吉沢梨壱の朝の道
それはどこにでもある夏の日の朝だった。それこそ本当に拍子抜けするくらいに。
別に何か大事故が起こるとか、そういうことを期待していたのではない。だけど、今日は俺にとって大事な1日なのだ。だから何か特別なことが起きてもいいと思うのに。
うんざりするくらいにいつも通りで、知らずにため息をつく。
そうして思い出した。確か俺が音楽を始めたきっかけもそんなものだった、と。
小学生の頃の俺は、何でもできた。
勉強も、運動も、女の子にだってよくモテた。それが当たり前だと思っていたし、そんな自分をつまらないとも思っていた。
勉強は退屈で、運動もよくできた割には好きじゃなかった。女の子たちが自分をチヤホヤするのにニコニコと無難な笑みを浮かべてフラフラと頷きながらも、心のどこかでは面倒だとすら思っていた。
だけど何より苦痛だったのは、そのどれでもなかった。俺が何よりも嫌だったのは、同じような毎日を繰り返すことだった。毎日毎日代わり映えのしない日常を送ることに苛立ってすらいた。
自分でもなんて嫌味な子供だったのだろう、と今では思う。
とにかく、俺は飽きっぽかった。そしていつも何か特別なことが俺に起こってくれたらいいのにと思っていた。
高校生になった今では少しはマシになった(と思っている)けれど、元々の性質はそうそう変わらない。何か起こってくれ、楽しいことがどこかにないか、とこんな年になってもいまだにそんなことを考えて生きている。
そんな俺を見かねてなのかなんなのか、ある日の放課後、クラス担任に呼び出された。小学5年生の梅雨時のことだ。
怒られるのかと思って内心ビクビクしながら担任についていくと、いつの間にか音楽室にいた。
『なにか楽器をやってみるといい』
吹奏楽クラブの顧問だった担任はそう言って、半ば無理やり俺に楽器を選ばせた。そうして俺が選んだのが、トロンボーン。金色に輝くラッパを持った、腕を目一杯動かして演奏する楽器。
適当に選んだだけのそれは、俺の思惑とは裏腹に簡単に吹けるような代物ではなかった。こんなの簡単にできる、と息を吹き込んだ俺をあざ笑うかのように、ラッパから出てくるのは音にもならない空気ばかりだった。
その日は日が暮れるまで楽器を手放さなかった。
次の日も、そのまた次の日も。俺は放課後の音楽室に通い続けた。どうにかして音を出してやろう、と躍起になった。
思えばそれが、担任の思惑だったんだろう。そして俺は彼の思惑通りに吹奏楽クラブに入り、トロンボーンという楽器にのめり込んでいった。
スライドを自由自在に動かして音程を左右できるこの楽器は、飽きっぽい俺の性に合っていたんだと思う。スライドの位置はいつも同じ、というわけではない。
温度や湿度、天気などでもスライドの位置は微妙に変わってくる。昨日はこの位置でピッタリだったのに、今日はそうじゃない。もちろんどの楽器だってそういったことは起こるけれど、トロンボーンはそれが顕著だ。
一筋縄じゃ攻略できない、じゃじゃ馬娘。
その娘を宥めてあやして、たまに少し叱りつつ甘やかして素敵なレディにするのが俺の役目。
ピッタリの音程で吹けた日は、思わず褒めてやりたくなる。『よく頑張ったね』って。
もちろん、楽器に人格が宿らないだろうから、傍目からは変人だと思われるだろうけれど。それでもこの背中に背負った『カリーナ』は俺の大事なじゃじゃ馬娘だ。
今日は彼女をどうやって手なずけようか。
我ながら変態っぽいな、と口を歪めて笑った時、誰かが隣に並ぶ気配がした。
「吉沢先輩。おはようございます」
「お、おう。おはよう瀬戸」
それは部の後輩の瀬戸柚羽だった。
「何回も呼んだのに返事してくれないんですもん。無視されてるのかと思いましたよ」
「悪かったな。考え事してたんだ」
何も言わず、瀬戸は俺の隣で並んで歩く。俺もそれを咎める訳でもなく、10センチは背の低い後輩女子の歩幅に考慮して歩調を緩めた。
何もこれは瀬戸が俺にとって特別な後輩だからではない。
吹奏楽部は基本、女子部員がその大半を占め、しかも男子と女子との垣根が異様に低い。そんな中で長い間過ごしていると、女子とのパーソナルスペースが近くなってしまう。
こうして2人で登校していても、俺にとっては不自然でも何でもない。だって部の大半、身の回りにいるのは女子ばかりなのだ。気にしていたらきりがない。
まあそのせいで歴代の彼女には散々誤解を受けたのだが。
「何考えてたんですか?口元にやけてましたよ」
「目聡いな、大したことじゃないよ」
まさか自分が変態じみたことを考えていたなんて言える訳もない。適当にごまかすと、瀬戸は胡散臭げに俺を見たが、それ以上何も言ってこなかった。
助かった。
そのまま別の話題に変えてしまおうと口を開きかけたが、瀬戸の方が俺よりも早かった。
「いよいよ明日ですね!県予選」
「ああ、そうか。明日か」
瀬戸の言葉に触発されて、思い出す。そうだ、だからこそ今日は特別な日なのだ。
思う存分楽器を吹ける、おそらく最後の日。
明日になれば否が応でもステージに立ち、審査のために演奏しなければならない。結果が悪ければ、3年の俺は即引退して受験戦争の最前線に放り込まれる。運よく審査員に気に入られ、上の大会に進むことになったとしても、受験戦争が俺を待っていることには変わりない。
その時は楽器の練習と勉強とを両立させるしかないのだろう。
どちらにしても、純粋に楽器と向き合えるのは今日1日しか残されていないのだ。明日が来れば、また退屈な日常が俺を迎えにやってくる。
「楽しみですね、明日が」
「…まだ今日の練習も始まってないのに、気が早いな。それにお前はまだしも、俺にとっちゃ最後のステージになるかもしれないんだ。気が滅入るよ」
無邪気にはしゃぐ後輩の姿が、俺の憂鬱さを加速させる。俺も2年の時は、こんな感じだった。自分の実力を誇示したくて、大会の日が待ち遠しかった。まだあれから1年しかたっていないというのに、時間は残酷だ。
ため息をつきかけたところで、瀬戸の怪訝そうな目と目が合った。ご丁寧に首まで傾げてみせる彼女は、嬉しそうに息を弾ませる。
「何言ってるんですか。先輩方とできるステージなんですよ。最後だと思えばなおさら楽しみです。素敵な演奏ができると思いませんか?だって今年は最高のメンバーがそろってるんですから」
それに最後になんかしません。絶対に全国大会まで行くんです。
そこまで聞いて、はたと気づく。ああそうだ。おrはなんて大事なことを忘れていたんだろう。
俺たちがやっているのは【音が苦】でも【音学】でもない。
『音楽』だ。
たしかに明日のステージは純粋に勝つためのものだけれど、そのために『音を楽しむ』ことまで止めてしまっては元も子もない。
何より、楽器たちに失礼だ。
「そうだな、瀬戸。本当に明日が楽しみだ」
「はい。そのためにも今日の練習頑張らないと」
「だな」
先の事を考えても始まらない。
憂鬱なことを考えても仕方がない。
まずは今日1日を大事に過ごそう。そして明日を、素晴らしい日にするのだ。
変化がないなら、作ってしまえばいい。ただそれだけのこと。
気が付けば俺は、楽器を始めたあの頃のような足取りで、夏の朝の通学路を歩いていた。




