北七小雪 VS. 北七大雪 2
「……ユキ。その頬、どうしたんだ」
子規は小雪の左頬を指差す。よく見なければ分からないほどであったが、赤く腫れているその箇所を見て、子規は眉をしかめた。
「あー、これね。母さんにやられた」
「大雪さんが?」
「うん。生徒指導室に入ってくるなり『ばっかーん』って」
溜息一つ。
「あたしが悪いんだから文句も何もないんだけど、心の準備もなくいきなりグーパンはないよね」
「何言ってんの。あれはあんたの意識を戻すための喝みたいなものよ。私が来たことすら気付いてなかったじゃない」
「うー、痛いんですけど」
「我慢なさい」
小雪が拗ねたように口唇を尖らせる様子を見て、子規がくすくすと安心したように笑った。
「それなら、よかった」
「それならって、なによー。もう、少しは労って」
「はいはい」
子規が小雪の髪をポンポンと優しく叩く。小雪はだらしなく表情を緩める。
その小雪の姿を見て、大雪が「いいなぁ」と指を咥えた。
「相変わらず仲いいわねぇ、あなたたち」
「えへへ、そう見える? ですってシキ。だからあたしと付き合って」
「ごめんな、幼馴染のままでいよう」
もういつもお友達か幼馴染で濁すんだから、人差し指でつんつんと子規の頬を突っつく。
「ね、シキ。勿論、ご飯食べてくでしょう? 母さん、今日は何があるかな」
「買い物になんて行ってないわよ。あなたのせいで」
「あー。じゃ、シキと買い物行ってくる」
「あなた、停学中でしょう」
「まだ処分下ってないから大丈夫。ギリセーフ」
大雪は呆れた眼差しを向ける。そして財布から大枚一枚を取り出し、小雪に手渡す。
「子規くんは大丈夫? 予定とかあるならそっちを優先して。節ちゃん、待ってるんじゃない?」
「お気遣い有難うございます。節にはもう連絡しました。今日は友人と夕食を済ますようです」
「あら、そう。久しぶりに節ちゃんも呼びたかったんだけど。残念」
「喜びますよ。今度、是非、誘ってあげて下さい。今日は、はじめから、」
小雪は子規に見つめられ、顔が熱くなる。
「俺がユキと、大雪さんと一緒にいたかったんです。夕食、甘えますね」
親子揃って、顔が熱くなった。
シキのこういうところ、ホントずるい。
すっと懐に入り込まれる感覚。小雪が今一番してほしいこと、言ってほしい事を悟ったかのように言動にあらわす。
一つ間違えばただの図々しい輩になってしまうけれど、彼のそれは本当にスマートだ。
「それと、これを」
子規が制服のブレザーの内ポケットから茶封筒を取り出す。それを大雪にすっと差し出す。
「いつも好きでやってるんだから、気を使わないでいいのよ」
「そういう訳にはいきませんよ。食事にしても生活にしても、いつもお世話になってるんです。それに、これからも図々しく北七家に甘える予定なんですから」
子規と大雪は視線を合わせ、軽く吹き出し合った。
「わかったわ。それじゃ、遠慮なく収めさせてもらうわね」
子規が大雪に渡した封筒の中には、お金が入っている。
それは高校に入学してから小雪がいつも彼に作ってあげるお弁当、そしてたまに一緒に囲む夕食分の食費――ということになっている。
それを、子規は律儀にも毎月こうして大雪に手渡している。
食事にかかる費用が一人、二人増えたところで生活費に大した影響はないと思うのだが、いくら大雪たちが遠慮しても決して引かない彼に、とうとう大雪が折れた、ということになっている。
ということになっている。
そう。それが見え透いた自演だと小雪は思っている。
なぜなら――
封筒の中身、それを小雪は見てしまったから。
大雪が決して教えない、厳重に管理していたそれを、悪戯心と好奇心、ただそれだけのためにこっそりと目を盗んで、そのパンドラの匣とも呼べるべきものを開封してしまったから。
その中には最高額の紙幣が何枚も重なっていた。
その正確な金額を小雪は知らない。だが、決して少なくはない額。一月の食費なんかには到底釣り合わない、多すぎる金額。
小雪は自分の目を疑った。その札束の意味する所を欠片も理解することができなかった。
ただ一つ理解った。開けてしまったその匣――封筒のその中に入っていたものは、決して希望などではない。
だから、小雪はそれを見て見ぬふりをする。決して口を挟むことはしない。
この茶番が何を意味しているのか小雪にはまったく想像がつかなかったのだけど、決して口を挟んではいけないことだと理解は出来たから。
知らなくていいことを識ってしまう。それが自分にとってどういう結果をもたらすのか。その恐怖を本能が忌避する。過去に遭ったことを繰り返してはいけないと警告する。
だから小雪は目の前のそれを無視する。それを黙殺する。
だから閑話休題。
子規には年の近い妹がいる。
それが先程から子規と大雪の会話に何度か出てきた『節』という名前の女の子。二重節。
彼女は子規の実妹だ。よくある再婚した親の連れ子、実は義理の妹、などという設定はまったくない。
今は中学2年生、今年で14歳になったはずだ。子規と小雪の通っていた中学校に同じように通学している。
彼女は、再来年にはここから近い県立の進学校ではなく、小雪たちのいる私立高校に通うべく今から必死に勉強しているという。
小雪は彼女が、何を考えているのかはすぐに分かった。『ブラコンだからな』その一言がすべてだ。
そんな彼女は、子規に『兄さん兄さん兄さん兄さん』と、とてもよく懐き、その隣にいる小雪には『姉さん……チッ……』と、とてもよく疎む。
小学生の頃は、子規と小雪を兄姉と敬い、どこに行くにもとてとてと一生懸命後を追う、とても可愛い妹分だったのだが。
今では、ブラコンを拗らせ、兄に近づくものすべてを威嚇する狂猫に変わり果ててしまっている。小雪は残念だった。とてもとても残念だった。
幼少の頃から近所付き合いのあった二重家と北七家。
当然、子規だけではなく、彼の妹の節もまた小雪と本当の家族のように共に育ってきた。家族ぐるみの付き合い、というやつだ。
小雪がまだ小学校低学年だったころに不慮の事故で父親を亡くしてしまってからも、何かと二重家は北七親子を気にかけてくれていた。
子規の父親――とても頼りがいのある人だった。
亡くなった実父の代わりに、そう、本当の父親のように小雪に接してくれた。実の子供のように扱ってくれた。
小雪も、死んだ実父の代わりには決してならないことは幼心に理解していたけれど、心の底から信頼していたし甘えていた。子規の父親が大好きだった。
けれど、
子規の母親――彼女だけはちょっと苦手だった。(ニガテ?)
決して冷たい人ではなかったと思う。(ケッして?)
表向きはとても優しく(オモテムき?)いつも笑顔で相対してくれる(エガオ?)近所でもいい評判しか聞こえてこない(いいヒョウバン?)理想の女性をそのまま具現化したような(リソウ?)そんな人だった。
儚げなその容姿はまるで幽玄の美――存在がとても希薄な佳人。子規の母親はまるで、
(あれどんなヒトだっけ?)
だから閑話休題。
だからシキの両親が離婚したのって、いつだったっけ。
「こゆき……小雪っ!」
「うん? どしたの、母さん」
「こっちの台詞よ。あなた、どっか違う世界へとんでたわよ……子規くんいるのに、ぼーっとしちゃって」
「うん? ご、ごめんねー、シキ。そんなぼーっとしてた?」
子規が優しく微笑んだ。
「心ここに在らず、だったな」
「うへ、変顔見せちゃったかな。恥ずかし」
「そんなことないよ。どんな表情でも可愛いぞ、ユキは」
「も、もう」
でれりとした小雪の背中を大雪がポンッと押し出す。
「はいはい、ご馳走様。それじゃ、二人ともお使い宜しくね。無駄遣いしないように」
「うん、行ってきます。ささっ、シキ、新婚夫婦のように共にお買い物へ向かおうじゃないか」
「ハハ、それじゃ大雪さん。行ってきます」
仲良く門扉を抜ける二人。子規の腕を組んでスキップしている小雪の浮かれっぷりを見る限り、今日の停学沙汰のことをすっかり忘れているようだ。
大雪は我が娘のそのげんきんな有り様を見て、先ほどの子規と同じ様に優しく微笑んだ。
◆
二人の背中が見えなくなるまで見送った大雪は、手の中にあった封筒を、くしゃりと握り潰した。