4.それを試そうと思って持ってきたんですけど、この暗さじゃちょっと
終わりの見えない螺旋階段は、狂気の伝染を思わせた。今自分がどのあたりにいるかもわからず、同じような蝋燭の灯が目の前に連なるこの光景。どうしたものかとない頭を抱えていると、背後から響く声があった。
「こんばんは。どっちがいい? 上にのぼるか下におりるか」
「こんばんは。現状維持でお願いします」
一体相手は何を望んでこの光景を作り出したのかと思えば、何でも廃墟マニアだという。場の異様さに気を取られていたためにすっかり気が回らないでいたが、劣化した壁面は今にも崩れ落ちそうだ。体重を意識したあたりから重々しい軋みの音が顕著になる一方で、正直聞かなければ良かったと後悔したほどだった。
どのような基準でマッチングが行われているのかは全くわからない。違和感こそあれ、二人の人間の心象世界がきちんと混合しているから不思議だ。とりあえずこの度持ち込んだカメラが機能しないのは確かだと小さく溜息をつき、残るは、と僕は思う。鏡を持ち込んでみてくれと幼馴染に強く頼み込まれたので、仕方なく二つ目の要素としてこの場に反映させたのだった。日ごろ見慣れている手のひらサイズの鏡がぼんやりと空間を反射し始める。
「鏡よ、鏡……ってやつかな?」
逸早く鏡の存在に気付いた相手が、即座に近寄り僕に声をかけてくる。体を寄せられては鏡面が見にくい。
「違いますよ。幼馴染に頼まれましてね、鏡に自分がどう映るかを見てきてくれって」
「理想の自分が映るのかな。わくわくだねぇ」
「理想、ですか?」
「だって、鏡だろ? ここは夢の中みたいなものなんだから、真っ当に自分が映るわけがないじゃないか」
何もそこまで決めつけることはしなくても、と内心思ったが、つい声として相手に聞こえてしまったようだった。まぁ何が映るかはお楽しみってことで、と陽気に返してくる。
放置しても怒るようなタイプではなさそうなので、僕は返事を中断して鏡をじっと見つめてみた。
「答えは無、のようだね」
「……あなたにも何も見えないんですか」
「いや、見えてるよ」
「何が見えてるんですか?」
「ごめん、嘘」
鏡は何も映さなかった。この空間上にあるものの一切が映されることはなかった。自分も含め、相手も含め。
「真実なんじゃないかい? つまりはさ」
「何もないのが真実だと?」
「そうそう。俺たちがあると錯覚しているだけで、実際この空間には何もない。少なくとも物質的な何かは存在しない」
「言葉も文字ではないですし、この場所は僕らのイメージでできているわけですからね。心の中って感じでしょうか」
「心の中、ねぇ……」
相手が自分にも鏡を見せてくれとせがむので、僕はそのまま手渡した。しばらくして、ほう、と相手の感嘆する声が聞こえた。
「君、これが見えるか」
「人形、ですか?」
「そうだ。俺の心はどうやら人形であるらしい」
瞳の大きな球体関節人形が、鏡の中から此方を見返していた。灰色の肌に赤い目が煌々と燃えており、色のない唇が一層異形さを演出していた。無機質な表情から見て取れる不気味さは、とても今話している相手の分身とは思い難い。そもそも自分が何も映らなくて相手だけ映るというのも妙な話だ。さては、と僕は思い相手に問う。あなたの想起したイメージとは、この螺旋階段と他に何ですかと。
「自殺した子供だよ。俺の子供じゃなくて、妹夫婦のだけど。ついでに、俺は螺旋階段というか、無限ループみたいな感覚でイメージしてたんだよな。まぁ、好みの場所になっていて嬉しいけどな」
「そうか……僕が持ってきたのはカメラと鏡で、二つの要素はクリアしている。だから僕が鏡を見ても何も映らないんだ」
「カメラ? 写真撮れるのか? ここ」
「それを試そうと思って持ってきたんですけど、この暗さじゃちょっと」
それもそうだと相手は体を揺らす。自殺した、ということはもうこの世にはいないのだろう。人の形をしていながら、覇気のない表情。中途半端に開いた口は、何か言いたげな様子ともとれた。
ほらよ、と鏡を戻される。相手を映していない今でも、鏡の中の人形は健在だ。相手を映して、というより相手が鏡を見ることで宿ったもののようだった。
「俺は解せないんだよなぁ。まだまだ若いってのに。学業優秀、品行方正。いじめられるような子じゃなかったし、親子関係も良好。これ以上ないじゃないか。なぁ?」
鏡の中で人形の真紅の瞳が融解し、どろりとした粘着質の液体となってその頬を伝い落ちる。溶けた瞳の奥に、多数の人形がひしめき合う様を見た。彼らは意思を持っているようにも見えたし、操られているようにも見えた。
「その子の瞳に映る世界は、もしかすると僕たちの見ている世界とは違ったのかもしれませんね」
◇
チャットを終えて小説の続きに取り組もうとするものの、しばらく人形の幻像が頭から離れなかった。何者でもない彼らにとって、一体あれは何のための競争だったのか。
僕の背後で学校課題に取り組む幼馴染がここぞとばかりに突いてくる。
「何をそんなに浮かない顔しているの? 恋でもした?」
「これが恋をしている顔なもんか。鏡を持ち込んだせいで散々だ」
「あっ何が映った? やっぱり自分が映るの?」
「さぁ……自分で試してみてくれ。多分僕に見えないものが君には見えるはずだ」
「何よ、それ」と苦笑しながら、彼女は鏡に笑いかける。鏡よ、鏡、そんな言葉が聞こえ出したので、僕は意識を小説に集中させることにした。