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江戸時代からの悪霊

 床下から抜け出して台所に戻ると、さっきよりずっと空気が軽くなったような気がする。それに、匂いが薄れた。


 あの井戸に蓋をしただけなのに。す、すごい……


「つばめ。次は台所のシンク下の扉を開けて、お母さんのぬか床を取り出すんだ」


「は、はい」


 ぬか床と聞いて、あのおぞましい朝の風景が蘇る。


 様子がおかしくなったお母さんは臭いご飯を用意し、自分だけなにも食べずにひたすらブツブツつぶやきながらぬか床を掻き回していた。背中を丸めて、頭を下に下げて、ぐしゃぐしゃと不気味な音を立て続けるお母さんは、まるで山姥みたいだった……。


「あ、あの。勝手に私が触ったら、お母さんが怒るんじゃないかと……」


 どうしても聞かずにはいられなかった。一度もそんな場面に出くわしてもいないのに、頭の中のイメージではぬか床について意見しようものなら、鬼の形相になったお母さんがこちらに振り返って私のことをボロクソに罵るのだ。


 あ。夢で見たのか―――


 そうだ。夢だ。夢の中で私は何度もお母さんに包丁を突き立てられて死ぬ……。


「つばめ。お母さんを助けたいだろう? お母さんに獲り憑いている存在は江戸時代からいる悪霊の類なんだ。井戸を塞いだので今は一時的に影響をシャットアウトできている。でもまごついていると悪霊はまた井戸の蓋を開けて出てくるだろう。その前に、ぬか床に隠されたものを全部引っ張り出さないといけない。家の外まで運ぶだけだ。さぁ、急ぐんだ」


 江戸時代からの悪霊?


 そう言われてみて初めて自分が感じていた匂いがこの時代のものにそぐわないものだったことを確信した。シュルリという布擦れの音も、着物からする音だということも。


 真夜中に悪夢から目覚めたとき、部屋のどこからともなく聞こえていた布擦れの音。暗闇に目を凝らしてまで正体を目視したいとは思えず、硬く目を閉じて布団で顔を覆い隠した日々がようやく終わる。その音は思えば引っ越してきた日の夜から始まっていたのだ。


「わかりました。やります!」


 気合を入れて、シンク下の両開きドアを開けた。気絶しそうな程臭い。腐乱死体でもあるんじゃないかっていうぐらいに、刺激臭が強い。


「うぅぅぅ!」


「大丈夫か?! 頑張れ! つばめ!」


 涙目になりながらも、小さなバケツサイズのぬか床の取っ手を掴み持ち上げる。これが見た目よりもずっと重たくて、両脚で四股を踏むような恰好にならなければ持ち上がらない。さっきの石みたいだ。


「お、重いんですけどぉ!」


 強烈臭の根源を自分に引き寄せ、嘔吐が襲う。


 こみ上げるものは酸っぱい胃液ばかりで、なんども飲み込んだ。


 諦めるものか!


 家族のために、今自分ができることをやりきるしかないんだ!


 不可能なんてない。どんな試練だって、乗り切ってみせる!


 気合を切らさないように頑張っていると、重みが徐々に変化しているようだ。歯を食いしばって持ち上げると、糸が切れたみたいに急に軽くなった。


「念を送り支援をしている。接着剤の役目を果たしていたものをこちらで処理した。さぁ、急げ」


「はい!!」


 私は両手でぬか床を持ちながら立ち上がり、駆け足で玄関に向かった。でも、ドアを開けようとしても岩を相手にしているように動かない。


「それだけ霊力が強いんだ。仕方がない。そのぬか床はドアの前に置いて、次の作業をしてもらう。今度は二階に上がるんだ。両親の寝室に向かってくれ」


「寝室……」


 私がこの家に住み始めてから、最も近寄りがたい場所が両親の寝室だった。自分の部屋とは廊下を挟んだ真正面にあり、ベランダがあるので洗濯物はそこで干している。前の家のときは洗濯物を取り込んで畳むのが私の担当だったけれど、この家に来てからはそれができないほどなぜか避けてしまうという問題の部屋。


 そんなところに行かなくちゃいけないなんて。脚が震えてくる。


「怖いね。つばめは勘が良い。あの寝室にはこの家を建てた前の住人が遺したものがある。その人は重い病で長い間苦しんで死んでいるんだけど、おそらくその遺物が病気を誘発させたんだと俺は睨んでいる。だから、一番危険なものに触れることになる。変わってやれるものなら変わってやりたいが、この家に選ばれた者にしか触れることができない代物だ。君にしかできない」


「……はい。わかってます。私がやります」


 なにもしなければ、私達親子は死ぬだけだ。どうせ死ぬなら、相打ち覚悟で戦いに挑む。優しかった両親を変え、互いに憎しみ合うように仕向けたのが悪霊たちの仕業と知った今、私が憎むべき相手は明白だ。人生を狂わされたまま死ぬとか、あり得ない!!


「湊さん。悪霊を消すことはできますか?」


「……この仕事に就いて、同じぐらい危険な悪霊に遭遇したが、あいつらは死霊のくせに生存本能が強くて最後は必ず逃げるんだ。だから、退治できたことはまだ一度もない。でも、君のその覚悟があるなら百人力だ。今日こそは鬼退治を果たす」


「鬼退治?」


「霊は本来、この地上では永くは存在できない。依り代を持たない場合はね。生きた人間に獲り憑いてその生き血を吸いながらより好みに合う依り代を選ぶようになって、丁度いい人間を見つけると自分の活動領域に誘導するんだ。檻の中に閉じ込めて弱らせ、魂を食い体を乗っ取る。そうなった悪霊のことを俺は【鬼】と呼んでいる。鬼は業が深い。なにせ魂を食い自らの存在を強固にするわけだから、殺人よりもずっと質が悪いんだ」


「殺人鬼よりも、もっと悪い存在が【鬼】なんですね?」


「そういうことになる」


「鬼退治は、どうやるんですか?」


「鬼退治は俺の仕事だ。見たいなら、そばにいなさい」


「はい」


 なんだろう。鬼退治という言葉を聞いて、自分でも不思議なぐらい勇気が湧いてきた。

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