9.とにかく今日、君の声を聞いて思い出した
いわゆるガラス張りのエレベーター、外は綺麗な夜景色で、見知らぬ街の見慣れぬ光の群れを見る。段々に遠ざかる地上の景色には得も言われぬ虚しさを感じるばかりで、掴みようのない明るさに私は思わず目を背けた。
「中々良い場所だと思うんだ。あの日も二人きりでこの空間にいてね。ただ、どういうわけか僕は考えていたはずのシナリオにない言葉ばかりを呟いていた気がする」
「あの日」というのは相手が当時付き合っていた彼女との最後のデートの日のことだ。何でも私の声がその彼女によく似ているようで、さらには私の言葉の使い方やそこから垣間見える性格まで似ているというのだからお手上げである。とりとめのない世間話をしていたはずが、気付かないうちに相手の個人的な恋愛事情の話になっていた。
「声が似ているっていうのはどういうことなんだろう? 私は、このチャット空間で声を認識したことがないから……あんまりその感覚がわからないんだよね。誰でも似たような響きに感じる」
「何て言えばいいんだろう、言葉のささやき方って言うのかな……でも君が彼女その人ではないのもわかるんだ。自分で言っていて変に思うけど」
エレベーターの上昇は止まらない。
「声も性格も似ている人間に会うのって……どんな気持ちなの?」
相手は少し考え込むような姿勢で一言、「安心する」と答えた。現実ではね、と彼が続ける。僕たちは友好関係も絶って、もうお互いに連絡を取ることもないんだ。これは彼女と話し合って決めたことだし、きちんとさよならも言った。別れてからの僕たちの関係に言葉を当てはめるなら、依存、あまり良いといえたものじゃなかった。だから僕は完全に関係を切ったことに後悔はないし、今も彼女には感謝をしてる。
そんな話しぶりを聞いているうちに私の方でも相手が幼馴染の男友達に似ているような気がしてきており、いよいよ自分でもよくわからない事態となっていた。幼馴染に浮いた話など聞いたこともないのだが、仮に今聞かされているような話をあの男がしたらと考えるとこのような話しぶりではないかと思うわけだ。
「僕はあまり他人には強く言えない性格でね、彼女っていうのが結構手を焼いたんだけど結果的に甘やかす形になってしまった。それで、もし僕が彼女に我慢強さを教えられていたなら、君みたいな感じだったろうっていう……そんなところなんだ」
「ふぅん。私と付き合いたいと思う?」
「いいや、そういうことは思わない。僕は彼女が好きだったんだ、付き合っていた時の彼女が。彼女みたいなタイプは正直僕は苦手で、付き合っている人間がいないなら私と付き合え、ってほら……この時点でだいぶ強引だろ? そんな始まり方だった。でも結果的に僕は彼女のまっすぐな姿勢に本気になってしまったし、彼女の声が……忘れられないんだ、今でも」
私は景色に背を向けて相手に向き合う。よく見ればエレベーターの階のボタン、さらに階数が表示されるべきはずの場所には数字の表示がない。上向きの矢印が点滅しているのみだ。恐らくはこの上昇には際限がないのだ。もしかすると下に行くことは許されないのかもしれない、と私は思う。そうでなければ高所恐怖症の私が恐怖を感じないのはどうにもおかしいのだ。上昇していることを仮想空間とはいえ私は「体感」している。上へ進むことが私にとっても自然なことなのではないだろうか。
「今日君の声を聞いて思い出したんだ。僕は電話口の人の声を覚えるということがまるでできなくて、最近でも友達に笑われたばかりだけど……最初からそういうわけじゃなかった。僕は彼女の電話口の声はよく覚えていたんだ。君の声を聞いて、ようやく思い出した」
「彼女の声が好きだったのね」
「進学の関係で遠距離になってしまって、彼女との連絡手段は通話が主だった。彼女が僕の名前を呼ぶときや、好きだよ、おやすみって言うときの声の調子を今でも覚えてるんだ。……でもこんなことを言えば女はすぐ未練だなんだっていうんだろ?」
ここまで相手を「近く」に感じたことはない。このチャット空間と言えば例えるなら夢、人と触れ合うのはおろか、状況もちぐはぐなら話すこともばらばらだ。それがここまで現実空間のように思わせるのは何に起因するのだろうと私は訝しむ。
ふと後ろに目を向けたなら、当初の地上は遥か真下に輝いていた。数分前に見ていたときよりも一層輝きを増しており、そこで私はああそうかと、納得するのに至ったのだった。このエレベーターの進む先は時間の行き着く先なのだ。遠ざかって光すらも見えないであろうはずの地上は過去の遺物で、その証拠に目の前を過ぎる星々は流砂のように下へ流れ落ちている。尤も、そう見えるのは私たちが上昇し続けているからなのだが、滴る星々の中でもその輝きを留めているもの、濃藍色の雲に重なって見えなくなってしまうもの、様々だ。
「私は未練とは思わないよ。だって君は過去の彼女が好きなんでしょ。もう手は届かない」
「その通り。彼女の次に僕はまた別の女の子と付き合ったんだけど、その彼女の電話口の声っていうのが全然覚えられないんだ。顔を合わせればわかるんだぜ、でも電話口になるとそれが初めて聞いた声のように感じてしまって」
「気付かないうちにブレーキをかけてしまったんじゃない? 声を覚えてしまえば別れてしまう、とかいう思い込みでもしていたとか」
「もしかするとそうかもしれない。とにかく今日、君の声を聞いて思い出した。僕は前の彼女の電話口の声を忘れたことはなくて、僕が声を覚えられなくなったのはその彼女と別れてからだってことをね」
「それならこれからはちゃんと声を覚えられそう?」
「……善処する」
暗がりのエレベーターの中、ついぞ開かれることのなかった扉の前で私たちは別れを告げた。
◇
チャットを終えれば、幼馴染は珍しく本を片手に何やら思索に耽っているようだった。執筆作業は一段落ついている様子だ。私はすっかり重くなった身を起こして、彼の視界に入るところまで近づく。
「何を読んでいるの?」
「時よ、止まれ。お前は美しい」
「ああ……ファウストね? 男の子ってロマンチストなのね」
何だ、知ってたのか、と顔を上げる幼馴染の表情には、意外だ、という言葉がありありと書かれていたように見えた。
「ねぇ、もう一回言ってよ。さっきの言葉」
「はぁ!? ……お前に向けてるみたいで嫌だ」
「だから私に向けて言いなさいって言ってるんじゃない」
「……」
「たまには聞いてみたいものだわ、物書きくんの考える愛の言葉」
「……善処する」