5.嫌いだよ、君が。君ならわかってくれると思ったのに
「書いては消し、書いては消し。それの繰り返しさ」
余裕の笑みすら感じさせるその言葉の余韻を頼りに、私は彼の後を追った。ここは水の中。とはいえ呼吸に困ることはない。水に触れた感覚があるわけでもなければ、気泡だって形ばかり。本当に不思議な空間だとつくづく思う。彼の情報に間違いがなければ相手は私と同い年、そして学部こそ違えど大学生ということになる。
「ここに私とあなたしかいないのが、何だか特別に思います」
「何? 口説いてるの?」
黒い人影でも泳げば様になるというもの、相手が此方を振り返るのがわかる。水中で人影が目の前に一人、こんな状況は早々ないものだ。海でも川でもプールでも、他人がいて当たり前、そうであるはずなのにこの空間には何故だかほとんど違和感がない。だから私は特別という言葉を使った次第だ。
相手の動きに合わせて透き通る水は光の加減を変え、私はその光景をふと万華鏡のようだと思った。思わず口に出してしまったところに相手が反応し、「成る程」と小さく呟く。
「そう、万華鏡のように人は付き合う他人を選ぶ。他人を差別してはならないという人物が、平然と差別を実行する。やりきれないな」
どこまでも際限のないこの水の中で、遮るものは何もない。きっと彼の想起するこの空間では、水上にも水底にも世界は存在しないのだろう。恐らくこの場が彼の全て。水ともう一つ、彼にとっての大切な要素は何なのだろうと私は思考を泳がせる。
「誰かを選ぶということは、誰かが選ばれないということです。まるで付き合っている人全員が差別者のような物言いではありませんか?」
「僕はね、選ばれなかった側の人間なんだ。本当に自分でも情けないと思う」
「ええと。あなたを選ばない人間がいるのなら、あなたを選ぶ人間もいるっていう論理では足りないでしょうか」
「君が言っているのは可能性の話だ。例えば君は、この水中が無限に続くものだなんて思ってるんだろ」
「……」
透明な檻なんだ、と彼が言う。ひたすら端へと行ってみるといい、もしかしたら君もその檻の存在に気付くかもしれないな。それは確実に存在するんだ。だけど見つけるべきではないものさ。檻ができることを知っていながら、みんな競争し合っているわけなんだな。そうでなければ発展はないからね。僕は檻の在処に気付いてしまった。僕はもう一生、誰からも選ばれることはないだろう。いっそ君が僕を選んでくれたらいいのに、って思うんだよ。冗談? いや、これは真面目な話。
もしこの水中に檻なるものが存在するのなら、と私は揺蕩う思考を必死にかき集める。私たちは閉じ込められているということなのだろうか。あるいは。
「ある種の隷属性かもしれませんね。不幸に浸るのもときには良いことです」
「不幸に浸るだって! 君は僕の苦労を知らないからそんなことが言えるんだ……」
「あなたの苦労は、私には一生かけてもわかりません」
「嫌いだよ、君が。君ならわかってくれると思ったのに」
「それならどうぞ、このチャットを切っておしまいになって。きっとあなたは切ることをしない。あなたの価値はそこにあるのでは?」
「……」
「ここはとても素敵な空間だと思います。淀みがなく、そうして窒息することもない。でも、一人でいるには少々広すぎるのかもしれませんね」
太陽の輝きが、ひどく遠く感じた。下から見上げる水面だけでは、そもそもそれが太陽の光なのかどうかすらも定かではない。もし本物であれば、それは孤高の光である。近々訪れる夏をイメージして、私は溢れんばかりの光を宿した太陽を思い描いた。夢のような矛盾ばかりのこの空間ならば、直視も可能だったかもしれないのに……とそれがほんの少し残念なところだ。
「どうやらあなたの世界観が強烈すぎて、私のイメージしたものはすっかり取り込まれているようです」
こんなこともあるのだなと降参の意を示すべく両手を上に上げたそのとき、不意に何か固いものに触れたような気がした。このチャット空間でも冷や汗ものの感覚は健在のようで、私は何事もなかったかのように手を引っ込める。相手は繊細な割に変化には鈍感なのか、「君がイメージしたのは何だったの?」などと朗らかに尋ねてくる始末だ。
私は四季の中で最も好きな夏を再現しようと、太陽と海という極めて象徴的な二つを希望したはずだった。そうはいってもその二つは私の心象世界というにはあまりにも具体的すぎたのだろう、彼の感性の方が幾分か上手だったようだ。こちらの気持ちなど知る由もない相手が、私の態度を窺うように話を続ける。
「するとここは海の中というわけか」
「そうであれば辻褄が合うのですけれどね。それはともかく。付き合いがどうこうという以前に、人間は必要とし、必要とされる関係を築き上げることが大事だと思いますよ。下手な感情はむしろ余計だと思うくらいです」
「そうかな……それは少し寂しい気がする」
「ゆっくり現実と向き合っていきましょう。まだまだ時間はあるんですから」
◇
起きてすぐというのはやはり頭が使い物にならない。不明瞭な私の視界に映るのは、慌ただしくかつ不自然な挙動を示す幼馴染の後ろ姿。確かシナリオ提出の締め切りがどうのと言っていたが、この様子だとやはり際どいところなのだろう。またヒステリーでも起こすのではないかと不安がよぎったところで私は完全に現実に引き戻される。独り言にしてはやけに大きな声で幼馴染の彼が叫んだ。
「書いては消し、書いては消しの繰り返しだ! どうしたらいい!?」
「書いて消さなければいいだけの話じゃないの?」
「うわ、いつの間に起きたんだ!? 言うのは簡単だろ! 僕の苦労も知らないで!」
結局自分に余裕がないときには人と接するべきではないと、私は深くそう思った。