インターバル 四条啓
終鈴が鳴り響いた。
昼休みに職員室へ呼び出された彼女、北七小雪は午後の授業がすべて終了しても教室へは戻ってこなかった。
啓は授業中から子規をチラチラと盗み見ていたが、彼はそのことに対して別段何の反応も見せていない。
うーん、これは本当に停学になったかなぁ。
啓はそのことがとても気になっていた。午後の授業内容がまったく頭に入ってこないくらいに。
それは昼休みに、子規と清明が小雪の頭髪について話していた内容を聴いていたからだ。
あのゆるふわショート――癖っ毛茶髪は地毛だと言っていた。
子規がそう言うなら、それは間違いないのだろう。尤も小雪が呼び出された時は「ざまぁ」などと内心罵ってはいたが、彼女に限って、みすみすそんなあからさまな校則違反をするはずがないとも考えていた。だって、停学なんてことになったら、しばらく小雪は学校で子規の側にいられなくなる。
だとしたら、なんで戻ってこないのかなぁ。
説教が長引いてる? 違う、授業をサボらすことは基本的にあり得ない。強制的に帰宅させた? ううん、まだ机に鞄がある。純粋にサボっているだけ? いやいや、小雪ちゃんのプライオリティはいつでも子規くんが筆頭だ。授業中でさえも、それは変わらない。
なんで戻ってこないのかなぁ。
「ねぇ、子規くん」
「どうしたの、啓ちゃん」
子規はいつもと変わらない表情で返事をする。
「小雪ちゃん、戻ってこなかったねぇ」
「そうだね。何かあったんだろうね」
「……心配?」
「なにかイレギュラーなことが起こってるのは間違いない。でも、頭髪については『地毛証明書』を持たせてあるし、以前のそれについてその理由を綴った『弁明書』も別途用意した。特に問題はないはずだよ」
「そ、そんなことまでしてあげてたんだ」
自然な子規の言い分に、啓はそこに小雪との深い繋がりを見た気がして、胸の裡にチリッとしてものが走る。
「だからSHRには顔を出すんじゃないかと踏んでるんだけど」
丁度そのタイミングでドアが開き、担任である五十立春が教室に顔を覗かせた。
「おい、席につけ。SHR始めんぞ」
教壇に立つ春は気怠げだった。
アンニュイな雰囲気を漂わせながら入ってくるのは常例なのだが、今日のそれはいつもより輪をかけて曇っているように見える。何か余計な厄介事を抱えてしまった、面倒くさいことに巻き込まれてしまった、そんな表情をしていた。
しばらく教室全体を見渡すように眼球を動かしていた彼女が、ある一点、子規のところでその眼球運動を止める。そこで目を細め、何かを思案するかのように腕を組んだ。
「今日の連絡事項は一つだ」
春は子規の隣の空席に目を向けた。
「北七が停学処分になった。まだ仮、だけどな。以上」
明日からテスト準備期間だよ、くらいの軽いノリで連絡事項を伝達する。呆気にとられた生徒たちは何もリアクションを起こせない。
「あいつ今日は戻らないから。あー、二重、お前近所だったな。あいつの荷物、家まで持ってけ。うん、それじゃ、かいさーん」
最小限の言葉で用件を伝えると、春はそそくさと逃げるように教室を後に、
「春先生」
出来なかった。もうドア近くまで移動していた春に子規が待ったをかける。
「質問があります」
「なんだよ」
首だけをぐるりと子規の方に向け、半眼のとても面倒くさそうな表情で応える。
その姿を見て啓は、春先生は首の可動域が広いな、とまったく関係ないことを考えていた。
「ユキ……北七小雪さんが停学になった理由を教えていただけませんか」
「あん? なんだっていいだろうがよ」
「頭髪の件でしたら、昼に春先生に証明書が提出されたはずです。それに関し停学になる要素はないように思えるのですが」
「ちげぇよ。証明書も、同封してあった弁明書も完璧だったよ。んなことで、停学なんかにはしねぇ」
はぁ、と深く嘆息し、春は踵を返す。教壇に戻り、その横にある椅子にドカッと乱暴に腰を落とした。
「うちの学校は、停学については公示する。明日には張り出されんだろ。それ見て満足しろ。ってか、お前が北七に連絡して直接聞きゃあいいじゃねぇか」
子規が席から立ち上がった。
「北七小雪さんが停学になった理由を教えていただけませんか」
「だからさぁ、お前が直接、」
その言葉を遮り、
「俺は、あなたの口から、何があったのか、どういう理由で停学になったのか、聞きたいんですよ」
子規が、ゆっくりと言葉を区切り、平坦な声で問いかける。
ぞわり、と啓の背中に怖気が走った。恐る恐る、子規の顔をうかがった。
無表情だった。そこには熱量が全く無いように見えた。
「なんだお前。煽ってんのか」
子規と春の視線が交わる。
それは火花が散る、電撃が走る、等といった決して分かりやすいものでは結ばれてはなかった。
どろりとした重油が蠢いているような、底のない沼に沈んでいくような、そんな粘着質なもので睦まれていた。
一気に教室内の温度が下がったように感じられた。啓が先程からの寒気に堪えられず、ぶるりと身体を震わせる。
しばらくして――時間にしては十秒程度だったろう――春が一つ息をついた。
「暴行」
「暴行?」
「暴行だよ。結構、派手にやりやがった」
「ユキが、暴行」
「そうだ。正確には傷害。相手を病院送りにした。相手は頭部打撲、頚椎ねんざ、左肋骨骨折、全治四週間ってとこだな」
教室が揺れた。
ざわめきの波及が大音となり、多重なサラウンドスピーカーのように、教室中に響き渡る。
その中にあって啓は、人一倍大きな衝撃を受ける。驚愕によって目が無意識に見開かれる。
なにしてんだ……あいつ。
小雪が暴力的だということを、今朝、身を持って知った啓だったが、そこには手加減をする優しさ、相手を怪我させないようにする気遣いをうかがうこともできた。だからこそ一線を超えた彼女に対し、驚き、憤慨する。
チラリと子規をうかがう。相変わらずそこには無表情で佇む姿がある。だが、啓はそこに翳を見た。その眼差しに仄暗い陰を見てしまった。
「せ、せんせい」
喧騒がおさまらない教室の中で、啓がボソリと発言する。
耳聡くそれを聞きつけた春が「ん?」視線を向ける。「何だ、四条」
「あ、あのぅ。小雪ちゃんなんですけどぉ……誰と喧嘩……喧嘩なのかな……怪我させたんですか?」
「三枝だ」
「……は?」
その聞き慣れた名字に、一瞬頭が真っ白になる。
「1年A組三枝雨水。あぁ、四条、お前仲良かったな」
なに、なにしてくれてんだ……あの……偏執狂女っ。
「は、はぁ? 雨水ちゃん? なんで雨水ちゃん!?」
「そんなこと俺が知るかよ。あとで病院に見舞いに行った時にでも、本人から聞け」
素がこっそり顔を出してしまっていることすら気付けないほど、啓は動揺する。
彼女は雨水とのやり取りを思い出す。
『雨水ちゃん。北七小雪ちゃんとお友達なんだよね? 啓、小雪ちゃんとお話がしたいから協力して』
『協力? 啓は北七と同じクラスだろう? 普通に話しかけりゃいいじゃんよ』
『だってさ、なんか小雪ちゃん、話しかけづらいんだもん。怖いっていうか、空気読めないっていうか』
『北七が、か? あいつは誰にでも……ああ、そっか、なんつうか、変わったよな雰囲気』
『変わった? 小雪ちゃんが?』
『まわりの話や、たまに見かける北七を見てな、そう思った。北七、有名人だしな、なんつったけか』
『偏執狂女』
『そう、それ。それがなぁ、なんかわたしには違和感ありありでな。まあ、えと、啓の彼氏の』
『二重子規くんっ!』
『あ、ああ、そうだったな。その、二重くんに……付き纏ってるって話だったな』
『そうなんだよ! ちょっとは自重してもらわないと正妻としての立場がなくなっちゃうんだよ!』
『正、妻』
『いずれは啓の旦那さんになる人だから。啓は理解ある奥さんだから、すこしくらい羽目外すのは許してあげられるんだけどね。お妾の一人や二人くらいを認めてあげられる度量はあるんだ。でも、ちょっと、小雪ちゃんは行き過ぎなんだよ。ちょっと、控えてほしいんだよ』
『そ、そうなんだ。そ、それでさ、その二重くんだっけ。今度、三人で一緒に遊びにでも行かないか。わたしも中学以来だから、ほら、久しぶりに話して』
『ダメ』
『え』
『ダメだよ、雨水ちゃん』
『な、なんでだよ、わたしも二重くんと顔見知りだしよ。それに、わたしが啓の背中を押してあげたんじゃないか』
『でも、ダメなものは、ダメなんだよ』
『そ、そうか……度量ないじゃねぇか』
『なぁに?』
『い、いや、別に』
雨水は小雪と中学からの友人だと嘯いていた。
高校入学から半年以上たった今まで関わりを持たなかったということは、友達、というより、顔見知り程度だったのかもしれない。それ程仲が良くなかったのかもしれない。
そんな二人が喧嘩、いや、小雪からの一方的な暴力だったのかもしれないが、傷害事件を起こした。しかも、授業をサボってまで、何かトラブルを起こしたらしい。
二人の共通点。
まず中学校が同じ。啓自身は、この高校の付属中からのエスカレーター組だ。幼稚舎から大学まで連綿と続くこのエスカレーターに乗るには、幼稚舎――小学校から受験をし、入学するのが普通である。そのまま、何も問題がなければ大学まで進学するというのが一般的なコースだ。そんな中、子規、小雪、雨水の三人は高校からの外部受験組。相当難易度の高い入学試験をクリアしてきたはずだった。学外各地から集まる優秀な外部組の中に、同じ中学の三人が集っているのはとても珍しいことだといえる。彼ら以外にその中学出身だったという生徒を、啓は寡聞にして聞かない。
だから、ただの偶然ではなく、何かしらの因縁があって三人は同校に進学した。その因縁――中学の時、あの二人に何らかの確執があった可能性は高い。
そしてもう一つの共通点。
それは、二重子規、なのだろう。
啓は、小雪の執着を間近で感じている。実害すら被っている。子規がこの学校に進学を決めた際、あの偏執狂のこと、迷いなくそれに追随してきただろうことは容易に想像できる。
そして啓は、雨水にも子規に対して何かおどろおどろしい執着を持っていると感じる時がある。
啓は恋する乙女だ。子規に囚われた愛玩動物だ。
だからこそ、雨水の言動が啓の『子規アラート』に反応した。雨水の心の機微を感じ取ることができた。
だからこそ、雨水を彼に近付けさせなかった。あえて敬遠した。
ただ、相手が病院送りになるほどに暴行できるかっていうと――
啓はぞっとして、首を竦めた。
無理だよ。相手を骨折させるまで暴力を加えることなんて、よっぽどのことがないと、出来るはずがない。
何かが、小雪の琴線に触れたのだ。雨水の言動の何かが小雪を暴走させたのだ。
「そ、そこまでやったってことは、小雪ちゃんは、」
「取り敢えずは無期停学だな。当然、暴行事件として警察が介入すれば傷害罪となって法的処分も求められる」
「それじゃあ」
「ただ学校側はまだ公にはしていない。パトカーや救急車だって来てなかっただろ? 今後、お互いの保護者同士が事件にするのか示談にするのか、話し合うんじゃないのか。俺も巻き込んでな」
はぁぁ、ホントめんどくせぇ、肺の空気を吐ききるくらいの深い嘆息を漏らす。
「別にこの件に関しては箝口令敷いてねぇし、好きに噂してくれていい。生徒同士の行き過ぎた喧嘩、その結果に過ぎない。ま、うちは一応そこそこ有名な進学校だ。周囲もこういったことには敏感になる。お前らも極力トラブルを起こさないように、学生らしく規律を守って学校生活を送ってくれ。くれぐれも」
俺の手を煩わせるような真似するなよな、そう言って春はパンッと一つ柏手を打ち、
「もういいか? いいよな」
注目集める。教室内の喧騒が除々におさまり始めた。だが、その教室の中で、
「あと一つ。質問を許して下さい」
「……言ってみろ」
ずっと無言で立ち続けていた子規が、言葉を発した。
彼のいるそこだけ黒で塗りつぶされているように、まるで彼のいる空間に錯誤があるかのように、彼はそこに存在していた。
先程から誰もそこに視線を向けることができなかったのだ。啓も彼の眼差しを見た後、視界の片隅で捉えてはいたが、まともに表情を見ることが出来ずにいた。
「ユキは、今どこに」
「ん……さっきまでは生徒指導室。保護者、母親に連れられてそのまま帰宅したよ。相当焦ってたのか、着の身着のまま車に乗せられて――違うか、あえて、だな」
「承知しました。これから彼女の荷物を持って、伺うことにします」
「……ああ、そうしてやれ。ただ一つ、これだけは言っておく――二重子規」
「なんでしょうか」
「この件に必要以上に関わろうとするな。介入、するなよ?」
その箴言に子規は薄く笑った。
その子規の笑みを見て、啓はとても嫌な予感がした。
◆
「ごめんね、啓ちゃん。今日は一緒に帰れない」
「う、うん。仕方ないよねぇ」
仕方なくない。子規との登下校は啓の特権だ。
今日の朝、泣く泣く一緒の登校を断った。それに加え下校も一緒できないなんて、いくら子規のお願いでも啓は我慢できそうにない。
「あ、で、でも! 啓も小雪ちゃんの荷物持ってくのお手伝いするんだよ。小雪ちゃん家まで、子規くんと一緒に行きたいな」
「ごめんね、啓ちゃん」
「あ、は、はい」
逆らえない。こちらを見つめる、啓が大好きな優しげな彼の眼差しが、今日はなぜかとても怖く感じる。しょんぼりと肩を落とし、小雪の荷物、スクールバッグやコートをまとめている子規を黙って見つめるしかない。
それでも、
「やっぱり嵩張るし、重そうだよ。啓、一緒に運ぶよ。だから」
ようやく絞り出した啓の声を背に、子規は振り返ることなく教室を出ていってしまった。
啓は子規くんの彼女だよ。
啓は子規くんの恋人だよ。
「あれ、子規は?」
俯き、立ち尽くしている啓の側で、声が聞こえた。
遠巻きに黄色い声を受けている美丈夫、というには女性成分過多の九曜清明がそこにはいた。
「ねぇ、メスブタ、子規はどこに行ったんだい」
「せーめーくん、もう隠す気ないよね」
呆れた眼差しを向ける啓に対し、清明は小鼻に皺を寄せる。
「ふん。僕は君が嫌いだ」
「そういうこと、本人を目の前にしてよく言えるねぇ。啓はせーめーくんに嫌われるようなこと、なにもしてないと思うんだよ」
「子規を騙して取り入ったじゃないか。それだけで重罪だ」
「騙して、かぁ。啓、子規くんを騙してるのかなぁ」
「でなければ、子規が君なんかと付き合うわけがない。その詐欺的な手法を是非ご教示願いたいね」
皮肉る清明に何も感じなかった。
昼休みに感じた恐怖は何も感じなかった。
彼の毒心に対して、何も思うところがなかった。
騙して、かぁ。啓、もしかしたら、子規くんにだ――ダメ、考えちゃ、ダメ。
「それで、子規は? 北七さんもいないようだけど、一緒かな。ああ、もしかして」
君、とうとう振られでもした?
愉しげに口の端を歪めた清明に、いつもは即座に反駁しそうなその言葉に、啓は何も言い返さない。
「子規くんは、先に一人で帰っちゃったよ。小雪ちゃんは――早退」
「……あそう」
その啓の態度に毒気を抜かれたのか、清明はつまらなそうに髪を掻き上げた。
「君にとっては僥倖な状況だと思うんだけど……ま、いいや。それにしても、放課後、子規と約束してたんだけどな。彼が不義理をするはずはないんだが」
「連絡、きてるんじゃないかな」
清明は手に提げていたバッグからスマホを取り出す。優雅な手つきでそれを操作する。
「……約束の延期と謝罪の連絡が来てた。僕との約束より優先させる用があることに、些か納得はいかないが……まぁ、よっぽどのことがあったんだと愚考する」
あはは、思わず啓は笑ってしまった。それを見て清明が眉を顰めるのがわかったがそれでも、あはははは、嗤ってしまった。
よっぽどのこと、かぁ。そうだね、そうだよ、よっぽどのことなんだよ。
啓が子規くんの彼女なのに。
啓が子規くんの恋人なのに。
「何故、笑ってる。不愉快だ。いますぐ、」
「せーめーくん」
「な、なんだ、ブタ」
「もうメスですらないね。せーめーくんはさ、子規くんと親友なんだよね」
「その通りだよ。かけがえのない、切っても切れない、心の深いところで繋がっている、そんな固い絆で結ばれた心の友だ」
「すごいね。その親友のせーめーくんに聞きたいんだけど」
啓は笑顔のまま清明と視線を合わせた。
けれど、啓の大きな瞳には清明は映っていなかった。
「……な、んだ」
「清明くんは、子規くんと、本当に、友達、なのかなぁ?」
「は? なに、を」
清明が絶句している。
「啓はさ、子規くんと、本当に、恋人、なのかなぁ?」
なんで啓を一番にしてくれないの?
なんで啓が一番じゃ、ないの……?
啓の大きな瞳から涙が一筋流れた。笑いながら泣いている彼女を見て、清明が絶句していた。