とてつもなく禍々しいもの
◇
熱い湯でシャワーを浴び、おろしたての白いティシャツを着て風呂からあがると、普段はなにもない冷蔵庫だというのに、食卓に美味しそうな料理がずらりと並んでいた。
ストライプの前掛けを外しながら、湊がぼくに先に座れと手ぶりで指示する。
「さ、しっかり栄養と燃料補給するぞ。空腹で戦いくさはできない」
「はい、いただきます」
向かい合っていただきますをする。かぼちゃの煮つけが大好きなぼくのために、湊は来るたびに用意してくれている。濃い口しょうゆの風味とかぼちゃの甘味の加減が今日もばつぐんで、感動すら覚えた。
「やっぱりそれが好きか?」
「……うん」
「じゃ、また作ってやる」
湊は嬉しそうに微笑んだ。良く笑う男。初めて出会ったとき、ぼくはこのうさんくさい笑顔に警戒していた。
人たらしの顔はいつだってにこにこしている。その笑顔の下で何を企んでいても不思議じゃない気がする。でも、彼はそんなぼくを見透かしたように言ったのだ。
『観察力と警戒心がある。素晴らしい素質だ』
彼の言う「素質」は他にもいろいろあった。素質というのは、教えて与えられることではなく、生まれ持った才能の片鱗のことを指すのだそうだ。
「現時点でわかっていることを報告、できるか?」
さぐるような言い方。こう言えばぼくの闘争心を刺激することを心得た言い方だ。初めの頃はすごく嫌だった。でも、今はもう慣れてきたせいもあって抵抗感が薄い。
給食袋のくだりは昨日話していたけど、時間が経ってみると気付くことがある。食事が終わり、箸を置いた湊は両肘をついて口元で指を互い違いに合わせ、目つきが変わった。彼が思考に集中するときの姿勢だ。
「つばめがぼくの巾着袋を手に持って着いて来たのは、偶然じゃないと思う。あの紐が解けるわけがないんだ」
「面白い。何かの力が働いたようだね」
ぼくの私物の巾着類の紐の結び方は、湊指導によって特殊な縛り方をしているため自然と解けるようなものではなかった。これはなにかあると、鈍くなったぼくにでもわかる。
「それでやっとぼくは彼女に興味を持った。でも、つばめの背後には高さ二メートルぐらいの大きな黒い影が立っていたから、これは関わらないほうが身のためだと判断して逃げたんだけど」
「ははは、その瞬間のお前の顔を見てみたかった」
湊は好き勝手に自分の感想を入れてくることがある。やりにくいから、やめてほしい。
「今はそういうの、やめて。ぼくの集中力は切れやすいんだ」
「ああ、ごめん。気をつけるよ。さ、続けて」
湊はすぐ真剣な目つきに戻った。
「つばめは本当に助けて欲しかったみたいで、全速力で逃げて隠れたぼくをすぐにみつけた。あの子にも素質があるんじゃないかな。ぼくが脇道に飛び込んだ場所にぴたりと足を止めて気配を探っていたから」
うんうんと湊が頷いている。
「それを見て、ぼくはもう逃げられないと観念した。それに、どんな内容が聞けるのかほんの少しだけ興味が湧いてきて。つい、うちに連れて来てしまった」
「すごいな、それは」
大袈裟なぐらいぼくを褒める。この相槌にも、慣れつつある。
「つばめにはしっかりとした警戒心があった。見ず知らずのぼくを相手に、話を聞いて欲しいという気持ちと、見ず知らずの男の家にあがる恐怖心が入り交じってた。結界を跨いだら、顔付が変わった。それから堰を切ったように事情を話してくれた。よどみのないわかりやすい話し方だった。切羽詰まっているわりに冷静で、言葉の選び方にもセンスを感じた」
湊は指組をやめて腕組の姿勢になり、椅子の背もたれにもたれて聞いている。
それからは、つばめがぼくにしてくれた説明をそのまま伝えた。家庭の中でおきた窃盗事件。そしてつばめの両親の不可解な言動の数々。
子供のぼくでは見えないなにかを、湊になら見えるのかもしれないという淡い願いを込めて話していく。つばめの家まで行き、見たことすべてを、感じたことすべてを余すところなく報告していった。
案の定、湊は「つばめちゃんの家に案内しなさい」と、席を立ち上がった。
◇
墓地を迂回する道には、ごく小さな鬼火が蛍のように飛んでいる。でも、ぼくらが近付くのを待たずして空気の溶ける。こうした微かな残留思念の塵のようなものは、墓地の付近で飛び交うことは珍しいことではない。
ただし、つばめが住む住宅地は西、北、東の三方を墓地に囲まれている。本来、こんな場所に住宅を建てるなんて、地主が売る相手を間違えたとしか言いようがない、と思った。見過ごせない状況だ。
「時代だよね。土地を売らないと税金払えなかったんだろう」
ぽつりとつぶやくように、なにも言っていないぼくに聞こえるぎりぎりの音量で湊が言った。税金だとかよく知らない。
「なるほど」
指差す前に湊はもうわかっていた。甲賀つばめの自宅は、五軒ならぶ同じ形状の一軒家のちょうど真ん中にある。他の四軒はそうでもないのに、つばめの家だけ薄暗いもやに覆われていた。
「これはひどいな。家の周りを見てくるから、お前はここにいなさい」
湊はそう言うと、小走りに家と家の隙間に飛び込んだ。塀はなく、足首程の高さのブロックで囲っているだけの簡単な仕切りしかない。
郵便受けと表札のためにある道路に直面したところにある門。ちょうどそこから仕切り通りに異空間になっているようにさえ見える。汚い水が満ちた水槽に沈んだ家といった風情だ。
反対側の隙間から現れた湊は、ぼくのところまで戻ってくると早口で言った。
「この土地になにか埋められているようだ。家の床下に入って異物を取り除かなければ、人間が暮らせる環境にはならない」
「骨とか?」
「もっともっと、不自然なものだよ」
「藁人形?」
「まぁ、そうだね。そういう感じがする。とてつもなく禍々しいものだ」
やっぱりそうなのか。ぼくはつばめのことが不憫でしょうがない気持ちになった。
「感受性豊かな子がこんな場所で暮らしてきて、精神が病まないわけがない。つばめちゃんは不眠症があるとか言ってたか?」
「目の下の隈は、一年やそこらで出来たようなものじゃない、気がしたけど」
「お前がそう言うなら、そうなんだろう。母親が気狂いになったのはまずこの場所に原因があるな」
同じ意見に、ぼくは安堵と落胆を覚えた。
「ぬか臭い、しかも相当腐ってる。それが床下にあるだろう。なかに何か隠してるな。低級な動物霊の他にもいろんな思念の溜まり場にもなっている。人間らしからぬ妙な習慣が現れていたはずだし、トイレも詰まりやすかったんじゃないかな。水が腐っているイメージが出てくる。ああ、そうか。古い井戸があるのかも」
湊の霊視が始まり、ぼくは持ってきた小さなノートにメモを取る。
「父親も良くない者に憑かれている可能性がある。それぞれ、三人とも祓う必要がありそうだ」
目を開けて眉尻を下げた湊が、苦々しい声でそうつぶやいた。ぼくはつばめのことが気になってしょうがない。彼女が今、どこにいるのか知りたい。
「つばめは祖母の家に連れて行くと先生が判断していた。そう遠くないらしい。明日の朝、学校に電話してみよう」
骸骨のような細い指の大きな手が、ぼくの肩を抱き寄せる。
湊の袖の下に入った途端に、心の中にひろがった暗雲が薄くなっていく気がした。
それから家に帰ってパジャマに着替え眠りにつくまでの間、湊はずっとぼくのそばにいた。特になにか話をするわけでもなく、彼はときどきこうしてべったりとぼくに寄り添ってくれる。自分からこうして欲しいとは言わないぼくに対する配慮なのだろうけれど、憎らしいほどそのタイミングが正確で凄いなぁと思う。ただ、本人にそれは伝えたことがない。
なぜぼくを見つけ、なぜぼくを自分の子供にしたのかも、ちゃんと聞いたことは一度もないけど。湊は他のどの大人よりもずっと信用できる。それだけはたしか。
つばめの暗い瞳を見たとき、ぼくは恵まれていることを思い知った。親を頼れない子供の目はあんな風になる。
希望の光のかけらさえも見えないほどの濃い闇に落ちて、寒さに震えながら朝じゃなくて永遠の夜を待つ。そんな壮絶な心細さを久しぶりにつばめから感じて、ぼくは胸が締め付けられた。
彼女を暗闇から救い出してあげたい。




