3.あなたに見えている人影は本当にあなたですか?
鏡だ。見渡す限り鏡、鏡、鏡。しかし全てが本物の鏡というわけではないようだった。透明なガラス面と鏡面、その二つが壮大な迷路を作り上げているようだった。一体今宵の相手は何を反映させたのだろうと私は訝しむ。私はと言えば、幼馴染の所有物であるカメラと空……を希望したはずだが、カメラはともかく空などどこにも見当たらない。あまりにも抽象的過ぎたために認知されなかったのだろうか。
このチャット空間のシステムだが、実ははっきりしていないことが数多くある。まず自分の好きな要素を二つほど反映させられるということに関して、それがどの程度まで反映されるものなのかは決まりがない。何よりチャット相手から自分の選んだ要素がどのように映っているのかも定かではないのだ。そもそも、何故二つなのかという話である。人によっては、ユーザー自身が自分の意識にあるものとしてすぐに認識できるのが二つの要素であり、実際にはもっと多くの要素が反映されているのではとする見方もある。
「……どこに向かって話しかければいいんだろう」
鏡には黒い人影が映るのみで、どこまでが反射によるものかはわからない。自分自身も勿論黒い人影の姿を呈していることは変わりはなく、相手の人影なのか、自分の影が反射しているだけなのかの区別が全くと言っていいほどにないのである。
ある種の不具合なのかもしれない。そう思って私が意識の接続を切ろうとしたときそのときだった。不意に相手の声だけが後方で聞こえた。
「こんばんは。どうですか? ワタシは見えていますか?」
「……こんばんは。鏡が多すぎてよくわかりません」
「実を言うとワタシもわからないんですよね」
「一体何を反映させたんですか?」
鏡です、と相手が申し出る。何でも、この空間で自分自身を鏡に映して見てみたかったのだという。
「相手のことは黒い人影として認識できますが、自分を自分で見たらどう見えるんだろうって思ったんです。自分の手足だったら影じゃない形で見ることができますよね。だったら全身はどうなるのかなって」
「全身はどうやら黒い影に変換されてしまうようですね」
「さぁ……どうでしょう。あなたに見えている人影は本当にあなたですか?」
「といいますと?」
「あなたに見えているのはワタシの影が反射しているものかもしれないじゃないですか」
それもそうだと思い、私は自分の手足を前後左右に動かしてみる。しかしながら、至る所にある鏡が映すのは一斉にあらゆる方向へと動き出す影たちだ。鏡の数が多すぎるために、その方向性はもはや不規則、これでは収集がつかないと私は判断を諦めた。仕方がないので相手に問う。
「果たして自分に見えている影が自分なのかあなたなのかってことですね。どうすればわかるのでしょう」
「我思う、故に我あり。ただ、この言葉では心の存在を証明したのみで、身体の存在はまた別であるわけですね」
「……はあ」
「ここは意識の空間なのに、身体のことまで心配しないといけないなんて面白いと思いませんか?」
「面白いかどうかは別として、心は意識の中にないということですか」
相手の声こそ聞こえてくるものの、まるで自問自答をしているように感じる始末だ。どこまでが自分で、どこまでが相手――すなわち自分でない誰かなのか。要は、このチャットを通じて私たちが相手と何を共有しているのかという話なのだろう。ワタシは、と今度は相手の声が前方で響いた。
「ワタシは思うんです。このチャットを続けているうちに、段々人間は一つに収束していくんじゃないかって」
「あなたと私には決定的に違うものがありますよ」
「どういう意味ですか?」
「空がありません。あなた、隠しましたね」
「……」
おもちゃ箱がぱっくりと空くように、真っ白な天蓋は音を立てて崩れた。遥か上部に星の散らばる夜空が広がる。いざ空がひらけてみると、鏡の高さが思っていたほど高くはないことに気が付いた。いや、と私はその場にしゃがみこむ。先の覆われた空間では鏡と認識していたが、月明かりのもとで鏡だと思っていたそれが絵であることに気が付いた。黄色く酸化したキャンバスに、黒い人型のものが多数蠢いている。
そこまでの事実が判明して、私は初めて自分の矛盾にも気が付いた。カメラだ。例え自分からみた自分も黒影だとしても、カメラはカメラとして見えるはずだったのだ。そのことを突き詰めれば、鏡だと言う誤った認識にはすぐ気が付いたはずだった。ぬっと等身大の黒影が私の前に立ちはだかる。
「真実の語は簡単なり、といったところでしょうか。ワタシ、画家をしているんです。よくできているでしょう。とりわけ人物画を描くのが好きで、でもこの場所って人間は全て黒い影になるじゃないですか。ワタシの絵を反映させたらどうなるのかどうか、興味があって」
種明かしをされた後でも自分と対峙するのはやはり黒い影であり、やはり自分と他者の境界線たるや如何なものかと思うことには変わりはない。しかし、何とも幻想的な風景だと思った。自分の方からも何かネタばらしをしたいような、そんな衝動にかられたため、今度は私の方から切り出す。
「二人だから、二つの要素かもしれませんね」
「ん? 何がですか?」
私の目の前で相手の影がゆらゆらと揺れた。疑問をもつときの癖なのだろうか。そう思うと微笑ましくすら感じるものである。
「この空間に反映される要素です。大体二つだと言われているじゃありませんか。一つは相手も自分にも認識できるもの。もう一つは自分にしか認識できないものということではないかと思ったんです」
「成程。あなたにはワタシの絵が見えなかった。ワタシにはあなたの空が見えなかった。こういうことですね」
「そうです。やはり一つにまとまるということはないでしょう」
収束のお話ですか?と相手はますます左右に体を揺らして応じる。その流れで「冗談ですよ」と片手を挙げれば「楽しかったです、有難う」と私に向かって手を振ってきた。
これは相手には言わなかったのだが、絵に描かれた人影の一つ一つの形は微妙に違っていたのだった。数々の人物画を描いてきた相手こそ、収束することはないということをわかっていたに違いない。
本当であれば笑顔をもって見送りたいところだが、影の状態では表情を伝えることは叶わない。私も相手に合わせて小さく手を振り、別れを告げた。
◇
この頃小説の締め切りに追われている幼馴染は、一々私にチャットの感想など聞いている暇はないようだった。絶え間なく続くキーボードの音に、私はわざとらしく咳ばらいをしてみせる。
「ねぇ、今日のチャット相手中々面白い人だったんだけど」
「一言でいうと?」
「世界は思い込みでできているって、きっとこういうことを言うんだよ。私、絵を描き始めてみようかしら」
「ふぅん。相手は絵描きか。それは面白そうだ」
絵描きが皆面白い人だとは限らないんだけどな。そう付け加えておきたいのを堪え、私は彼のカメラをもとの場所へとそっと戻した。