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事件は家の中で起きた

 なにもかも奇妙に感じていた。だって、武彦は背が高すぎるし、それに口ぶりも態度もまったく子供らしくない。もしかすると、私も周囲からはこんな風に見られているんじゃないだろうか。だとしたら、色々と気をつけなくてはいけない。


 道はば六メートル程の住宅街をつらぬく道を、私達は並んで歩いた。岳彦は大きな水溜まりの前で立ち止まると、しばらく眺めてから、今度は転がっている石を思いきり蹴って水しぶきをあげさせた。それから、道端の白線の上をつな渡りするようになぞり歩きをした。子供らしいところもあるのだと、少しホッとして見ていた。


 武彦の家は思ったよりも遠くて、うちに近かった。ボロくて黒ずんだ賃貸アパートの一階、一番奥の部屋だ。日かげで薄暗いのは、ブロック塀が高いから。一メートル程の高さまで青緑色のコケが生えていて、ここは湿気が多いことを物語っている。風通しが極端に悪い気がした。


「うちに入るんだよな?」


 玄関のカギを右へ左へとまわしてから開けた武彦の顔は、あいかわらず読めない。顔面の筋肉を使えない機能的な疾患でもあるわけじゃないだろうことは、さっきのやりとりでもうわかっている。


 あいそのない態度や言動からは、極度な警戒心のもち主だということはくみ取れた。


「家の人はいる?」


「いや。仕事に行ってる。父さんは……タクシー運転手で、今日は七時まで勤務だから」


 そこまで聞いて、私は玄関の中を覗いた。


 小さな玄関の上がりかまちの下には、武彦のものと思われる黒いクロックスが並んでいる。スンスンっと鼻をひくつかせてにおいを嗅ぐと、室内は思ったよりも臭くも湿っぽくもなかった。


「入るけど、約束して。変なことはしないって」


「変なこと?」


 武彦は眉間にしわを寄せた。


「エッチなことだよ。その手の話をするのも、なし」


「お前、チャンスをちょうだいとか散々持ち上げて押しかけてきたくせに、面倒くさい奴だな」


 武彦は、ろこつに嫌悪感丸出しの声をあげた。私も思わずため息をつく。


「用心に越したことはない。だから、カギは開けておいて」


「却下。返って不用心だ」


「こんな一番奥の部屋まで来て強盗する奴なんか、いる?」


「一番奥で人目に付きにくいから真っ先に狙われるんだよ。そんなことも知らないのか」


 武彦は小鼻を膨らませて鼻息荒く、私に説教した。


「……知らなかった」


 私はなるべく素直になることを心掛けようと思っていた。武彦とはやく打ち解けたくて、必死なのだった。


「警戒心が機能してるんなら、大丈夫そうだな。おまえ、切羽詰まって色々隙だらけなわりに案外ちゃんとしてるし。もちろん、約束するよ。ぼくはおまえを絶対に傷つけない。これでいい? 近所迷惑になるといけないから、さっさと上がって」


 武彦に目をそらされると、チクリと胸が傷んだ。


 室内はガランとしていた。男二人暮らしというからにはもっとおじさん臭いのかと思っていたけど、そんなことはない。よく見れば、換気扇には真新しいフィルターが張られていて、キッチンのガス台にもきれいなアルミ製のカバーが設置されて、シンクもピカピカ。かなり清潔感がある。


「すごい! 綺麗に暮らしてるね」


「うちはお父さんもぼくも、汚れを放っておけない質たちなんだ」


 武彦の声から威圧的な力が抜け、かわりに少しだけ嬉しそうだ。自然な声で喋っている気がする。


「悪いけど、客をもてなせるようなものはないから、水道水でいいなら汲んでくるけど」


「い、いただきます」


 促されて座った座椅子が、この部屋で一番高価なものに感じる。畳をかぞえると八畳だということがわかった。隣にはもうひとつの和室があるようで、襖は閉ざされている。


「……お母さんは?」


 コップをテーブルに置いたと同時にぶつけた質問が悪かったのか、武彦は体を硬直させた。明らかに強く動揺しているのがわかるほどの強張りに、私の心にも緊張が走る。


「ぼくの話はいいよ。お前の話を聞かせろよ。なんで、よりによってぼくに声をかけたんだ?」


 武彦が正方形のテーブルの右横に座った。これじゃ視線を交わすだけでも頭を傾けなければならず、思わず背もたれにもたれてから何をどう話そうかと考える。


 彼は乱れていた髪を手櫛で整え始めた。顔を見る勇気がなくて、私はコップの下に溜まっていく水に注目する。


 こんなところにも水溜りがあることに、なぜかホッとする。


「ずっと、誰かと話がしたかったんだ……。私」


 思ったよりも小さな声しか出てこない。


 急に部屋中の空気が私を押し潰しにかかってきたような気がする。


 体の奥では針に刺されているような痛みが暴れ始めていた。つらくてうずくまりたいけれど、我慢して話を進める。


「話し相手が欲しくて、校門の前で待ってたの。こっち側にいる子はいないかなって」


「こっち側?」


 武彦はしばらく私をじっと見ていた。警戒しながらも敵を観察する野良猫のような、そんな目をしている。


「平和呆けしてる子は無理なんだよ。私の話を聞いても困らせるだけ。重い十字架を背負わせてもイヤだし。だから、あんたみたいな子がいたら、手あたり次第に声かけるつもりだったの。でも、思った以上にいないんだよね。虚ろで攻撃的な目をした子なんて、なかなか……」


「虚ろで攻撃的な目って、どんな目だよ?」


「さっきのあんたが正にそれだった。誰とも目を合わさないようにしながら、周囲に対して必要以上に警戒してるの。大きな傷を隠している者の目付きっていえばわかる?」


「……」


 武彦は目をしばたたかせた。それから、疲れたと言わんばかりにため息をつき、左手の指先で目とその縁をもみ始めた。


 つい気になって見ていると、彼はお人形のように白くて綺麗な顔立ちをしている。背の高さといい、この顔立ちといい、こんな子が同じ学校にいたなんて今更ながらに驚いてしまう。


 私は得体の知れない話を聞かせても良いものか、この期に及んで迷っていた。でも、せっかくここまで来たのだ。いや、でもやっぱり馬鹿げている。もう帰ろうかな、と考え始めていた。その時。


「沈黙が長すぎる。もっと、核心に触れてくれよ。時間が勿体ない」


 驚いた。


 まさか、急かされるなんて思ってもみなくて。


 彼は両手を顔の前で組んで、ジッと私を見つめている。


 ドキドキと鼓動が高まっていく。


「わ、私にも話しやすい順序があるの。それは、付き合って貰うから!」


「あぁ。わかってるよ、そんなことは」


 私は一瞬の緊張を、わざとらしいほどの大きなため息で紛らわせた。


「うちに泥棒が入ったかもしれないの」


 探偵気取りには、この入口が最もふさわしい気がした。


「かもしれない?」


 私は彼の反応に手ごたえを感じながら、頷いた。


「そう。私のお母さんの大事な指輪を、誰かが盗った。それに、一緒に置いてあった封筒も消えたの。中身は銀行からおろしたばかりの五十万円が入っていたって」


「それが、いつの話?」


「一週間前」


「おまえん家ち。金持ちなの?」


「お父さんは普通のサラリーマンだし、お母さんはパートをしている兼業主婦」


「兄弟は?」


「いない。私はひとりっこ。お金が消えた日は、お母さんの同僚っていう女の人が来ていたらしいの」


 彼女は御作みつくりという珍しい苗字の独身女性で、香水の匂いがとにかくきつかった。ちなみに私は個人的にこちらの部外者が一番怪しいと思っている。


「その同僚が犯人だと、お前は考えてるんだな?」


 言う前から見透かされて、思わず言葉が詰まった。


 片眉を吊り上げた武彦は神妙な表情を浮かべて、私をまっすぐに見据えている。


 こんな風にじっと私のことを見てくれる瞳と向き合うのは、いつぶりのことだろう。気恥ずかしさに耐えかねて思わず自分から目をそらしてしまいそうになったけれど、グッと我慢して、私は頷いて見せた。


「そう。でも、お母さんは違うの一点張り。お父さんは、不用心だったお母さんの落ち度を散々ののしって、怒り狂っちゃってさ。このままじゃ本当に離婚しちゃうかもしれない」


 私は膝を抱きしめながら、途方に暮れた。


「なんとかしたいんだな?」


 静かなる声に、ハッとする。武彦は自分のコップをつかんで、天井を仰ぎ見るように一気に飲み干した。


「真相を調べてみるか?」


「そんなこと、できるの?」


「お前はどうしたいんだよ? 誰かが嘘をついて、別の誰かがえん罪を受けて傷付いている。それが家族間で起きているなんて、とんでもなく不幸なことじゃないか。そうだろ?」


 私はわななく唇を意思の力で食いしばった。そうしないと、泣き出しそうで。でも、目にはもういつ落ちてもおかしくないほどの涙が溢れだす。


「……私は、なにをすればいいの?」


 震える唇から飛び出した自分のセリフに、戦慄する。武彦は、そんな私をいたわるような瞳で見つめながら「ちょっと考えるから、時間をくれ」と言った。


 全部話したら、やっと震えが止まった。一週間前、お父さんに疑われた夜から私の手は震えが止まらなくなっていたから。


 岳彦は、急に親身になってくれた。私の重たい話を聞いて、こんな反応が返ってくるなんて、胸が熱くなってくる。でも、まだ心のどこかでは人を信じることが怖い。あんなに優しかったお父さんとお母さんが、お金が消えた日を境に豹変したのだから。人は変わる。手のひらを返したように、ある日突然知らない人みたいに変わってしまう。


 お父さんの目とお母さんの暗い顔が、瞬きのたびに瞼の裏に見えた。


 私を追い詰めて白状させたい二人は、嘘つきには食べさせるご飯はないと言って、夕飯を抜いた。空腹に慣れ、眠れない夜を超えて、今日に至っている。おかげでシャツをまくればあばら骨がうっすらと浮いて見える。食べてないのにお腹は下すし、水を飲む気力も本当のところは残っていない。


 だけど、目の前に置かれたコップの中の水がとても美味しそうに見えたので、私は手を伸ばした。その水を口に含んだ途端、氷のように固まっていた緊張が解けたような気分になった。


 すると、きゅるきゅると空腹を知らせる音が部屋に響いた。私は恥ずかしくなって俯むくと、岳彦の声が降ってきた。


「こしあんのアンパンで良かったら、食べるか?」


 差し出されたパンの袋を見て、急に目頭が熱くなる。


「あ、ありがとう」


 泣きしゃっくりに、岳彦がギョッとしている。


「アンパンぐらいで泣く奴があるかよ」


「だって、嬉しくて」


 さっきまで追いかける私を振り切って逃げようとしていた子に、食べ物を恵んでもらえるなんて思ってもみなかったから。


 岳彦が、開封したアンパンを私の手に持たせるようにして、渡した。そのパンをおそるおそる口元へ持って行く。ひとくち、パクリと食べる。くせのないパン生地と、ねっとりとした固い感触のあんこが、噛むたびに混じり甘くとろけた。


「う、うぅぅ」


「泣きながら食うのかよ」


 岳彦は呆れたように箱ティッシュを私の前に置いた。


 給食も味わえなかったのに、アンパンはやさしい味がして、あっという間にぺろりと平らげた。


「お前の家族は、どこから来たんだ?」


「え?」


 突然の質問にどう答えて良いかわからず茫然としていると、岳彦は言葉を選び直したかのように質問を変えてきた。


「今住んでいる家は、一軒家なんだろ? 持ち家? 借家?」


「中古で買った家だよ。私が小学一年になるときにリフォームして、引っ越したの。その前は市営住宅に住んでいたんだけど、六年前のことだしあんまり覚えてない」


「そうか。近所には住んでいる人はいる?」


「いるけど、空き家も多いかな」


「そこらへんには動物の墓地とかある?」


「え? 動物の墓地かどうかは知らないけど……っていうか、そのまんま墓地なんだけど」


「ああ、なるほどね」


「あの。なんで、そんなこと聞くの?」


「ちょっと気になってね。なんかお前を見ていると、墓石の群れがぼんやり浮かんできたから」


「え。なにそれ。透視能力かなにか?」


「ま、そんなところだ。あのさ、考えたんだけど。とりあえず、お前の家に上がってみたい」


 岳彦はもうひとつのアンパンを食べながら、私の目をしっかりと見て言った。


「どんな環境で、どんな家の構造をしているのか、ちょっと確認しておきたいんだ。それから、お前の両親ともできれば会う必要がある。あいさつ程度でもいいから喋ってみたいんだ」


「いいけど……。いつ?」


「早い方が良いなら、今からでも」


「い、今から?!」


 私はつい、驚いて声を上げた。

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