましたよ」
そうつぶやくと、背後から現れた背の高い湊さんが無言のまま私の肩に手を乗せた。




