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非日常についての文章

反転したリゾート

すごく短い話なんですけれども、これでいいのかわからなくて何回も手を加えました。未だにこれが完成形なのかどうか釈然としていませんが、このままだと終わらないような気がするのでもう投稿します。

 輸入車が燃えている。黒煙がもうもうと上がり、一筋の不安感を夜空に漂わせている。ガソリンの揮発、革の燃焼、プラスチックの溶解などが臭気や呼吸を妨げる圧迫感を放ち、それはベランダから炎を眺める私の鼻腔にまで届いている。

 どうやらこの集合住宅の住人の殆どがベランダからこの光景を眺めているらしく、周囲からは話し声や物音が絶えず聞こえている。上の階の開け放たれた引き戸から、テレビの音声が、お笑い芸人の釣りエピソードが、女性タレントの過剰な相槌が、人気声優の調子のいいナレーションが、何処かのおじさんの素っ頓狂なインタビューが、観覧に来た客の笑い声が、ずっと漏れ出ている。その音声が輸入車の燃焼をさらに進行させている、そんな錯覚がずっと私の中にあって、振り払おうとしてもなかなか消えない。

 やがてどこかから複数のサイレンが近づいてきた。救急車なのか消防車なのかまでは分からないが、おそらくその両方だろう。


 翌朝、SNSを開くと昨日の輸入車の炎上はちょっとした話題になっていた。何人かの住人がSNSに写真をアップロードしたらしい。誰かに特定されかねないのによくやるよな、と思った。

 炎上していた輸入車には誰も乗っていなかった、発火の原因については、車の所有者が直前にセルフスタンドで給油した際に給油口から漏れたガソリンをよく拭かず、そこに何らかの原因で静電気が走ったことではないか、と報道されている。事実かどうかは知らない。

 またテレビのニュースでは誰かがスマートフォンで撮影していた映像が流れたらしく、友人から「あれお前が住んでる団地だよな?」とか「大丈夫だった?」なんて連絡が来たが、正直返信には困った。大丈夫もなにも、目の前で車が燃えていてそれは確かに驚くべき出来事ではあったけれど、ただ目の前で起こったというだけで私には関係のない出来事であったし、故に身に危険が及ぶことなどありはしなかった。

 …いや、わからない。本当にあの炎は私に関係のない出来事だったんだろうか。

 そんなことが引っかかったり、たまに考え込んだりしながら、私は「ぜんぜん大丈夫だよー」とか、「そうそう、すっごい燃えててびっくりした」などと適当な返信を送った。


 しばらくは消防や警察が来て慌ただしかったものの、一週間もすれば誰も来なくなり、この集合住宅の敷地内にはすっかり日常が戻っていた。


 しかし、その日常は輸入車の炎上を目撃した前と全く同じもの、という訳にはいかなかった。何せ輸入車が燃えていた現場は今でも真っ黒に焦げているのだ。ただでさえ黒いアスファルトがさらに黒く染まって異様な形に歪み、その周りの縁石や生垣の一部までもが汚く変色している光景を見れば、大抵の人は心がざわついてしまうだろう。あの日の夜に車を包む炎を見た人間であれば尚更である。

 ご近所の噂について喋っていた主婦も、下品な話題でふざけ合っていた学校帰りの中学生男子も、焦げ跡の前を通ると自然とあの夜のことに話題を変えた。それは私だって同じだ。考え事をしながら、あるいは何も考えずに歩いていても、目の端に風景の一部が黒く焦げているのを確認すると、どうしても脳内に燃える輸入車の映像が浮かんでしまう。


 しばらくして工事が始まり、数日後には焦げ跡は跡形もなく消えた。

 綺麗なアスファルトが敷かれて、縁石も新品に変えられた。生垣は焦げっぱなしだったが、やがて新緑の季節が来て葉の殆どが生え変わり、いつの間にか生垣からも焦げ跡が消えた。

 やがて誰もあの夜のことを話題にしなくなったし、住人は皆あの夜の出来事を忘れたかのように振舞っている。

 しかしあの夜、真っ黒な煙が立ち上り夜空を汚していたことも、様々な家のベランダからテレビの音声が漏れ出ていたことも、翌日SNSに炎上する車の画像が何枚か上がったことも、ニュース番組で炎上する車の映像が流れたことも、私たちがアスファルトの焦げ跡を見る度に妙に落ち着かなくなったことも、全てが脳のどこかに存在して、ふとした瞬間に思い出してしまう。

 車が燃えていた場所がどんなに綺麗になっても、炎で生じた日常の歪みが私たちの記憶の中にある限り、あの場所にはいつまで経っても黒煙を上げる輸入車が存在しているのだと思う。


 あの日、燃える輸入車を見つめていたベランダがある部屋の床に寝転がり、空を眺めている。窓からぼんやりと外を見つめていると、不意に目の端に黒い狼煙が上がっているような錯覚が起きて、背筋が痙攣する。

 慌てて起き上がり、ベランダに出てしまう。そこに輸入車がないと分かっているのに、外を確認してしまう。何もない。平和な午後の風景が広がっている。

 こういうときに周りを見渡すと、必ず同じようにベランダに出てきているどこかの部屋の住人と目が合う。今日は隣に住んでいる独り身のおじさんだった。

 私たちはバツの悪い笑みと会釈を交わすと、どちらからともなく部屋に戻って、各々の日常を続けていく。


 輸入車の所有者はある企業の役員だった。彼は「この団地の住人に届け物をしに来た」らしいが、実際のところはよく分からない。

 別の棟に住んでいる噂話好きのおばさん曰く、彼は事件後に新しく、燃えたものよりもひとまわり高級な輸入車を購入したらしい。

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