家族を守るために
◇
ピタン、ピトン、ピチャン
水の滴る音。そこに、ボソッとした誰かの声が届いてくる。どんなに耳を澄ませてもはっきりと聞き取れない声は、なにかしらの音が起きる時に必ずその波動に乗って私まで飛んでくる。
しっとりとまとわりつくような嫌な気配は、いつからだろう。私とお母さんの間には常に黒い影が居て、最初は物凄く気味が悪かったのにいつの間にか気にならなくなっていたんだなって、今にして思う。眠るときも、起きている間も、私達家族以外の何者かがこの家にはいた。引っ越しをする少し前からおかしかったんだ。嗅いだことのない線香のような匂いが、お母さんからしていたんだもの。
少しずつ自分が歩いた道のりを遡り、足跡を踏みしめながら見落とした風景を取り戻すように、私の心は過去へと飛んでいく。でも、今とても怖い。怖くて、怖くて、身体の芯から震えが止まらない。この先にある決定的ななにかを目撃する勇気がない。見たくない、聞きたくない、知りたくない。怖いよ、怖いよ、怖いよ……
お母さん、お父さん、どうして居なくなってしまったの?
ふたりともまるで知らない人みたいだったよ。この家に越してきてからは、特に。
ポタ、ポタ、ポタ、ポタ、ポタ、ポタ、ポタ
重い音。床に滴るなにかが、ただの水ではないとはっきりとわかるぐらい重たい質量の音がする。その瞬間から、鼻を付く酸っぱくて気持ち悪い腐敗臭が波しぶきのように降りかかった。
おそるおそる目を開けると、私は玄関の上り框のところから内部に向かって立っていた。いつの間に帰ってきたのだろう。記憶がない。変な感じだ。
ガサゴソ、ガサゴソ……
居間の扉が薄く開いていて、そこに黒い影が通り過ぎて行く。さらに奥から布を擦るような、ジッパーを開けるような、そんな音が忙しなく聞こえてくる。
「お母さん?」
お母さんという言葉は、幼い頃抱きしめてくれた優しい温もりを呼び覚ます。
「お母さん?! お母さん!」
そう叫びながら、私は走り出した。
数歩進めばすぐそこに入り口はあるのに、床を蹴って前に進んでいるつもりでもまったく進めない。後ろに引っ張られているのか、それとも見えない壁が邪魔をしているのか。
異変に気付いたように、音が止んだ。そして、黒い人の形をしたものが、ドアの隙間に立ちふさがりじっとこちらの様子を見ているのがわかる。黒い影を良く見れば、まるで髪の毛が意思を持っているかのように蠢いており、目だけが本物の人の目玉のように立体的で、白目には赤い血管が何本も血走っていて、お母さんじゃない、お母さんとは似ても似つかないバケモノがぽっかりと口を開けて私を見つめていた。
「いやぁぁぁぁぁぁぁ!!」
背中を下から上へと百足が走った。腰が抜けて、尻もちをつく。そこは濡れていて、着いた手を持ち上げると指と指の間にはねっとりとした糸を引いていた。しかも、とんでもなく臭い。刺激臭が凄過ぎて、えづいてしまった。
「つばめ!!」
突然真上から降ってくる、お母さんの声。ハッとして顔を上げると、あの黒髪のバケモノがすぐ目の前まで来ていて、真上から私を覆いかぶさろうとしていた。咄嗟に胸に手をあてる。そこには、湊さんから貰ったお守りがあるのを反射的に思い出したのだ。
「汚い手で触るな!!」
お守りを握りしめた瞬間、私の口から飛び出したのはまるで自分ではない誰かの声だった。
「ノウマク サンマンダバザラダン センダ マカロシャダ ソワタヤ ウンタラタ カンマン」
聞いたこともない呪文が自分の口から流れ出す。それもかなり長い。まるで、校長室の一件で岳彦が唱えた呪文にそっくりだ。
意味はわからないけど、目の前に居たバケモノが後退しながらチリチリと火花を散らしている。吐きそうなほど強烈な悪臭までもが薄まっていく。
「気を抜くな! つばめ! まだ始まったばかりだ! あと六回、あんなバケモノがお前に襲い掛かってくるだろう! いいな! この家は大事な家族を守るための場所だ! 徹底的に清めるぞ!」
湊さんの声だ。あの人が私の味方になってくれているのだ。そう思ったら、勇気が沸き上がってきた。
「君のエネルギーは強い。あのバケモノ達がそこに目を付けて、君の家族を支配しようとしていたんだ。家の中に本来あってはならないものが配置されている。今からそれを探して、最後にお焚き上げをする」
「はい!」
私ひとりしかいないのに、湊さんと自分の会話が成立している様はなんだか可笑しかった。
「笑うだけ元気があって良かった。じゃ、まずは台所へ行く」
「はい!」
立ち上がるとあの汚らしいドロドロとした液体はすっかり消えていた。廊下は元通りになり、居間のドアに人影はいなくなっている。
「急げ。つぼみ」
「はい!」
躊躇っている場合じゃない。まだ少し怖いけど、自分で行くしかないのだ。家族を守るために。
ドアを開けると、一層暗くて重い空気がのしかかってきた。
「窓を開けたいだろうが、まずは床下のものを取り出してくれ」
「はい!」
床下?
なんのことを言っているのかわからないけれど、台所へと駆け込む。そこはまた別次元の猛烈な悪臭が立ち込めている場所になっていた。
「ううぅぅぅ!」
鼻をつまんでも肌から染み込むほどの刺激臭に、目から涙が流れる。
「がんばれ。君がやらなければいけないんだ」
「は、はいぃぃぃ」
覚悟を決めて、四角い床下収納の蓋を開けた。耐え難い匂いと紫色の闇が顔に吹き付けてきたので、両手でそれをかばう。肌を切り裂くような鋭い痛みが皮膚を覆った。咄嗟に、目に見えない火の粉を払い落とすと痛みは消えていく。




