悲しみや不満は涙が洗い流す
ぼくらが暮らす町は、わりと綺麗な長方形をしていて南北に長い。東西は山に囲まれ、町の真ん中には東西を分ける河川が流れている。湊が言うには、この町をデザインした人には危機管理に対する教養とセンスがあるらしい。
つばめとぼくが通う小学校は、町の北東部に位置している。北東部と言っても、はじっこではなくおよそ中央に位置する駅、その南側にある役所の対角にあって場所は悪くないそうだ。
鬼門と呼ばれる位置にあるわけだけど、鬼門封じのための神社や寺院もちゃんとあって現在も機能している。特に最北端にある崖が突き出た山肌にひっかかるようにして建造された山寺がいちばん重要な仕事をしているのだとか。
中央を流れる真帆路川沿いの遊歩道と公園の中にも悪いものを溜めない工夫として道祖神が祀られ、旧街道というわけでもないというのに地鎮神としての役目をはたしている。そんな抜け目のなさそうな町だけど、つばめの家があるあの場所だけは別。
真帆路川の遊歩道をふたり並んで歩いていると、つばめが昨日から今朝にかけて起きた怪異を説明してくれた。今まで生きて中で身近に感じる怪異の中でも、群を抜いている内容に正直ぼくは度肝を抜かれてしまい、すぐに言葉が出てこない。
つばめは震えながら時々目尻に溜まった涙を指で拭いているのに、声だけはしっかりしていて気丈に振舞っている。その様子を見ていると、ぼくを育ててくれた住職とその奥様がいつか言っていた言葉を思い出した。
『どんな困難であれ、その人が乗り越えられない困難はない。必ず、乗り越えていけるんだ』
育ての親ふたりからぼくへ向けた手向けの言葉だ。彼ら以外にも氏子さんらからいつも温かい気遣いをかけて頂いて、ぼくは小間使いとしてのお勤めもしていたわけで、様々な祭事をお手伝いしてきた。神の前において親と縁のないぼくのような子供でも、親の代わりとなって愛情を注いでくれる人はいる。その恩をお返しするためにぼくは求められる限りのご奉仕をしていた。
そこへ湊が現れた。日本各地を転々としていたという謎な男。左手の薬指にはしっかりとした結婚指輪がはめられていて妻がいると言っていた。ぼくは湊の養子になって一年半が経つけど一度も会ったことがない。事情があって今は会えないとしか言われていない。
「つばめは強い子だから、試練のレベルも高くなっちゃうんだろうね」
隣を歩く彼女にそう言うと、つばめは悲しそうに眉をひそませた。
「それは違うと思う。おばあちゃんが言うには、血筋による影響があるんだって。霊媒体質だから、お母さんも私も悪霊に獲り憑かれたって……」
血筋。その言葉を誰かの口から聞くたびに、ぼくの心臓の脈がズレる。
「迷惑な話だよ。血筋による能力の継承で、日常生活を送れないほどの障害が起きるなんて」
「まさか、自分がこんな目に遭うなんて今も信じられない」
つばめが悲痛な心の叫びを噛み殺したような声で、ささやいた。立ち止まった彼女は強く両手を握りしめ、涙をこらえている様子。意地らしいその姿を見て、ぼくの手は勝手につばめの手を取っていた。
驚いた顔をされる。濡れた瞳が揺れている。
気の強そうな顔が泣き場所を求めて崩れ落ちそうで、もうこれ以上見て見ぬ振りはできそうになかった。
「泣けば?」
そう言った途端、わっと抱きつかれた。
身長差のおかげで、つばめにとってぼくの胸板が丁度いい高さにあって良かった。
年齢の割に背が伸びるのが早くて、どちらかと言えばうんざりしていたこの体格が、今初めて役に立っている。
つばめの細い腕が背中まで回り込んで、シャツを掴んでいる指が肌に擦れるたびに、何とも言えない感情が震えながら持ち上がってくる。おそるおそる、つばめの背中にやっと手を回した。添える程度に、でも無防備な彼女を護るために。
胸のところが涙と吐息で、火傷しそうなほど熱くなっていた。
自分と同じ年の女の子が、実際ぼくの胸を借りて泣いているだなんて不思議で。自分から言い出した事とは言え、急にオロオロとしてしまう。
初めて湊の胸に飛び込んで泣きじゃくった一年前の自分と重なった。
悲しみや不満は、涙が洗い出す。その機能を使わずに心に溜め込むと、自分の想像を超えた醜悪な怨念になって悪さをするのだと、住職は言っていた。もしかすると、つばめのお母さんも、身体から抜け出た絶望が救いを求めて、つばめを迎えに来たのかもしれない。ふと、そんなことを思った。
悲痛な鳴き声が次第に小さくなり、子供のようにヒックヒックと言いながらも、つばめは自分から立ち直ってきた。
恥ずかしいのだろう。ぼくと目を合わせようともしないで、黙々と歩き始める。その健気な背中を見ていると、ぼくも背筋が伸びる思いがする。
呉服店まではすぐだった。かつての商店街の一角にあって、シャッターがしまっていたり空き地になっている場所もいくつかある中で、馬場呉服店だけは場違いなほどしっかりと営業している。
自動ドアが開くと、すぐに店員さんが出てきた。今時とても珍しい割烹着のような服を着物の上に来ている、四十代後半ぐらいのふくよかな女性だ。
「いらっしゃいませ。敦賀様からご依頼の件ですね」
「あ、はい」
「岳彦くんよね。おひさしぶり。おばさんのこと覚えてないかな?」
確かにどこかで会ったような気がする。
「まぁ、しょうがないか。まだ小さい頃だったものね。急いでいると聞いたので、包装もタグも取り除かせて貰っております。ちょっと重たいけれど岳彦くんならもっていけそうね」
おばさんはそう言うと、用意された大きな紙袋を手渡してきた。紐でしっかりと包まれているし、紙袋は二重になっている。
「足袋も入ってますよ。請求書はのちほど郵送しますとお伝え下さい」
「あ、はい」
知ってはいたけど、着物というのは案外重たいものだ。ずっしりとした荷物を運びながら、今来た道ではない別の道を歩くことにした。これもまた湊から吹き込まれた知恵だったりする。とにかく、曲がれる角を曲がって行く。
「なにをしてるの?」
三つ目の角を曲がると、やっとつばめから疑問の声があがった。
「あとをつけられていることを想定して、道祖神の角を曲がるんだ。悪霊憑きを払った直後は、別の悪霊にも目を付けられやすいから」
「へ、へぇ……」
つばめの血相が変わる。ぼくらは歩きを止めないで、横に並んだ。
「大丈夫だよ。そのお守りが、いざという時身代わりになってくれるから」
つばめはショートパンツのポケットから先程湊が渡したお守りを取り出した。特に何の文字も書いていない、朱色の生地と白い紐で作られた小さな袋。
「……ねぇ、岳彦。うちの家族はどうなっちゃうの?」
「なにもしなければ崩壊だけど、湊が祓ってくれるからきっとだいじょうぶだよ」
「お金とか、指輪とか、消えたものとかはどうなるんだろう」
「気になる? モノはモノだよ。それを扱う人の念を祓う。祓ったあとで失くしたものが見つかるケースは良くあることだ」
「そうなの?」
「皆、思い込みを持っているんだ。そのせいであるものを見えないと錯覚していることは珍しい話じゃない。ないないと探したあげく、自分の頭の上にめがねを見つけたり、手に握っていたペンや鍵を探していたっていう話は聞いたことあるだろ?」
「うん。そうだね、そういうことなら良くわかる。お母さん、財布を無くしたことがあったの。自分でコートのポケットに入れたまま忘れてたらしくて、あちこち電話した挙句、カード会社に電話して止めたり、免許証再発行手続きに行くのにお父さんに試験場まで連れて行ってもらって。でも、しばらくしてお財布見つけた時は、お母さん物凄く恥ずかしがっちゃって、お騒がせしましたってみんなに頭下げて回って。お父さんも余計なことを言わないで、良かったねって言ってた。また、あんな平和な日常が戻って来てくれるなら、私なんだってする……」
つばめは懐かしそうに眼を細めてつぶやいた。
あんな酷いことが起きても母親への愛情を失ってはいないことに、ぼくは少しだけ驚きと共につばめという人間に尊敬の念を持ち始めていた。




