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たかがまんじゅうなのに

 ◇


 おばあちゃんはオロオロとしながらも、私を温かく迎え入れてくれた。前田先生は何度も頭を下げ、おばあちゃんも負けずに低く頭を下げ、先生はただ立ち去るだけなのにやたらと時間をかけて、奇妙な儀式は終わった。


 玄関のドアを閉めた途端、おばあちゃんが私を引き寄せてギュウっと抱きしめた。


「怖かったね、つばめ……。しばらく、おばあちゃんと暮らそうね」


 できるならそうしたい、と思いつつ。先程、取り乱すどころの騒ぎではないほど様子がおかしいお母さんのことを思うと、なにをどうすればいいのかわからなくなって、今頃ガタガタと身体が震え出した。


 おばあちゃんの手は温かくて、私の冷たい手を握りしめてまるで温めてくれているように、じっと動かない。その時、微かになにかを唱えている気がして、ハッとして顔を上げる。


「今、なにか言った?」


 私が聞くと、おばあちゃんは「おまじないだよ」と囁いた。


「おまじない?」


「つばめを守って下さいって、ご先祖様にお願い申し上げていたんだよ」


 ご先祖様という言葉を聞いた途端、急にお線香のかおりを感じた。しかも、かなり強く。


「さぁ、こっちへおいで。身体の中に入ったものを取り除いてあげる」


 そう、不思議なことを言うと祭壇のうえにお供えされていたおまんじゅうをひとつ手に取り、誰もいない天井に向けて祈るように一礼すると、お皿の上をそれを乗せて私が座っているちゃぶ台に持ってきた。


「これをゆっくりと味わって食べなさい。お茶を淹れてきてあげる」


 おばあちゃんは一度は正座したのにすぐに立ち上がる。その動きの滑らかさに驚いていると。


「ほぅら。ぼぅっとしてないで、お上がり」


 台所でヤカンに火をかけながら、私に催促した。ちゃぶ台の上に置かれた白いお皿の真ん中に、白い生地のおまんじゅうがひとつ。それをじっと見つめているだけで一向に手が出ないのは、自分でも不思議だ。


 私はあまり甘いものが好きじゃない。でも、あんこは好き。いつもの私なら迷いなく、喜んで食べるのに。


 手が、出ない。なぜか手が動かない。


 食べたいのに、食べたくない。


 見ているのもいや。 いや!


 たかがまんじゅうなのに、とても怖くなる。


 パァン


 突然、背後で手が叩かれた。おばあちゃんの手によって鳴らされた、拍手かしわでだ。ぐらぁ、と視界がおおきく波打つ感覚に陥る。


 パァン


 また、拍手。そして強い線香のかおり。胃の辺りがムズムズとしている。なにかが出そうなのに、出るのを嫌がっているような、詰まったような、変な苦しさを感じる。


「これ、飲みなさい」


 おばあちゃんが私の頭の後ろを手で支え、もう片方の手に持ったコップの水を口に注いだ。あまりにも素早い動きで、両手で払い落とす余裕もなく水は口の中に溢れる。


 つ―――


 冷たい一筋が喉を落ちていく。喉が渇いているのに飲みたくない、吐きそうで、つらくて、くるしい。でも。まるで金縛りにかけられたみたいに、身体がまったく言うことを利かない。


「つばめちゃん、がんばって! これを飲むの、吐き出したいのなら吐き出して良いから」


 重くなるまぶた。おばあちゃんの必死の声によって、自分がおかしくなっているのだと意識する。


 ぶぅぅぅん、びぃぃ――ん


 弦楽器の低い音色のような、不快な耳鳴りがする。


 バシン!


 おばあちゃんの手で、背中を叩かれた。その時だ。


 げっぷが上がり出しながら、私は「やめろ!」と叫んだ。


 叫んだ時、意識はたしかにあるのに自分の意思で発したわけではない自分の声に、驚いた。


「〇▽□…………」


 おばあちゃんまで耳慣れない不思議な呪文を唱え出す。私の背中を摩っては叩き、摩っては叩き、を何度も繰り返す。


 喉の裏までせり上がった何かはこれ以上行きたくないよ、と踏ん張っている。私はただ上を向いて、口を開け喉から胃までが一直線になる姿勢を自然ととった。


 ここは室内のはずなのに、顔に無数の雫が落ちてくる。雨のように冷たいのに、身体が急に燃えるように熱くなる。


「うおぉぉぉぉぉぉ!」


「えい!」


 バシン! 


 強く肩を叩き払われた途端に、喉から絞り出すように長いものが飛び出す。ズルズルと鱗のようなささくれた感触が咽喉の内壁を傷つけながら飛び出していく。


 でも、私の目にはなにも映らない。なにもみえない。


 強い吐き気に内蔵を引っ掛かれた気がして、ゲェゲェと痙攣しながら吐き続ける。


「よし! 出たな!」


 これまでに聞いたこともない勇ましいおばあちゃんの声。


 しかも、どこから出したのかわからないけれど白い着物を頭からかけられ、その上からおばあちゃんが覆いかぶさるようにして私を抱き締める。


「声をまだ出すなよ」


 念を押すようにささやかれ、私はうんうんとただ頷いた。


 私の心臓は全力疾走をした直後のように激しく早く鼓動していた。それに、熱い。燃えるように熱いのだ。


 さっきまで手があんなに冷たかったのに、今は爪の先まで熱が広がっている。


 足の指にまでドクンドクンという強い脈を感じている。手足バラバラだった鼓動が、徐々にひとつに揃っていく。リズムが重なるとそれからズレることはなかった。自分の身体の中に、なぜか大きな空白ができた気がして落ち着かない。でも、さっきよりもずっと今は身体が軽いし気分が良い。


「そろそろ、大丈夫かな。いまのうちにほら、まんじゅうを食べて」


 空腹を覚え、むしり取るようにまんじゅうを手にすると私は着物の下でむしゃむしゃと食べ始めた。


 ひと噛みごとに豊かな優しい甘みとねっとりとしたこしあんが美味しくて、ずっと舌の上で味わっていたいぐらいだ。食べ終わるのが惜しいのに、食べることをやめられない。


 さっきとは明らかに違う自分に戸惑いつつも、もっと食べたいという欲求を感じる。


「お茶を飲んで」


 間髪入れぬ指示に従い、私はお皿の隣に置かれた小さなおちょこみたいな茶碗に入っている緑色の液体を流し込んだ。最初、かなり苦く感じたけれど、鼻から息を吸うとたちまち甘くなる。


 お茶で口を満たし鼻呼吸をしていると、長い間味わうことができなかった真の美味さにありつけたような、そんなありがたい気持ちになっていた。


 ゆっくりと少しずつ飲み下す。そうすることで身体の奥に感じた空白が埋まっていく気がするのだから、不思議だ。


「……良かった。なんとかなった」


 おばあちゃんの気の抜けた声。ふわりと着物を払い落とされると、部屋の景色がなぜか一新したような気がする。目にも鮮やかな世界がそこにはあった。


「世界が明るく見えるのかな? それはね、憑き物を落とせたという証拠だよ。あんたに憑いていたものはたぶん、おうちに帰ったんだろう」


 おうちに帰った……、そのおうちはどこのおうち?


 聞きたいけれどお腹に力が入らず喋れない。


 おばあちゃんは熱を測るときのように私の襟足あたりに手を置いて、額と額を重ねた。


「今日から数日間は清めたものしか食べてはいけない。おばあちゃんの言うことをきちんと聞いてね。そうしないと、つばめを助けてあげられなくなってしまうから」


 私はこくこくと頷いた。


「疲れたね。今日はこのままもう眠りなさい。おばあちゃんはずっとそばで守ってあげるから、安心しなさい」


 温かい手で髪を撫でられ、小さい頃のキラキラした記憶がよみがえってきた。お母さんもお父さんも笑顔で、私の誕生日に水族館へ連れて行ってくれた日の思い出。私を中心に手を繋いで歩いた、散歩道。紙吹雪みたいな木漏れ日に、太陽が輝いて見えた。


 キラキラ、ゆらゆら、キラキラ、ゆらゆら。


 遠い日の出来事なのだと思うと寂しくて胸が締め付けられる。ふたりがもう二度と笑顔になれないのだとしたら、私が生まれた意味が消えてしまう気がして、突然足元に真っ暗い穴が現れた。


 黒い触手が伸びてくる。


『つばめ! こっちへ来い!』


 誰かの力強い声。周りを見渡すけれど、姿が見えない。


『つばめ! つばめ! つばめ!』


 ヒステリックな声だからわかりにくいけど、その声はきっと岳彦の声なのだと思った。


「岳彦!」


 手を伸ばし、名前を呼ぶ。すると、足元に開いた穴がいつの間にかただの水溜りになっていることに気付いた。


『つばめ!』


「岳彦! どこにいるの? 大丈夫なの? なにが起きているの?」


 私の問いが岳彦の言葉を遮ると、急に静かになった。水溜りも木漏れ日も消えて、布団の中のぬくぬくとした感触だけがいまここにはあって。


 ああ。夢を見ていたのだ。そう思ったらまた、強い睡魔が襲ってきてそのまま眠りに落ちていった。

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