泣き言をいっている場合じゃない
「悪いが説明している時間が惜しい。急いでくれ」
胸焼けで今にも吐きそうなほどつらいけれど、泣き言をいっている場合じゃないことぐらいはイヤでもわかる。
もう煮るなり焼くなりしてくれてかまわない!
さっさと終わらせないと!
私は意を決して、水に飛び込む準備と同じく深呼吸を繰り返す。
臭いは確かにキツイけれど、酸素がないと死んじゃう!
ここぞというタイミングで床下の土に着地した。裸足なので、ひんやりとした湿気のこもる土が素肌に張り付いてくる。
小さな砂利のせいで足裏は地味に痛いけれど、それも今はどうでもいい。
暗闇に目を凝らすと、人の頭部ほどの大きくて丸いものがそこら中に転がっていた。
たちまち、ガチガチガチガチと歯が鳴り出す。
生理的な震えは自分の意思では止められないようだ。
「目を合わせてはだめだ。こっちに向かって歩きなさい」
右手が勝手に動いて、指先がひとつところを指した。そちらに目を向けると、なにか大きな箱のようなものがうっそりと横たわっている。
思わず、ごくりと生唾を飲み下した。
一歩、また一歩。
中腰の体勢で移動していくのは、思いのほか体力が要る。そう判断して、怖いけれど一気に目標物に向かって突き進んだ。
闇に目が慣れてきたおかげなのだろう。横たわっているように見えたそれは、予想を超えた姿かたちをして私の前に現れた。
「……井戸?」
むかし、テレビシネマで放送されていたホラー映画を喚起させる構図だった。
石を積んでコンクリートで固めたような歪なかたちの井戸のくちの上に大きなベニヤ板が乗せられ、その上に先程から気になっている丸い石が二つ並んで置いてある。
「そうだよ。これは井戸だ。かなり深いから落ちないように気を付けるんだよ」
いやいやいやいや……、落ちるだなんて言われるまで考えなかったよ。
「蓋がずらされていて、くちが少し開いているのがわかるかい?」
私の口を借りて岳彦のお父さんである湊さんが問いかけてくる。奇妙なんだけれど、今ひとりでいるよりは俄然心強いには違いない。
私は勇気を振り絞って井戸に顔を寄せていった。
「あ、はい。開いてますね」
板が割れて、裂け目が十センチほど口を開けている。覗き込むような余裕は一切なく、じっと見つめていたくはないのですぐに目を反らした。
反らした瞬間、目尻のあたりで白い人影のようなものが見えた気がして、ゾゾゾと背筋に虫唾が走った。
「ひぃぃぃぃ」
「手出しはさせないから、安心して。じゃあ、その穴を塞がないといけない。別の板を探してきてくれないかな。吹き飛ばされた破片がそこらに転がっているはずだから」
吹き飛ばされた?
気になる言葉に意識が集中してしまうのは、私の癖だ。今はそれよりも指示されたとおりのことをしなくてはいけない。
余計なことを考えている暇はないんだ。しっかりしろ!
懐中電灯もないなか、手探りで板の破片を探す。時々、自分の右手が勝手に動いて方向を示すように指差しをするので、案外すぐに板は見つかった。
「ありました!」
「よし、じゃ、それをあの穴の上に橋渡しするような恰好で乗せて、石を置くんだ」
「はい!」
井戸に戻ろうと振り返ると、目を疑う光景が広がっていた。
リーン、リーン、リーン―――
聞き覚えのある鈴の音色。
床下のはずが、いつの間にか外にいる私。思わず立ち上がり、辺りを見渡した。紺色の闇に沈む風景は大昔の日本を思わせるものだった。木造の粗末な家が立ち並び、その一角に井戸があって、井戸の上にはちゃんと屋根が設けられている。でも、良く見れば今にも崩れ落ちてきそうなほどボロボロだ。
「湊さん! これって……?」
あれ? 聞こえない。さっきまで一緒にいた湊さんの声が、聞こえないんですけど!!
リーン、リーン、リーン
鈴の音。いや、違う、これはおりんの音だ。お仏壇の、あの茶色くて金属製のお椀みたいな鈴……。
「ど、ど、どうしよう! 湊さーん!! どこに行っちゃったの?!」
いきなり心細くなって、私はしゃがみ込んだ。
おりんの音は右から左へ、左から背後へ、そしてまた右へと移動してながら近付いてくる、気がする。
「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!」
泣き声混じりの悲鳴を上げて、しゃがんだまま音から逃げるように夢中で走った。
気が付けば井戸の足元まで転がりこみ、手に持っていた端切れを穴に乗せて石を掴む。
石は思った以上に重くて、持ち上がらない!
「動いて! うごけぇぇぇ!」
涙が止まらない。怖くて振り向けない。でも、やるべきことはひとつ。
この穴を、湊さんに言われた通りに塞がなくてはいけない!
「動け! 動け!! 動けえぇぇぇぇ!!」
恐怖と怒りを力に変えたい、と願いを込めて石を持ち上げる。すると、さっきまでの重さが嘘みたいに急に持ち上げられた。間髪入れず、端切れの上にそれを置く。突然、風景が煙が巻くように一瞬で消えていった。
「え? なに? 何が起きたの?」
茫然としながら、周囲を見直していく。最初に降りてきたときとは全く違う景色が広がっていた。しかも、かなり狭い。
「よくやった!」
自分の口から、湊さんの声が飛び出す。
「一瞬、ヒヤリとしたけど。つばめがしっかりと仕事をしてくれたおかげで、第一段階はクリアできた。さ、ここから上に戻るよ。動けるかい?」
「は、はい!」
私は飛び上がるように床下収納の四角いハッチ式の扉に向かって、四つん這いに移動した。さっきあったはずの大きな石はひとつも見えない。
「あれ? なんで?」
「悪いけどまだ説明できる段階ではないんだ。さぁ、やることは次々とこなしてもらうよ。君じゃなきゃできないことばかりで、本当に悪いんだけど」
湊さんの声から、私を労ってくれている感情を感じる。
なんか、こういうのってすごく嬉しい。私をただの子供じゃなく、ひとりの人間として認めてくれているようで、ものすごく……涙が込み上げてくる。
「つばめ。一緒にやりきるぞ!」
「は、はい!!」
湊さんが想像より斜め上を行くほどの明るい声で、私の尻を叩いた。




