北七小雪 VS. 五十立春
「失礼します」
「おう、北七。こっちこい」
職員室に顔を覗かせた小雪に、五十立春が待ち受けていたように即座に声をかける。
彼女はまだまだ新任に毛が生えたような三年目の数学の教師で、子規や小雪の担任でもある。
「ま、何で呼び出されたのか分かるよな」
当然、小雪の様変わりした髪の件。机に頬杖をつきながら、春は胡乱な目で彼女の頭髪を見やる。
「何か言い訳はあるか」
小雪は無言でスカートのポケットから封筒を取り出す。表には「地毛証明書」とあった。
中身を取り出し、それを春に差し出す。春はそれをさらうように受け取ると紙を伸ばし、口をへの字にしたまま目を走らせる。
「はぁん。地毛、ねぇ。ちょっと、こっちこい」
一歩踏み出した小雪の癖っ毛を、自身の目の前にぐっと引っ張る。引っ張られた痛みで、小雪が微かに顔を顰める。
目の前の癖のある栗毛を繁々と見つめ「りょーかい」吐き捨て、ピンッと小雪の頭を軽く指で弾いた。
「もう行っていいでしょうか」
弾かれた箇所を擦りながら踵を返そうとする小雪に、
「まぁ、待て。まだ昼休みの時間はあるだろ。ちょっとくらい話し相手になってくれよ。ほら、ここに座れ」
空いている隣の席――確か、彼女の同期の国語教師の席だったか、をポンッと叩く。
「勝手に座ってもいいんですか」
「そんなの気にすんな。ああ、そうか、別に汚くはねぇよ? こいつ変に潔癖だしよ。変な菌つかないから安心しろ」
「……そういうことではなくてですね」
渋る小雪の手を強引に引っ張りそのまま着座させると、春は頬杖をついたままにやりと笑う。
その嫌らしいまでの笑顔が実に様になっていた。
彼女のその容姿は、大人の妖艶さと子供の幼さを混在させたような、不思議で不安定なものに小雪には映っている。
手入れもしていないような無造作に伸ばした濡羽色の髪を、腰の辺りまで伸ばしている。
五十立春。
魔女と渾名される彼女は、捉え所のない神秘的な美人教師として校内では有名だった。
そして彼女は有名であり勇名でもあった。
「こいつさぁ、潔癖症っぽいのに粘着質なんだよな。毎日毎日、俺に色目使ってくるし気持ち悪いんだよ。ばれてないとでも思ってんのかね」
なぁ? 春の後ろにいる他の教師に振り向き、同意を求める。
「は、はは、そう、ですね」と、引き攣った笑いで返事をする彼らの姿に小雪は同情の念を感じ、それ以上に、その春の遥か後ろで所在なげにうろうろとしているその当事者――国語教師に憐憫を覚える。春はそこに本人がいると知っていて、あえて宣っているのだ。
「ま、そんな些事はどうでもいい。で、北七さぁ」
いつの間にか自分を覗き込むように、彼女は低い姿勢から小雪を見上げていた。「ひっ」息を呑む。
「なんで?」
「はい?」
「なんで地毛に戻したんだ? なんで前はお嬢様っぽい黒髪にしてたんだ? どんな心境の変化があった?」
黒目がちな瞳が、小雪を捉える。彼女の眼振を観察するように覗き込んでいる。
「……別に、特にこれといって……飽きたというか、自然のままの方がいいと思い直した、というか」
しどろもどろに答える小雪を、春はにやにやと面白そうに見つめる。「なるほど、ねぇ」
「典型的な共嗜癖ってだけじゃねぇな。なんか歪なんだよなぁ、北七は」
「共嗜癖、って」
「うん? よく聞くだろ? 共依存恋愛ってさ」
共依存。他人に必要とされることで自分の存在意義を見出す、自分の価値観を認識する行動をとる、確かそんな意味合いだった。
小雪は訝しげにその言葉を反芻する。
「共依存。まあ、知ってますけど」
「過度に相手に奉仕する、自分より相手を優先する、相手の不快行動を受容する」
「はぁ」
「だがお前は自尊心や自己愛が低いわけじゃあない、自分に自信がないわけでもない。境界性も問題なさそうだ」
「……さっきから、春先生、何を言ってるんですか? 何が言いたいんですか?」
「お前さぁ、依存なんてしてないだろう。なのに、なんで諦めないんだ?」
「ですから、何のこと」
「あいつ、全部理解ってるぞ」
気付けば小雪は膝の上で拳を固め、微かに震えていた。
それは得体の知れない圧力や恐怖――からではなく、心の奥の方で燻っている何かが今にも再燃しそうな焦燥を感じたからだ。
「ふふ、悪い。北七みたいなやつ見てるとおかしくって、ついな」
「おかしいって……春先生、それは少し失礼じゃないですか」
さすがにその言葉にムッとして、小雪は低い声で文句を言う。
「気に障ったなら悪かった。でもな北七、お前は間違いなくおかしいよ」
春は、にやつく笑みを崩さない。
「……用はこれで済みましたよね。あたし、そろそろ戻りますから」
「おう。ま、こっちは問題ない。安心しろ」
ひらひらと『地毛証明書』を振る春を一瞥すると、入室してきたときとは違い、小雪は無言のまま職員室を後にした。
あの人――春先生のことは、とても苦手だった。
何もかも識ってそうな、何もかも暴いてしまいそうな、そんな彼女を小雪はとても危惧し警戒し、そして――彼女に縋り付いてしまいたくなる。
「苦手だ、あの人」
小雪はボソリと呟いた。
◆
俺の悪い癖だな。
そうひとりごちると、もう冷めてしまったお茶に口をつける。「やっぱ、冷てー」そのまま手に持ったマグカップを掲げた。
部屋の隅の方でこちらを伺っていた男性――同期の国語教師が慌てて駆け寄ってくる姿が見える。それを彼に無言で手渡して、春はトントンと机を指で叩く。
含む物言いで、彼女――北七小雪にあることを喚起させた。
迂遠に、遠回しに、もったいつけて言うのは春の悪い癖だったが、今回はそれも仕方ないとも思っていた。
なぜなら北七小雪はいまだ理解していないから。
春は思う。北七小雪が理解するには、それを受け止めるためには、まだまだピースを充足させる必要がある。あいつを中心に形作られている気持ちの悪い――醜悪で醜怪なパズルのピースは至る所に散らばっている。
あいつ――二重子規。
春は、彼のクラスの担任になってから、いやそれ以前に中学時代の彼の履歴書類に目を通して以来、違和感をずっと感じていた。
彼女の感性に、脳内に最大音の警報が鳴り響く。
「北七小雪は、おかしい。だが、それ以上に二重子規はおかしい。あいつは――異常だ」