北七小雪 VS. 三枝雨水 2
ほんの僅かな時間で疲労が蓄積された気がした。春の圧力がいまだに身体に伸し掛かっているかのように、足が重い。
――早くシキの所へ戻って、シキ成分を補充しないと。
腕を交差させストレッチをしながら廊下を歩いていると、職員室を出て最初の曲がり角、その先で誰かが隠れるように身を潜めていることに気付いた。邪魔だな、そんな感慨しか抱かなかった小雪だったが、そこにいる人物を見て片眉を上げる。見知った顔だった。
朝、校門前で小雪に馴れ馴れしく声をかけてきた口の悪い居丈高な女――たしか、三枝雨水だったはず。
曲がり角に誰かが近づいてきたのを感じたのか、その彼女がふっと視線を小雪に向ける。小雪に気付いた彼女の口元が微かに綻んだように見えた。だが彼女は瞬時にキッと表情を引き締め、その口元をいびつに歪ませる。
「よう、北七」
雨水は小雪の前に立ちふさがる。
何故自分に寄ってくるのか、もしかして待ち人は自分だったのか。訝しげに見返し、小雪は足を止めた。雨水は、小雪の髪を指差す。
「そのな……髪、大丈夫だったのか」
小馬鹿にしたように口の端を歪ませながらも、何故かその声は心配そうに不安げに揺れていた。
アンバランスな雨水の様子に違和感を感じつつも、小雪はその言を無視し、彼女の横を通り抜けようとする。
「おいっ! 無視、すんなっ」
小雪は伸ばされた雨水の手を「バチン」強く弾く。
「いったっ……ぼ、暴力はやめろ!」
イケ女ンと称される彼女の強気な目元が潤む。そんな彼女を一瞥することなく無視したまま、小雪は歩を進めた。
小雪は朝、彼女に言ったはずだった。もう二度と話しかけるなと。そもそも、小雪は自分とまったく関係のない三枝雨水という存在に関わる気は毛頭なかった。何やらあの憎き四条啓と組んでこそこそと動いているみたいだったが、小雪はそんな小事は気にもかけない。子規にさえちょっかいをかけなければ、小雪は何事にも基本はノータッチであり、無関心を決め込む。それを冷淡なほど徹底している。だから何を言われても、何をやられても、それを無視し、それを排除する。だが、
「待って! 待ってよ、小雪ちゃんっ!」
『男装少女』三枝雨水のかすれ声が――男勝りだったその声が、まるでアニメに出てくる少女のように舌足らずで甲高く、鼻にかかったものに変化したのをその背に受け、
「……誰だ、お前?」
小雪は目を見開いて振り返った。
「……昼休み、終わっちゃったね」
「うん、お前のせいで。シキの側にいられない」
「ご、ごめんね」
二人は昼休みが終わっても教室に戻ることなく、連れ立って屋上へと赴いていた。授業は当然、サボり。
あの後、雨水の突然の変貌を目の当たりにして小雪が唖然としていると、雨水はその心の間隙を突く形で彼女の腕を掴み、こうして屋上へと引っ張っていった。
小雪は当然振り払うことも出来たのだが、目の前で必死になっている雨水の表情を見てしまい、任せるままにこうして付いてきた。そして小雪は、そんな雨水にどこか懐かしいものを感じてもいた。
「それに、もう話しかけんなって言ったよな」
「ご、ごめんね」
「謝ってばっかだな、お前。それが素か」
「ご、ごめんね」
「……まあ、いいよ。それで、何の用」
「えと、まず、その髪……」
小雪の頭髪に手を伸ばす。
が、小雪に触れようとするその手を再びはたき落とそうする気配を感じたのか、慌てたように手を引っ込める。
「触んな」
「ど、どうしてそう暴力的なの」
「で、この髪が何だ」
「うん、大丈夫だったかなって。心配してたから。停学になったり、しなかった?」
そう心配する雨水に、小雪は鳩が豆鉄砲を食ったような微妙な顔をする。
「心配? なんでお前が? たしかお前、朝にさ。『停学おめでとう』とかなんとか言ってなかったか?」
「そ、それは、決して本意ではないからっ! キャラ作りというか! ちょ、調子に乗ってごめんね! そ、そんなことより! 大丈夫だったの!?」
顔を寄せる雨水に、なんかこいつグイグイ来るな……と小雪は少し恐怖を覚えたが「……ああ、処分はない思う」言葉を返す。その言葉に、雨水は安心したようにほっと胸を撫で下ろしていた。
「この髪な、これ生まれつきなんだよ。今までの黒髪ロングが、まぁ、情状酌量の余地ある校則違反ってところでな」
「んんっ!? その髪、地毛だったの? え、じゃあ、中学のときからの綺麗な黒髪のストレートヘアってストパして染めてたってこと?」
「そんなとこ。幸いこっちが地毛だからすぐに戻せるしな。なにも問題ない」
「へ、へえぇ。そ、そうだったんだぁ」
「そういえば、お前さ。なんであたしが中学の時から黒髪ロングだったって知ってんだ?」
「あ、だから……それは」
雨水が緊張で身体を硬直させたのが分かった。
「それは?」
「そ、それがもう一つの用件」
しばらく口をモゴモゴとさせていた雨水は意を決したように一つ首肯し、セーラーの胸ポケットに手を入れた。その手には眼鏡を持っていた。黒縁の野暮ったい感じのするシンプルな眼鏡。
彼女はそれをためらいながらも徐ろに掛け――そして、小雪に顔を向けた。
「わから、ない?」
「はあ。その眼鏡面になんかあんのか? 似合ってねぇぞ」
「ホントに……わからない?」
「しつこいな。わからないよ。何のことだ?」
雨水は「そっか」深く嘆息し、悲しげに眉を潜めた。
「えび」
「……は?」
「えびちゃん。この言葉に聞き覚えはあるかな」
小雪は俯き、額に手をやる。えび、エビ、海老。えびちゃん。誰かのあだ名だろうか。そんな芸能人でもいるのだろうか。
しばらく「えびちゃん」という響きを頭の中で反芻する。どこか懐かしい雨水の表情と声色、そしてその響きが合わさって、それが何を意味するのか想起されそうだった。心の奥深くに封印されていたものが蠢いたような、そんな焦燥が小雪の中に芽生える。
「えびちゃん、だ?」
「わたし、髪の毛の量が多くてね。それでいて、むかしはずっと伸ばしてたんだ。とっても長くてボサボサの髪。その髪を後ろで一つにして、三つ編みで纏めてた」
雨水が自分の髪に手を当てる。
シャギーが入って軽く見えるショートボブは、彼女の美形な顔にとてもマッチしてる。
「その後ろ髪がね、海老みたいに見えるから『えびちゃん』ってあだ名つけられて。はじめは嫌だったなぁ。わたしのことエビエビ言わないで! って恨んだこともあったよ。でもね、それからだんだん愛着湧いてきちゃってね。そうつけた子も、わたしと二人だけの時にしかそのあだ名言わなかったから、何か特別な繋がりを感じてた」
「えび、ちゃん」
「そう、えびちゃん。ねぇ、小雪ちゃん――」
――わたしのこと、何で覚えてないの?
◆
雨水が中学二年になった頃、家族と共に引っ越しをした。
学校が変わるのは嫌だったか、と問われれば、雨水は即座に否と答える。だって、彼女は虐められていたから。
伸びたまま広がっている心霊動画に出てきそうな質量の多い髪の毛は、色黒だった肌と相まって、雨水にとても暗い雰囲気を纏わせていた。野暮ったい黒縁メガネがその雰囲気にさらに拍車をかける。周囲を何故か不安な気持ちにさせる雨水のその存在が、いじめの標的になるのには時間がかからなかった。当時の雨水自身が引っ込み思案であり、インドア系の趣味しか持たないような陰キャラだったことも多分に関わってはいたのだろう。だから雨水は転校先の中学校に期待はしていなかった。
どうせ、虐められる。
転校生は目立つ。その目立つ存在がわたしみたいな人間だったら、誰だって嘲笑の対象にするだろう。いじめの矛先を向けるだろう。
その時の鬱屈した気持ちを思い出す度に、今でも過呼吸が起きるかと思うほど胸が痛くなる、掻き毟りたくなる。
そして、とうとう転入の日がやってくる。新しい環境、新しい始まり。
諦観の念はあった。が、それでも雨水は期待してしまっていた。自分を受け入れてくれるかもしれない、理想の場所。ひょっとしたら、ここがそうなるんじゃないかって。
自己紹介。はじめての挨拶。絶対に失敗は許されない。
少しでも印象を良くしようと、ワサワサだった髪の毛は後ろで一つに編んだ。
笑顔の練習は、鏡の前で何十回、何百回と繰り返した。発声練習も声が枯れるほど繰り返した。
でも、それでも――
震える身体で、俯いたままで、掠れた蚊の泣くような声で――雨水がようやく挨拶を終わらせた時、しんと教室が静まり返っていた。「ぷっ」教室の誰かが軽く吹き出したのが分かった。それを切欠に、教室中に、雨水を呆れるような、嘲笑うかのような悪意が満ち始めた。
その悪意が、雨水を雁字搦めに拘束する。
あは、は。もう、ダメだ。結局わたしは失敗する。この学校でも、同じ、だった。わたしはもう二度と光の当たる場所へは戻れないんだ。
雨水はその空気に耐えきれず、とうとう泣き出してしまっていた。
ふらりと膝から崩れ落ちようとしていた雨水は、自分の身体が何か柔らかいものに支えられているのを感じた。
「うおぉ、せぇぇーふっ。三枝さんっ、だいじょぶかい!?」
その声に、顔を上げる。
眼前には自分の身体を必死に支え、優しく、柔らかく微笑む少女がいた。
そこには、光が射していた。