北七小雪 VS. 二重節 2
「はい、兄さん」
眼の前でぐつぐつといい匂いを漂わせている鍋から、具材を一摘み。子規の前のとんすいへとよそう。
「はい、薬味はご自由に」
小雪が薬味の入った小皿を次々と並べていく。さらし葱におろし生姜、一味に柚子胡椒、大根おろしにすりゴマと、これでもかというくらいに並べていく。
「おろしニンニクも用意してあるよ。ちょっと臭っちゃうかもだけど、平気よね」
「至れり尽くせりだな。ありがとう、節、ユキ」
早速、子規は程よく煮えた野菜をそのまま口へと運ぶ。しばらく咀嚼し、相好を崩した「うまいよ」
小雪と節が顔を見合わせ、ハイタッチ。
「ほんと、美味しい。上品な味付けね。いい塩梅だわ」
同じ様に野菜の味を噛み締めていた大雪が感嘆の声を漏らす。
「味付けはシンプルに塩麹と淡口しょうゆとお酒。冬キャベツの甘みが引き立つように」
「早速、鶏つくねも入れるのです」
竹筒に乗った綺麗な浅紅色の鶏ミンチをヘラで程よく成形し、鍋に投入していく。
ぐつぐつと煮える鍋の中で、ふっくらと鶏団子に火が通っていった。
「じゃ、あたしたちも食べよ。せっちゃん、ポン酢とって」
「はいです。柚子の方です」
「よくわかってるじゃん。はい、せっちゃんには、すだちポン酢」
「よくわかってるのです」
お互いの嗜好はわかりきっていると言わんばかりだ。仲の良い本当の姉妹のように映る。
そんな二人を先ほどから笑顔を絶やすことなく大雪は見つめていた。
「せっちゃん、うちでご飯食べるの久しぶりね」
「ご無沙汰していたのです」
「遠慮しなくていいのよ? いつでもうちに食べに来ていいんだから」
「いつも甘えてばかりなので……頭が上がらない、です」
大雪は節の髪を優しく撫でる。
「せっちゃんはまだ……子供なんだから。変に遠慮しないで、甘えていいのよ」
「こ、子供じゃないです」
「ふふ、可愛いわぁ」
節は自分を優しく撫でているその手を上目遣いで見つめ、すっと目を落とす。心なしか頬が紅潮しているように見えた。
「……お母さんみたいです」口の中でぼそりと呟き、それに気付き慌てて口元を手で覆う。だが、それに気付かない大雪ではない。
「ふふ、うふふ、あーもう、せっちゃんったらー」
「あ、ちょ、やめるのです、や、やめ」
頭ごと思い切り抱きしめる大雪の腕から必死に逃れようとする。ギブするようにパンパンと大雪の腕をタップするが離す気配が一向にない。
「せっちゃん、せっちゃんー。うふふふ」大雪の頬ずりから逃れるべく「に、兄さん」必死に手を伸ばすが対面に座っている子規と小雪は、そんな二人を尻目に話に花を咲かせていた。
剰え、鍋から取り上げた鶏団子にふぅふぅと息を吹きかけ、「あーん」などと子規の口にそれを差し出している。抵抗なくそれを受け入れる子規を見て、節はちょっとイラッとした。
やがて四人はシメの雑炊まで堪能し、デザートの小雪特製手作り柚子シャーベットに舌鼓をうちながら緑茶で一服する。満腹感と幸福感で、うとうとと酩酊する。しばしの無言。
節が口を開いた。
「時に、姉さん」
「なんだい」
節が、ちらりと子規を窺った。
「教えてほしいのです」
「ああ、そうだったね」
小雪が、ちらりと子規を窺った。
「あたしね、明日から停学になると思う」
「……は?」
「停学で済めばいいんだけど。ま、学校でやらかしちゃったのね、あたし」
「やらかし、ちゃった?」
「うん、やらかした。同級生に暴力ふるって怪我させたんだ」
「姉さん……が? あの『天使』って言われ」
そう続けた節がピタリとその言葉を止めた。眼前の子規が節をじっと凝視していた。目を細めて、じっと凝望していた。
大雪がふいに言葉を止めた節を訝しげに窺う。顔面を蒼白にした節の額から汗が滲み始める。
「せっちゃん?」
「な、なんでもないのです。でも、姉さんはなんでそんなことを」
小雪はその質問には答えず、子規に目を向ける。
「春先生、なにか言ってた? あたしのこと」
「ああ、SHRでな。ユキが停学処分になるかもしれないってことを言ってた。その原因がA組の三枝雨水って子への暴行だってことも」
「三枝、雨水……?」
節が目を見開いた。その名前を知っている、そんな驚き方をしていた。
「だって、三枝さんって」
「うん、あたしの、中学の時の同級生だったって。親友だったみたい」
「あ、はい、そうでしたね」
本当にそうだったんだな、と小雪の言を肯定した節を見て、なんだか納得のいかないといった体で口をへの字にする。
「ま、ちょっと腹に据えかねることがあってね。結局、感情を抑えられなかったあたしが全部悪いんだけど」
「そんなこと」
「そんなこと、あるんだよ。どんな理由があったって暴力行為は許されないんだ。だからあたしはそれを償うよ。どんな形になったって、たとえ退学になったってそれに抗議なんてしない。認めて、素直に受け入れる」
「ね、姉さん」
「そうね、わたしも同意見」
大雪が続く。
「小雪は許されないことをした。それは事実。多分、もうじき正式な処分についての連絡が来るわ。どんな沙汰が下されようと、わたしたちはそれに従うつもりよ」
壁にかけてある木製の時計を見上げる。時刻は19時を少し過ぎたあたりだった。
チチチチと時計の秒針が進む微かな音だけが聞こえてくる。
小雪の身体が、いつの間にか震えていた。
「ね、シキ」
「うん? なにかな」
「あたしは人に暴力を振るった、怪我をさせちゃった」
「そうだね」
「もしかしたらこの先、シキと学校に通えなくなっちゃうかも知れない」
「そうかな」
「こんな事聞くのはね、ホントは怖い、怖いんだけど……」
「なにかな」
「人に怪我させた、あ、あたしのこと、嫌いになったり、しない? 一緒に学校いけなくなっても、あ、あたしのこと、忘れたり、しない?」
「ユキ」
子規が小雪の両頬に手を添え、俯いた顔を上げさせる。
小雪の双眸は、恐怖と悲哀に潤んでいた。憂いを帯びたような不安げな双眼だった。
子規は頬に溢れた涙を指で優しく拭う。
そして、震える小雪の頬に優しくキスをした。
「馬鹿なこと言うな。馬鹿なこと考えるな」
「……シキ」
小雪は子規の首に腕を回した。子規の瞳に吸い込まれる。
「だ、ダメです! こんなとこで、何するつもりなのですかっ!」
二人の顔が睦み合う寸で、慌てて節がその間に飛び込む。
「ちょっと、小雪、子規くん。雰囲気出すのはいいけど、時と場所を選んでね?」
大雪は頬杖をつき、呆れたように溜息をついている。
子規から遠ざけようと椅子ごと押し出そうとする節を、小雪が必死に留める。手四つの力比べに、お互いがプルプルと震えている。
「ゆ、油断も隙もありません」
「い、いいところだったのに」
「ま、まったく、姉さんは。もう、姉さんは兄さんの恋人ではないのです……っ」
「あ、あきらめないもん。あたしは、絶対にあきらめない」
ぐぬぬっ、と均衡していた二人の頭に軽く手刀が振り下ろされた。
「大雪さんに迷惑だ。じゃれ合ってないで、さっさと離れる」
「「はぁーい」」
ようやく離れた節に、子規がぼそりと耳元でささやく。
「……ありがとな、節」
打ち震えるような喜びが、節の全身を貫いた。
◆
プルルル、と北七家の電話が鳴った。
小雪と大雪が顔を見合わせ、神妙な面持ちで互いに首肯する。大雪が電話に出た。
「はい、北七でございます」
こちらには電話の内容はわからない。節は隣で眉根を下げ、不安そうに大雪を見つめている小雪をそっと窺う。
その身体が微かに震えているのを――何があったのか尋ねたときからずっと震えていたのを節は知っている。
いつから、姉さんはこんなふうに変わってしまったのでしょうか。いつから、ですか――愚問でした。
自問自答し、小雪が変わってしまった原因を想起し、それを愚問だと切り捨てる。そんなことはわかりきっていたから。
被害者は三枝雨水さんでしたか。あんなに仲が良かったのに、あの件以来、何も接触がなかったのです。
そういうことなのだろう。先ほどの会話から察するに、小雪は彼女のことを覚えていなかった。
そういうことなのだろう。先ほどの会話から察するに、小雪は彼女に暴行を働いた。
この二つが繋がるなら、暴行した原因もまた理解できるのです。理性より感情が優先されたことも理解できるのです。
小雪の表情をこっそり眺めながら、節がそんなことを考えていると、
「……は?」
電話をしている大雪の方から頓狂な声が聞こえた。
「え、示談すらしないってどういうことですか?」
その大雪の言葉を聞いて、節は緊張する。
示談をしない。それは即ち、事件にするということではないのか。
「で、ですが、一方的に悪いのはこちらの……先方が? 今回のことは、なかったことに、と?」
節はそこで勘違いしていたことに気付く。
「なかったことになんて出来ませんっ! 然るべき謝罪と補償を、」
戸惑い取り乱し「ですが」「しかし」と繰り返す大雪。やがて、大雪は自身の体を支えられなかったのか、壁に寄り掛かり、
「……承知、致しました」
そう紡いで、受話器を下ろした。
大雪に小雪が駆け寄る。
「母さん? で、電話、どうだったの?」
大雪は顔を上げた。その視線は駆け寄ってきた小雪にではなく、子規に向けられていた。節には、大雪のその瞳の中に怯えと焦燥がはっきりと見えた。
大雪は子規に視線を向けながら、言葉を区切り、伝達する。
「自宅謹慎、一週間、よ。今回の件は、停学にすら、しないって。慰謝料や治療費、示談を含めて、何もなかったことに、したいって」
「は、はぁ?」
節もまた、子規に視線を向けた。
「……それと、ね」
「な、なに」
大雪が自分の肩越しに誰かを見つめ続けているのがわかったのか、小雪が振り返る。
節、大雪、小雪。三人の視線を同時に向けられた子規が、目を細めた。
「どうか、したんですか?」
子規の口元がほんの僅かに釣り上がったのを、節は見逃さなかった。
「三枝さんが、転校、するって」
打ち震えるような喜びが、節の全身を貫いた。