北七小雪 VS. 三枝雨水 4
小雪のその瞳の――ポッカリと空いた深淵を覗き込んでしまった雨水は膝から崩れ落ち、ぽすんっと尻もちをついた。「あ……」口から漏れるのは、ただただ純粋な恐怖。全身が感じているのは、何か得体のしれないものを目の当たりにした怖気。
「……なぁ、三枝」
「あ、え?」
小雪は俯いたまま、顔を覆っていた両掌を離す。そして、顕になったその瞳を雨水に向けたまま、口の端を歪に釣り上げた。
「あたしさ」
「ぅ……ん」
「中学のときのさ。同級生や後輩や先輩。あたしに関わりのあった人間」
「……ぇ」
「そのうちの何人かはな、まったく記憶に無いんだよ」
「……ぇ?」
小雪が淡紅色の舌を覗かせ、自分の口唇をペロリと一舐めする。
「お前があたしを『小雪ちゃん』って呼んでたのも事実なんだろうな。親友だったっていうのも、まぁ、嘘じゃないのかも知れない」
雨水がようやく上体を起こした。ゆっくりと慎重に立ち上がる。
「こ、小雪ちゃん、じゃ、じゃぁ、わたしの記憶が」
「そうだな、三枝。いや、えびちゃん、だったか。あたしは中学の時の、お前との記憶が一切ない」
「わたしとの記憶が……ない」
「ああ、解離性健忘――それに近い症状らしいんだけどな」
「それは、あの、なんて言っていいのか。ご、ごめんなさい。知らなかったこととは言え、なんか、ごめんなさい」
それを一笑に付す。
「ま、無理もないよ。そんな荒唐無稽な話なんだ、これは。でもな」
雨水が一歩後ずさる。
「この記憶の欠如。わたしはそこまで問題視してないし悲観もしてない」
「だ、だめだよ。早く病院に」
雨水が一歩後ずさる。
「勿論行ったさ。CT検査、脳波検査、血液検査、心理検査、いろいろな検査をやった。記憶想起法、カウンセリング、精神療法、いろいろな治療を試した。でもダメだった。欠落した記憶は取り戻せなかったよ」
「わたしの……わたしたちの思い出も」
「さっきまで、いや今でも、あたしは『三枝雨水』お前のことが分からない。ああ、今のお前、たしか『男装少女』雨水様だったか。結構な有名人だったな。あたしの耳にも届いてたし、実際こうして対面しても、なるほど確かにイケメンで美少女だな、くらいにしか感想がない。それだけだ」
「……それ、だけ」
「そう、それだけ。お前との過去はまったくわからない。おそらく記録にはあるんだろ? あたしとお前が一緒に写っている写真かなんかのデータがさ。あたしはそこに情景を見いだせない、過去を視れないんだよ」
雨水が一歩後ずさる。
「なぁ、三枝」
「な、なにかな」
「どうしてさっきから、あたしから距離をとってるんだ?」
「え、ぇ? 距離、なんて」
そこで雨水は、自分が徐々に、徐々に後ずさっていたことに気付いた。
「なぁ、三枝」
「な、なにかな」
「でもさ、あたしはさ、特定のやつ以外のことは、全部覚えてるんだよ」
「そう、なんだ」
「これはあたしの担当医が言ってたんだけどな。記憶にないやつ――そいつらにはある共通するものがあるんだって。記憶をなくす条件っていうのかな。何だと思う?」
小雪の猫目が細くなる。口元には三日月のような笑みが浮かんでいる。
「そんなこと聞かれても、わ、わからないよ」
「お前さ、あたしの親友――だったんだろ?」
「そ、そうだよ! 今でも親友だと思ってるよ!」
「嘘だよな?」
雨水の目が限界まで見開かれた。表情が凍った。
「う、嘘なんかじゃ、ないっ! なんでそんなこと、言うのっ!」
「ふふ、うふふ」
小雪は表情をそのままに、本当に可笑しそうに、本当に愉快そうに嗤う。
「せっかくさっきまで感動の名演説してくれたのに、笑っちゃって悪いな。昔、親友だったってのは本当っぽいけどさ、今でも親友だと思ってる? はは、滑稽だね」
「ひど、い。ひどいよっ」
「ひどい、ねぇ。三枝ぁ、お前、上手く隠せてると思ってるのか? 今ならあたしを上手く丸め込めると、そう思ったのか?」
「いい加減にして、よっ! わたしは何も隠してないし、本心で小雪ちゃんと親友だと思ってるの。そのわたしの想いや決意を踏みにじるようなこと言って、いくら小雪ちゃんでも許せないよ」
「なら、なんで逃げる」
雨水は背後を振り返る。
いつの間にか屋上の出入り口、そのドアが目の前にあった。もう下がれない位置まで、後退していた。
「に、逃げてない」
小雪は右手を振りかぶり、彼女目掛けてその手を思い切り突き出した。
「ひっ」雨水が寄りかかっていたドアに向けて、ドンッ、と思い切り彼女の顔の横にその掌を叩きつける。見事なドアドン。
そのまま、顔を彼女に寄せる。
「さっきの話。あたしが記憶をなくすやつの条件な。お前みたいなやつなんだ。だからすぐ理解したよ」
「は、はぁ?」
「四条啓を唆してあいつに取り入ったのは、いつからだ」
「な、なにを」
「四条啓がシキと付き合いはじめたタイミングであたしに接触したのは、なんでだ」
「ち、ちがっ」
「『啓が小雪ちゃんとお話したいって言った時、チャンスだと思った』? だろうな。お前はずっとその機会を伺ってたんだから。『生まれ変わったわたしを小雪ちゃんにやっと見てもらえる、いい機会だと思った』? 違うな。生まれ変わったお前を見てもらいたかったのは、あたしにじゃない」
「……っ」
「『小雪ちゃんの横にまたいてもいいよね』? 『今のわたしなら小雪ちゃんと並んでも恥ずかしくないよね』? 『だから、もう小雪ちゃん、わたしの前から突然いなくなったり、しないよね』?」
「……」
「その言葉のさ『小雪ちゃん』全部入れ替えることが出来るんだよ。『シキ』にな? 『フタエシキ』だろう? お前は四条とあたしをダシにして、もう一度シキに近づきたかったんだろう?」
◆
「えびちゃーん」
「や、やめてよ! エビエビ言わないでっ」
雨水の編んだ後ろ髪を弄びながら、親しげに抱きついてくる天使。小雪ちゃん。
自分を救ってくれた彼女は、今では親友といえるくらい仲良くなっていた。
誰隔てなく平等に笑顔を振りまく博愛主義者。
屈託のない笑顔で周りを明るく照らす学園の天使。それが北七小雪という女の子だった。
雨水が転入してから半年過ぎていた。
あれから今までの不安は一体何だったのか、というくらいに雨水は受け入れられた。
イジメって何? それ美味しいの? 現在、雨水は平和ボケの只中にいる。
クラスの誰もが、何故か雨水の辛気臭く重苦しい外見を嫌悪しない。オドオドビクビクと挙動不審な彼女の態度にも、何故か寛容に優しく対応してくれる。
多分、そういうことなんだろうな。
人はそんなに優しくない。
中学生という他律性と自律性が入り混じった人格形成の過渡期。誰もが本当は過敏で傲慢で、そして少し残酷だということを雨水は身を持って知っている。だから、多分、そういうことなんだろう。北七小雪と二重子規。このクラスのリーダー。スクールカーストの最上位。
この二人が、わたしを守ってくれている。
だから雨水は安心していた。その二人の抱擁に思い切り甘えていた。今までの鬱憤を、不幸を払拭するように、得るはずだった幸福を取り戻すように、その二人に寄りかかっていた。
だから――わたしは勘違いをしてしまったのかもしれない。
安定した学校生活を送っていた。勉強だって捗った。
仲の良い友人も沢山できた。親友だってできた。
部活にも所属した。
家でこそこそと隠れながら、誰にもバレないようにしていた趣味、漫画。しかも執筆。
幸いにも学校に漫画部があって、雨水はすぐに入部届を提出した。大手を振って学校で自分の趣味に没頭できた。雨水にとってそれは望外の幸せだった。
雨水がずっと求めていた、自分を受け入れてくれる理想の場所。
それが、手に入った。何の苦労も労力もなく、転がり込んできた。
簡単に手に入ったからこそ、ただ甘えていただけ、寄りかかっていただけだということを失念してしまっていた。
だから――わたしは勘違いをしてしまったのかもしれない。
北七小雪と二重子規。
この二人は理想のカップルだ。誰もが認めざるを得ない、不可侵の恋人。幼馴染でそれこそ産まれたときからずっと一緒にいるのだという。
不可侵という意味はすぐにわかった。誰もその二人の関係には割り込めないから。ベターハーフって言葉がこの二人のためにあるんじゃないかってくらい、それくらい二人はお似合いだった。
雨水は漫画を描きながら、二人のことをよく想像していた。二人の恋愛模様を妄想していた。二人の性的なことだって夢想してしまっていた。
そしてその二人は――いつの間にか、一人になっていた。彼だけになっていた。それが『二重子規』だけになっていた。
ホントはあの時から分かっていた。
あの人を好きになってしまったんだって。
ホントはあの時から取り込まれてしまっていた。
あの人の側にいる彼女が――とても邪魔だと感じるくらいに。
だから――わたしは勘違いをしてしまった。
あの人の側にいる彼女から――彼を奪えると錯覚するくらいに。