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ゆりかごのうた

 スッと、音もなく立ちあがったと思ったら、すかさず居間の障子を閉めきる。窓辺に行き、カーテンも閉めていく。さらに仏間と居間の間にある障子も全部閉めてから私のところに戻って来たおばあちゃんの顔は、覚悟のようなものが漲っているように見えた。


「……来たって、なにが?」


 ただならない様子。いくら鈍い子だとしても、この異様さを感じないなんてありえない。たった今食べたものが胃の先へ進むことができずに戻ってきそうになる。うっと唸り、両手で口を塞いだ。その時、


「母さん、開けて」


 ―——声が。


 それも、お母さんの、間違いない、聞き馴れたあの声がしている。


 バンバン、ガタガタガタガタ……、バンバンバンバンバン!


「つばめ! 開けなさい!」


 明らかに、手で叩いている音。振動によって鳴り続けるガラス製のスライドドアは、今にも壊れそうなほど大きくて賑やかな音をたてている。


「つばめ! 座ってな!」


 立ち上がろうとした私に、おばあちゃんが鋭い口調で命令した。額に皺を寄せ、両目を大きく見開いていて、どこを見ているのかわからない眼球が小刻みに震えている。さらに両足を肩幅以上に広げて腰を落とし、上半身を伏せるように低く身構え、部屋の四隅を気にするようにぐるりと一周しては、また呪文を唱え始めた。こんなおばあちゃん、見たことない。


 ゴクン、と唾を飲む。こうしている間にまだ音と怒鳴り声は続いている。近所の人がどんな風にうちの異変を見ているのだろうと考えた。


「うぅぅぅ……。つばめを守るだけで、精一杯だ。仕方ない。本当は、他人様に借りを作れるような歳じゃないんだけど……」


 歯ぎしりしながらそんなひとりごちているおばあちゃんの横顔には、玉のような汗が次々に浮かんでいた。まるで痛みに堪えているかのうに、苦しそうに顔を歪めながら。


「……お、おばあちゃん」


 頼れる人の危機的な状況を肌で感じながら、自分の無力さが悔しくて。でも、なにもできないことに変わりない現実に打ちひしがれたままの、情けない声が漏れ出る。するとおばあちゃんは、にぃと歯ぐきが見えるほど口角を持ち上げた。その笑顔は私の予想を超えていた。いや、もうすでに予想できない事態の連続にまだ馴染めずにもたついている場合じゃないのだ、と励まされたような気がした。


 無理やり作り笑顔を浮かべたおばあちゃんは、神棚に手を伸ばして真ん中に鎮座していた丸く平べったいものを手に取り、それを私の前に置いた。


「これはお守り。よく聞きなさい。あれはね、あなたのお母さんじゃないの。お母さんの声を真似している別の者だよ。決して耳を貸してはいけない」


 そう言うと、おばあちゃんは両手の指で何かの印を結ぶように動かすと、掠れた声で呪文を唱え始めた。


 この呪文。昨日、岳彦が唱えていたものと似てる!


「つばめぇぇぇぇ、つばめぇぇぇぇぇ、どこにいるのぉぉぉぉ」


 急にすごく近くから怒鳴り声がしたので、そちらに顔を向けた。


 バンバンバンバンバンバン、ガタガタガタガタガタガタガタガタ……


 いまにも壊れそうなほど激しく揺さぶられた玄関ドア。そこに蜘蛛のように両手両足を広げてドアにへばりついている、不自然な形をした女の人が私の名前を叫んでいた。


「お、おばあちゃん!!」


「あいつらはああやって、内側から扉を開けさせるんだ。昔からね」


 おばあちゃんの棒読みのような早口な台詞に、お母さんの声が重なる。玄関の物音が激しく鳴り続けている。まだ、おひさまが出ている時間なのに、こんなにも恐ろしいことが起きているなんて。


「つばめちゃぁぁぁぁぁん、つばめちゃぁぁぁぁぁん、ドアを開けてぇぇぇぇぇ」


 両耳を塞いだ。目を瞑っても、どう振り払おうと頭を振っても、目を開けても、頭部だけがお母さんの得体の知れないバケモノが、一心不乱にドアを開けようとしている。その姿が、はっきりと見えるのだ。


 バァン、ドン、バンッ、バンバンバンッ!


 おばあちゃんが苦しそうに顔を歪めた。バンッと叩かれるたびに、何かが家の中に入り込もうとして、隙間をこじあけようとしているようにさえ感じる。玄関に走って行って、隙間という隙間にガムテープを貼りたい衝動に駆られた。


「……つばめ、どうしたの?」


 椅子を弾き飛ばす勢いで立ち上がった私の手首を、枯れ枝のように細いおばあちゃんの手が絡みつく。すごい力で押さえつけられる。


「つばめちゃぁぁぁん、つばめちゃぁぁぁん、返してぇぇ、返してぇぇぇぇ」


 泣き叫ぶ声が、私の名前を呼んでいるせいだろうか。気が遠くなりそうな中で、気力だけで立ち続けている私の中で不思議なことが起き始めていた。


 どっちを信じるべきか、わからなくなっていく。


 鬼気迫る表情で汗まみれになりながら、私を閉じ込めておきたいおばあちゃんのことが、とても怖いのだ。まるで意地悪をしている天邪鬼に見えてくる。嘘を吐いて私を閉じ込めるつもりなのだ。そんな心の声が、私の耳の奥をくすぐっている。それも、自分自身の声で。


 握りしめられた手首が痛い。ジンジン、ズキズキと痛む。さらに天井が回転している。さっきよりもずっとゆっくりだけど、螺旋を描きながら地面の中に吸い込まれていく掘削ドリルにでもなった気分で、私はこの場所にくぎ付けにされている。


「嗚呼、だめだめだめだめ、だめだよぅぅ。つばめ……!」


 パァン!


 目の前で、柏手が鳴った。その音で、目が覚める。離された手、今なら。


 校長室で見たお母さんは、お母さんじゃないとしたら。本物のお母さんはどこにいるの?


 もしも、いまこの玄関先まで来ている人がお母さんなら。お母さんであるなら。


 頭の中は、優しかった頃のお母さんの笑顔の花が咲き誇っていた。


 会いたい。


 水中の中で走っているみたいにゆっくりと、おばあちゃんの手を振り切って、居間の障子を開ける。玄関へと続く廊下に飛び出すと、曇りガラスのスライドドアに髪の長い女の影があった。私は滑るように廊下を駆け抜け、玄関に裸足で降りて鍵に手をかける。指に力を込めると、ビリっと冷たい電流が流れ弾き飛ばされた。しりもちをつくように、上がり框かまちに腰をぶつける。肩と髪を、おばあちゃんの手が強く握りしめられた。


 バチン、バチン、バチン!


 三度、大きな音が鳴り響いた。ドアの向こう側の黒い影が、瞬きをする間に忽然と消える。それらは一瞬の出来事で、唐突に始まり、唐突に終わった。


「おかぁさぁぁぁぁぁん!!」


 おばあちゃんに抱き締められながら、私は本当は誰かもわからない相手に手を伸ばして、消えてしまった悲しみとやりきれなさを、ほとばしるがままに叫んで叫んで、叫びつくした。頭が真っ白くなるまで―――


 忘却は、自分自身を守るために与えられた、生きるための力。そして生まれた時の記憶だろうか。目を閉じると、どこにいてもお母さんの腕に抱かれて聞いたゆりかごのうたを思い出す。ほら、いまも聞こえてくる。耳をすませば―――

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