インターバル 三枝雨水
体中が痛い。
身体を反らしたり、肩を動かしたりすると、自分の脇腹あたりがズキズキと疼く。どうやら肋骨に罅が入っているようだった。
顔中が痛い。
片目――左目は視界が塞がっている。大きなガーゼに覆われている顔半分は腫れが酷い。どうやら頬骨に罅が入っているようだった。
首だって痛い。腕だって痛い。足だって痛い。全部痛い。痛い痛い痛いっ。
雨水は病院のベッドで横になりながら、体中に走る痛みに身を悶えさせていた。抗生剤と痛み止めの点滴をしてはいるが、鈍痛は未だ収まらない。
手術などの大きな処置は必要ないとのことだったが、それでも骨に罅が入っている。しばらくは絶対安静だった。
半分の視界の中で、靄がかかる頭の中で、雨水は学校での出来事を思い返していた。
何度もフラッシュバックするのは、小雪のきれいな脚。
わたし、沢山蹴られたんだな。
迫りくる足、足、足。雨水に着弾する毎に衝撃が身体中に響いた。痛みが心に響いた。
わたしはまた小雪ちゃんと親友に戻りたかっただけなのに――ううん、違う。
二重くんに近づくために、わたしは何をしたんだっけ。
そう、小雪ちゃんを利用しようとしていた。あと、小雪ちゃんを追い落とそうとしていた。
雨水の瞳から、ほろり、と涙が零れ落ちる。なぜだかとても悲しい気持ちになってしまっていた。
雨水と小雪は確かに親友だった。そう、親友という関係で築き上げられた時間を共有していた。
それは雨水にとって、輝くような宝石のような幸せに彩られた時間だった。
だが、雨水はその悲しい気持ちがどこからきているのか、何故そんな心持になったのか、それがまったくわかっていなかった。
親友だった小雪を利用しようとしたその背徳感、かつて小雪を貶めるためだけの理由で人身御供にした彼女への罪悪感が大きすぎたのだ。
雨水は無意識に心を守る。雨水にとってその感情は反転させなくてはならないものだから。
だから、
わたしは二重くんの側にいたかっただけ。ただそれだけ。それは悪いことなの? ――わたしは何も悪くない。
雨水は、自分を肯定した。
小雪ちゃんはそれを拒絶したんだ。剰え暴力に訴えるなんて――
雨水は、憎悪に身を焦がす。
――北七小雪、あいつは絶対に許せない。
雨水は復讐のために、小雪を追い詰めるべく算段を始める。
自分は被害者だ。加害者である小雪には自分を理不尽に痛めつけた代償を支払ってもらわなければならない。
そう結論付けると、あとは頭の中に色々なことが思い浮かんでくる。小雪を貶めるための手段や方法が沢山湧いてくる。
まずは絶対に示談なんかには応じない。重大事象として警察に通報する。
学校側は問題を大きくしたくはないはず。だから、内々で済ませようと働きかけるだろけど、絶対に隠蔽はさせない。
傷害罪は既に成立している。これは喧嘩ではなく一方的な暴行だ。少年法が適用される年齢でもないし、刑事責任に問える案件だと雨水は考える。
弁護士を伴って警察に傷害事件として被害届を提出すれば、おそらく問題なく受理されるはず。
雨水の口元がいやらしく歪んだ。
「うまくいけば、退学に追い込むことができるかも」
こちらが不退転の、一歩も引かない姿勢で被害を訴え続ければ学校側も折れるはず。そんな面倒は早々に片付けたいに決まっている。
「これで最大の障害がなくなる。わたしが小雪ちゃんに成り代わる」
わたしの綺麗になった顔をこんな傷物にして。わたしのイケメン顔をこんなに腫れさせて。美人になったわたしをこんなにバカにしてっ。
「ふ、ふふふふふふ。絶対に許さないんだから。あきらめてね、小雪ちゃん」
妄想を膨らませ、これから起こることを想像し、雨水は愉悦に浸る。くつくつと笑い続ける。小雪の行く先を考えるだけで楽しくて仕方がない。
『コンコン』
病室のドアがノックされた。
◆
「し、しつれいしまぁす」
啓が病室に顔を覗かせた。
「雨水ちゃん、いるー?」
恐る恐る、足を踏み入れるとキョロキョロとベッドの辺りを見回す。毛布が膨らんでいるのを見るに、包まって眠っているのかも知れない。
「いるじゃん。返事くらいしてよね。ありゃ、眠ってるのかなぁ」
ゆっくりとした足取りでベッドに近づく。
「いいねぇ、個室。これなら気兼ねなく静養できるんだよ。はい、これお見舞い。駅チカのケーキ屋さんで買ったやつだよ。雨水ちゃんの好きなモンブラン」
備え付けてあった椅子にぽすんと腰を落とす。
「ありゃ、これは本格的に眠ってるのかなぁ。タイミングまずかったかなぁ。うーん」
しばらく腕を組んで悩んでいると、もぞもぞと毛布が動いた。ははぁん? と啓が悪戯っぽくにやりとする。
「雨水ちゃん、災難だったねぇ。なんか小雪ちゃんに暴力振るわれたんだって? まったく、あいつなんなの? 暴力的だとは思ってたけど、まさかホントに怪我させるなんてさー。許せないんだよ」
「…………………」
「雨水ちゃん、顔怪我したんでしょ。それで啓と顔合わせられないんでしょ。気にすることないんだよ」
「…………………」
「啓もねぇ、いまちょっと人に見せられないような顔してるんだよ。目が腫れちゃってね。あはは、子規くんとちょっとあってねぇ。だからおあいこなんだよ。お布団から出ておいで」
「……………いっ」
「うん? どしたの、雨水ちゃん」
いつの間にか毛布が小刻みに震えていた。
「寒いのかな。怪我のせいで発熱しちゃった? そうだよね、骨折したって聞いたんだよ。まったく小雪ちゃんってばさ、どんな神経してればそんなことできるんだろうね。子規くんも絶対呆れたはずだよ。これで小雪ちゃんとも、」
毛布の揺れが激しくなった。もう小刻みな振動とはとても呼べない。ガタガタ、ガタガタ、と激しく震える。
「う、雨水ちゃん?」
「…………さいっ」
「だ、大丈夫? ナースコール押す? 看護師さん呼ぶ?」
「………なさいっ」
毛布の中でブツブツと雨水が何かを呟いている。繰り返し繰り返し、同じ言葉を呟いている。
啓はその尋常ではない様子に顔を引き攣らせる。啓の背中に冷たい汗が流れる。
「……んなさいっ」
震える手をそっと、その毛布に伸ばした。
「…めんなさいっ」
目の前の毛布をゆっくりと開く。
「ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ、ごめんなさいっ」
彼女が身を縮こまらせ丸まっていた。
彼女の少し釣り上がった切れ長の大きな目から、すっと鼻筋の通った鼻から、厚めの色香ある口唇から、水分が滂沱として流れ落ちていた。
彼女は頭を抱え、顔をぐしゃぐしゃにし、繰り返し『ごめんなさい』と呟き続けていた。その瞳には光など射していなかった。
三枝雨水は、壊れていた。