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接触から始まる青春

「虹なんて出ないじゃん」


 雨上がりの空を見上げ、ため息ひとつ。やっぱり私ってば、とことん運に嫌われているみたい。


 蹴り飛ばした小石が一瞬で空をこわした。水溜まりに映る太陽が波紋ではげしく歪んでいくのをじっとみつめる。湿気のこもった空気から腐った墨汁のような暗くて不吉な香りが漂っていて、陰鬱だ。


 静かな校舎に、お待ちかねのチャイムが響き渡る。掃除当番を終えた子供達が一斉に校舎から吐き出され、またたく間に騒がしくなった。


 どの子も無邪気な笑い声なんかあげちゃって、まるで平和な光景そのものを見ているような気分になる。


「羨ましいなぁ」


 ひとりごちた私の前を通り過ぎていく、たんぽぽの綿毛ちゃん達。良い子は、まっすぐ家へと帰るだろうか。それとも道草を食いながら遠回りするのかな。どんな道をたどったとしても、帰る家がひとつしかないのなら同じこと。でも、私には帰りたいと思える家はもうない。


 校門の外で待っていた私のところへ、大勢の子供達が一斉に押し寄せた。誰ひとりとして私にぶつからずに避けていくのを見ながら安心する。まだ本格的な幽霊にはなっていないっていうことだから。


 やがて子供の群れが遠ざかって見えなくなっても、私の脚は地面に根っこが生えたみたいに立ち尽くしていた。


 立っているだけでも両脚が震えるのに、意思を持つからだはかたくなに誰かを待ち続けていて、主たる私のいうことをまったく聞いてくれない。誰かに教えられたわけじゃなく、ここにいる。ここで待っていれば何かが起きる、と、私の中の誰かが囁いてくる。根拠はそれだけ。


 骨ばった指を眺めながら考える。私に残されている時間は、あとどれぐらいあるのだろうか。時々体の芯に力が入らなくなるし、高い耳鳴りが鳴ったのを合図にすべてが遠くなる時がある。体重計には乗ってないからわからないけど、明らかに痩せていた。人間は何日食べなければ餓死するのだろうか。私はこのまま終わっていくのかな。誰にも気付かれないまま。


 ――チリン、チリン


 突然、鈴の音色が私の横を通り過ぎた。一拍遅れでお線香のような良い匂いがする。見ればギョッとするほど背の高い男の子が、玄関から出てきたところだった。


 黒い髪は真っすぐでサラサラ。長めの前髪によって両目を覆い隠しているようだ。峰の高い鼻がのれんの切れ目からスッとのびていて、唇は薄いけれど、大きい。口角が若干頬の内側へと沈み込んでいる。細くて長い首には、うっすらと喉ぼとけが浮いていて、首回りにはのりが効いた濃紺のストライプシャツの襟が、ダボっとした大き目の黒いパーカーの下から顔を出していた。下半身は黄色味の強いコーデュロイ生地のズボンと、靴は内側に大きな星印がついた黒いバスケットシューズを履いている。


 ぱっと見た感じはかなり地味なんだけれど、お洒落だなぁと思った。見惚れてしまうほど良く似合っている。


 彼は通り過ぎ様に一瞬だけ、チラリと私のことを肩越しに見下ろした。その目と私の視線が吸いついて、磁石みたいにぴったりカチッとはまる音が聞こえた。


「……あ!」


 しゃがれた声が自然とこぼれた。


 ――あれ、声が出る!


 咄嗟のことだったので、なんて呼び止めたらいいのかもわからずに、夢中で手を伸ばした。とっくに背中を向けていた彼は、今にも立ち去ろうとしている。


「ま、待って!」


 一歩踏み出したところで、カクンと膝から崩れ落ちた。でも、すぐに立ち上がって顔を上げると、彼はさらに遠ざかっていくだけで相変わらず私に気付いていない。


「お願い、行かないで……」


 そうつぶやいた瞬間、奇跡が起きた。


 彼の黒いランドセルに括り付けられた給食袋という名の巾着袋が、雨上がりのコンクリートの歩道の上に転がったのだ。でも、その巾着袋がうんともすんとも言わないせいで、落とし主は気付くことなくどんどん離れていく。


 見えない力に後押しされている。思わず、ごくりと唾を飲んだ。すぐにそれを拾い上げ、彼の後を追う。


 脚の長い彼は、ものすごい勢いで行ってしまう。


「ちょっとぉ! 待ってよ!」


 精一杯の大声で呼び止めたけれど、届いてないのか、無視を決め込んでいるのか、彼はとにかく歩くことをやめない。その後頭部のつむじは高く、猫背で頭を突き出した姿勢のせいで実際の身長よりも低く見えるけれど、高い。小学生とは思えない高さだ。百七十センチある私のお父さんよりも高い気がする。


 狙いを定めるため、私は一度立ち止まってから巾着袋をぶん投げた。すると、狙った通り彼の後頭部にそれはぶつかり、そのままパーカーのフードのうえに上手い具合に乗っかった。


「止まれ! 落とし物だって言ってんだろぉぉ!」


 私が叫んだのと彼が止まったのは、ほぼ同時だった。


 彼は不気味なほどゆっくりとこちらに振り向き、前髪の奥の目を光らせている。藪の中から獲物を狙う熊のような眼光だ。


 緊張が走る。


 彼は一言も声を発さずに、私のことを待っている。かなり警戒している様子だ。


「それ。あんたの、でしょ?」


 拾い物を指さすと、彼は巾着袋を肩から降ろしてジロジロと品定めするように見た。そして自分のランドセルから巾着袋が消えているのを確かめるとそれをくくりつけ、なにも言わずに再び歩き出した。


 これにはさすがに怒りを覚えた。


「え?! なにぃ? 聞こえないんだけどぉ!!」


 ありったけの力を振り絞って声を張り上げると、彼は再び立ち止まった。天を仰ぎ、面倒くさいとでも言いたげに大きな右手で自分の髪の毛を掻きむしった。それから首だけこちらに向けたかと思ったら、大きな目でギョロリと私を睨みつけた。


「親切の押し売りかよ」


 低音の声は分散しやすくて、はっきりとは聞き取れない。しかし彼が超不機嫌なことは伝わってきた。


 でも、だからなんだ。私は自分を奮い立たせる。


「はぁ?!」


 けんかごしになろうと、かまわない。私にはもう後がないのだ。なるようになれ、と願うばかりなり。


「あんたが落としたものを私が拾った。それだけさ! それがなんで親切の押し売りになるってんだよ!」


「おまえはありがとうが聞きたくて親切したつもりなんだろうが、そういうのは偽善って言うんだ。わかる? 偽物の善意っていう意味だ。困っている人を使って自分は良い人間だって確認したいだけの自己満足に、ぼくを使うな」


 神経質そうに顔をこわばらせた彼は、まくしたてるような早口で言った。


 この声、聞き覚えがある。


 三日前の保健室で、先にベッドで寝ていたヤツに違いない。


 不機嫌は武装なのだろう。私と同じで、他人の干渉を拒んでいる証拠だ。


「口、開いてるとバカに見える」


 彼は唖然としている私に冷たく言い放つと、また背を向けて歩き出した。


「ちょ、ちょっと! 待って! あんた、何組の誰だっけ? 六年だよね?」


 六年生は五組ある。六年間通学していれば、大抵の奴らの面と名前ぐらいは知っているはずだ。でも、この少年のことはひとつも記憶にひっかからない。


 私は顔と名前を覚える記憶力は誰にも負けない自信はある。


 彼は立ち止まって、半分だけからだをこちらに向けた。


「名前を知りたいのなら、自分から先に名乗るのが礼儀だろ」


 いちいち苛々する言い方だけど、彼の言っていることは正しい。


 とりあえず私は大急ぎで彼の前に躍り出て、両手を広げた。


 彼は重たげにまぶたを半分瞳に被せたまま、ハスキー犬みたいな色素の薄い瞳で冷たく私を見降ろしている。


 怖いけど、怯むもんか。


 ハーフパンツをギュッと握りしめて、勇気を振り絞った。


「わ、私は甲賀こうがつばめ! 一組だよ」


「敦賀岳彦つるがたけひこ。一組だけど、五年だ」


「ご、五年生なのぉ?」


 思わず、素っ頓狂な声が出た。


「何か、文句ある?」


 陰のある目元から鋭く光る攻撃的な視線が、私の眉間を突き刺した。ゾクリと震えあがる。


「も、文句なんて、ないけどさ。驚いたんだよ。その身長だし。大人っぽいし」


 岳彦は眉毛を持ち上げて、私をじろじろと見ている。


「お前は見ず知らずのヤツからいきなりやせっぽっちのチビスケって言われたら、どう思う?」


「ムカつく!」


「だろ? 背が高いとか低いとか、そんなしょうもないことをいちいち持ち出さないでくれない?」


 そう言うと、岳彦は私をよけるように横を通り抜けようとした。思わず、その腕を両手で掴んで引き留めていた。


 掴んだ途端、岳彦は今度こそ本当に驚いた顔をして私を睨みつけた。


 見開かれた瞳から、困惑と怖れが読み取れる。


「お願い、怖がらないで! 私はあんたみたいな子をずっと待ってたの!」


 私はそのまま岳彦の左腕に自分の右腕を絡ませたまま、歩き始めた。


 岳彦は明らかに動揺している。


 さっきまでの威勢が吹き飛んでしまったみたいに、オロオロしている。


「ど、どういうつもりだ?」


 私の腕を空いているほうの右手で私の腕を押しのけようとした。


 離れてもすぐにすがりつく。


「私と、友達になって欲しいの!」


「友達?!」


 岳彦は、かなり驚いた様子だった。


「平凡な子とはうまく付き合えないの、私。だから、私には相談する相手がひとりもいない!」


「おまえ。ぼくのことを平凡じゃないって言ってんの?」


「うん! 一目でわかったよ! 私達は似てるって」


 一瞬だけ、彼の焦り顔から表情が抜け落ちたかと思ったら、すぐに顔を真っ赤にして怒り出した。


「なんにも知らないくせに!!」


 そう言って、彼は手を振り上げた。咄嗟に両目を閉じて、びんたを覚悟する。


 一秒以上経っても、叩かれることはなかった。それどころか彼は耳まで真っ赤にしながら、私から目を反らしていた。なにか触れられたくない事情でもありそうな気配をさせている。


「だったら、教えて! あんたのこと、全部知りたいの!」


 岳彦は立ち止まり、いよいよ本気で私の両腕から自分の腕をひっこ抜いた。でも、私がすぐに凝りもせず腕にしがみついていくものだから、何度振り払ってもきりがない。


「やめてくれ! こういうの、本当に迷惑だ! なんだよ、気持ち悪いな!」


 彼はうろたえていた。額に汗をにじませながら、必死に私を振り払おうとしている。さっきのクールキャラはどこ吹く風だ。


「ちょっと、話をするぐらいだよ! お願いだから、話をさせて!」


「宗教の勧誘より質が悪い!」


「宗教なんて、そんな! 私のことをただ知って欲しいの! あんたの、岳彦の話もちゃんと聞きたいの!」


「無理だ!」


「なんで?」


 猫の喧嘩のように忙しなく腕の追いかけっこをしていた岳彦は突然、動きを止めた。


「……どうせ最後は必ず誰もいなくなるんだ。きっと、お前も同じさ」


 急にトーンダウンした静かな声は、冷気を帯びている。グサッと胸に深く突き立てられたような気がした。


 岳彦はダラリと両腕を前に垂らしたまま背中を丸め、抵抗をやめたかに見えた。


 だけど、次の瞬間。


 岳彦は、駆け出した。


「あ! 待って、一生のお願いだからぁぁ!」


 全速で走る彼を、私は諦めきれずに追いかけるしかない。


 もつれた脚でなんども躓いてはバランスを持ち直し、ひたすら後を追う。


 通学路ではない路地へと飛び込んだのを見たけど、駆け込むと忽然と消えていた。完全に見失ってしまったようだ。


 塀で囲まれた家に挟まれた一本道の細い路地は、しんと静まり返っている。


 ぜぇ、ぜぇ、ぜぇ――息が苦しい。


 吸っても吸っても、肺がぺたんこに押しつぶされているみたい。


 視界がぼやけている。


 ――もう終わりだ。


 ここで諦めたら、私は消えるしかなくなる。そして誰の記憶にも残らないだろう。生まれてきた意味すら強制消去だ。


 ――虚しい。寂しい。悔しい。悲しい。


 涙で視界が沈む。


 ここで諦めるのは気に入らないけれど、相手にだって都合がある。やっと見つけた仲間だと核心したのに。あちらに仲良くする気がないのは致命的だ。


 ――アプローチをしくじった。でも、じゃあ他にどうすれば?


 髪の毛をむしりたい衝動が襲う。


「私のバカバカバカ!!」


 素手でブロック塀を殴ったら、傷付いたのは自分の手だった。赤い血が滲む。それを見つめていると、また別の感情が突き上げてきた。


 ――いやだ! このままなにもできずに終わるなんて、そんなの絶対に無理!


 探すんだ。まだ、ここらへんにいるはず。


 足音ひとつ立てずに、人間が消えるわけがない。


 おそらく、そう遠くには行っていないだろう。


 通路の左右にそそり立つ塀の向こうに意識を集中させていく。


「聞いて! 私は、他の連中とは違う! 絶対にいなくなったりしない! あんたを失望させないから! だから、お願いだから話をさせて!」


 彼の言いたいことはわかる。なにもしてないし、なにも迷惑かけてないはずなのに、クラスメイトはひとりとして私の存在を認めていない。彼らと私の前には透明な壁が確かに存在していて、私はその向こう側へどう頑張ってもいけないのだ。同級生だけじゃない。先生も、世間も、誰もかれもみんな。


 物心ついたときから、ずっとだ。


 でも、岳彦だけは違う。私の言葉にちゃんと反応してくれている。


 私の声が、ちゃんと届いている。


 まだ出会ってほんのわずかしか経っていないのに、岳彦のことを昔から知っているような不思議な気持ちがある。たしかに、ここに。


 ぺたんこな胸に手を乗せて、祈りを込めながら言葉をつむいでいく。


「私も気付いたら独りだった。どうしてみんな私を無視するのかわからないの! なにかの呪いでもかけられているみたいで、そうじゃなきゃ納得できないよ! 私、自分で言うのもおこがましいけど、顔は平均点以上だし人畜無害な平和主義者だし頭は悪くないし時間厳守だし口は堅いし、欠点があるとすれば偏食ぐらいだけど! いったい、私のなにが悪いの? 教えて! 私と向き合って!」


 薄暗い路地裏で、私は祈りを込めて叫んだ。


「お願い! 敦賀岳彦! 私達、共通点だらけだと思うんだけど! 私にチャンスを下さい!」


 泣きそうな声で訴えたら、敦賀岳彦がひょっこりと塀の上から顔を出した。


「ったく! こんなところで名前を叫ぶな!」


 私の顔を見た彼は、今度は頭を抱えた。


「なんで泣いてんだよ? これじゃ、ぼくがおまえを泣かせたみたいだろ!」


 男の子は、女の子の涙に弱いというのは本当らしい。


 私はめったに泣かない。涙は降伏と敗北を示す、とお母さんに教えられているから。でも、今回だけは違う。この頬を濡らす涙は自然に湧き出てきたものだ。演技なんかじゃない。


「っくそ! なんでこんな目に……。ただ、落とし物をしただけなのに」


 ブツブツと悪態をつく岳彦を面白く眺めながら、塀を飛び越えて戻って来た彼の腕に私は再びしがみついた。


「くっつくな! 男が女にそんな真似したら、警察沙汰だろうが!」


「女が男にするのは、警察沙汰になる?」


「知らねぇ!」


 岳彦は苦々しい顔をしながらも、観念したように私の歩幅に合わせて歩き出した。

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