桐野桃矢のモーニングコール
まるで誰かに急き立てられるように目が覚めた。目を覚ました後も、何かをしなければいけないと言う強迫観念が俺を苛む。
早く覚醒して、一日を始めなければ。でも、一体何のために。
その答えは案外すんなりとみつかった。枕元のスマホに表示された今日の日付。
ああ、そうだった。もう今日しか残っていないんだな。
明日になったら、泣いても喚いてもどうあがこうと、俺は決戦の舞台に立たなければいけない。そして結果が出たら最後、俺は今日までとは違う世界を歩むことになるだろう。
導かれた結果が、良いものでも悪いものでも。
日付と一緒に示されていた時刻は、いつも起きる時間よりも大分早かった。もう一度寝てしまおうかと思ったけれど、覚醒してしまった自分の体はそんなに簡単に言うことを聞いちゃくれない。
横になって目を閉じても眠気は襲ってこないうえに、胃は空腹を訴え始める。階下からは、おいしそうな朝食の匂い。いつも通り早起きな母さんは、今日も朝食づくりに余念がない。
ベッドから抜け出してカーテンを開けると、外は気持ちがいいくらいの青空だった。電線の上では、スズメたちが楽しそうに鳴き交わしている。
去年まで、昨日までとどこも変わらない。どこにでもある夏休みの朝の風景だ。
きっとこの風景は、明日も明後日も変わらないだろう。変わってしまうのは、この空を見てどう感じるのか。そういう俺の心だけだ。
窓に背を向けて、ぐるりと部屋を見回す。ここ最近はずっと忙しくて、家には寝るためだけに帰ってきている様だったけれど、そうした時間のほとんどを6畳足らずのこの部屋で過ごした。幼い頃から過ごしてきた、俺の城。俺の性格や趣味嗜好は、話すよりもこの部屋を見てもらった方がよくわかるだろう。
机の棚や背の高い本棚には、教科書や小説の文庫本に紛れて楽譜や楽典の教則本が我が物顔で居座り、CDラックにぎっちりと隙間なく詰まっているのは、ひとつ残らずクラシックのCDだ。壁にはぐるりと演奏会やソリストのポスターが、余すところなく貼りつけてある。
中学生の頃、はじめて付き合った彼女には『男らしくない』と一蹴されてしまったこともある。結局その彼女とはすぐ別れてしまった。思い出すたびに苦笑が漏れる、苦い思い出だ。
あれ以来、彼女は出来ない。なにより作っている暇が無い。世の中が『ひと夏の思い出!』と浮かれている夏は大体、コンクールに向けて地獄のような特訓漬けの日々を送っている。そうでなくとも、春夏秋冬ありとあらゆる事情で忙しいのだ。おかげで、長い休暇や友達と旅行なんてものとは縁が遠い。『付き合いが悪い』なんて文句を言われることもしょっちゅうだ。
それでもよかった。
心から言い切れるのは、いろんなものを犠牲にした情熱を傾けても惜しくないものと出会えたからだ。
「お前とも、長い付き合いになったな」
小さい声で呟いて、机の上にある“それ”に手を滑らせていると、ベッドに投げ捨てたスマホが微かに振動し始めた。
取り上げてみると画面に表示されたのは見飽きた名前。緊急の連絡かと一瞬どきりとしたが、思い当たる節が無い。俺と同じ様に、早く起きすぎて落ち着かないのだろうか。
「もしもし」
『…あら、そんなしっかりした声で出るとは思わなかった。アンタが起きるにしては早すぎるんじゃない?モーニングコールのつもりだったのに、意味が無かったわね』
「おはよう、百合花。お前はいつでも元気だな」
電話の主は、部活の同期である藍原百合花だった。
彼女は俺が所属する吹奏楽部の部長で、副部長である俺とは何かと縁が深い人物だ。こうして突然電話を掛けてくるのも、いつものことだ。別段珍しくもない。
ただ、今朝電話を掛けてきた彼女の口ぶりには、どこか違和感があった。いつも通りの口調を心掛けている風ではあったけれど、どこかギクシャクと違和感が付きまとっている。
それが不安と緊張によるものだと想像するのは、難しいことではなかった。なにを隠そう、俺もそうなのだから。
心配性でビビりな俺と対照的にいつもいつも尊大に思えるほど自信家の彼女にしては、その様子は珍しかった。だけどそれも仕方ないことだろう。明日が高校最後の晴れ舞台になるかもしれないのだから。
「お前だって、いつもはこんな時間に起きてないだろう?モーニングコールとか言って、本当はいてもたっても居られなくなって、俺に電話してきたんじゃないのか?」
『…やっぱり桃矢には敵わないね。全部お見通しか』
「伊達に副部長をやって来たわけじゃねぇよ。これでも“カリスマ部長”の右腕だったんだから」
『その呼び方やめてよね、恥ずかしい。どうせアンタだって、早く起きて手持無沙汰だからって、フルートケースの前でぼんやりしてたんでしょ?』
ギクリ、と体をこわばらせて、それまで撫でていた細長いケースから手を離す。一緒にいる時間が長かったせいか、お互いの行動パターンは筒抜けだ。言い当てられて少々ばつが悪い。
「うるさいな」
照れ隠しに声を荒げれば、それすらもお見通しとでも言うように、電話の向こうで彼女が薄く笑う気配がした。
ますますばつが悪くなって、落ち着かなくなる。
それからしばらく無音が続き、彼女が静かに言葉を落とした。
『明日、なのね』
「ああ、明日だ」
改めて言葉にしてしまうと、その事実は一層現実味を増す。
明日。それは俺たちのこれからが決まる日だ。明日の大会を勝ち進まなければ、俺たちは即引退することが決まっている。
引退、それは楽器から距離を置くということ。今まで日課のように吹いてきた楽器を、吹かなくなるということ。
それは音楽にのめりこんでいる俺にとって、想像もつかないことだった。
俺が吹奏楽部なるものを初めて知ったのは、中学に入学したその日のことだった。
今でこそ誰よりも音楽に詳しい(と自分では思い込んでいる)俺だが、その頃の俺はまだ何もわからない、ただのガキだった。
入りたい部活動も特になくフラフラしていた俺は、一番勢いのよかった勧誘の波にあれよあれよと押し流されて、気付いた時には音楽室の隅っこ座って吹奏楽の演奏に耳を傾けていた。
圧倒された。何もわからなかったけれど、カッコいいな、と単純に想った。なにより、キラキラと輝く楽器たちがまるで武器のようで、自分も操ってみたくなった。
深く考えることもなく、そのまま俺は吹奏楽部に入部届を出していた。担当楽器として選んだのは、銀色に輝く横笛楽器のフルートだった。
『まっすぐでキラキラしてて、まるで剣みたいでカッコよかったから』と言うのが、恥ずかしながらこの楽器を選んだ理由だ。
今は他にも沢山気に入っているところがあるけれど、最初の理由は本当にそんな、他愛もない、笑ってしまうほど単純なものだった。
始めた理由がどうであれ、俺は音楽にのめりこんだ。
吹奏楽だけでなく、クラシックのCDを買いあさり、近くで演奏会があれば喜んで出かけた。有名な奏者がワークショップを開くと聞けば、そこがどんなに遠くても楽器を背負って駆けつけたし、いい先生がいると聞けば、お小遣いをつぎ込んで教えを乞うた。
昼も夜も朝も、俺は練習に明け暮れた。
息を吹き込めば音がでる。言葉で言い表せないことを表現できる。
勉強ばかりの退屈な日常を、音楽はいとも簡単に色鮮やかにしてくれた。
高校でも俺は迷わず吹奏楽部に入った。正直中学では男子部員が少なく、肩身が狭かった。だけど高校では男子部員のが大きく、それまで以上に居心地が良かった。
俺はますます楽器にのめりこんだ。勉強以外のほとんどすべての時間を楽器につぎ込んだ。寝ても覚めても頭の中はフルートのことばかり。どうやったら綺麗な音が出るのだろう、早く指が回るようになるのだろう。そうやって楽器のことを考えている間だけは、余計なことを忘れられた。
まるで夢のように楽しい日々だった。
だから余計に、明日が来るのをとても恐れている。もしも、万が一、楽器を手放すことになってしまったら俺は、退屈な日々をどう過ごせばいいのだろう。
「今年は、次の大会に進めると思うか?」
『何よ、突然』
そんなことを考えていたら思わず本音が漏れた。心の奥底に秘めていた、口には出せない本音。柄にもない、俺はこんなに気弱な人間じゃなかったはずなのに。
去年までならそんなこと考えることさえなかった。
『進めるかどうか、じゃないわ』
「え?」
百合花は静かに、しかしはっきりと口にした。
『私たちは、最善を目指して来た。音楽にはっきりした正解はどこにもないけれど、それでも私たちは信じる限り、出来る限りのことをしてきた。それを疑ってしまうのは、今日までの日々を無駄にしてしまうようなものよ。進めるかどうか、じゃない。上を蹴落としてでもすすむの。自分たちが一番だと信じるの。それくらいの気概じゃないと、その先はおろか、満足する演奏だってできやしないわ』
そうでしょう?
凛とした、気高い彼女の声。聞く人の心を奮い立たせるような綺麗で芯の通った声は、百合の花という気品あふれる名前を持った彼女に相応しいものだ。
その声を聞いたおかげで、本当の意味で目が覚めた。自分の女々しさを思い知らされたようで、弱気な台詞を吐いたことを後悔した。
『…そろそろいつも起きる時間だわ。じゃあ、また部活で。あと一日、お互い悔いのないように頑張りましょ』
俺の返事は待たずに、彼女は唐突に電話を切った。
結局何のために俺に電話を掛けてきたのだろう。俺に喝を入れたかったのか、それとも人と話すことで自分の決意をより固いものにしたかったのか。
どちらにせよ、百合花には感謝しなければ。腑抜けた心を入れ替えるには十分すぎるほどの効果があった。
「桃矢!そろそろご飯できるわよ!」
階下から母の呼ぶ声がする。それにせっつかれるように、俺はやっと着替え始めた。
さあ、最後の一日を始めよう。




