12.不確実なこの世界で、君の言葉だけが僕を
閉架書庫にでも迷い込んだのかと錯覚するほどに、何処も彼処も本棚で埋め尽くされていた。その一つ一つには隙間なくびっしりと並ぶ本の群れ。一見すると一冊一冊の区別はつかないが、近づいてみれば小さく番号が振られていることがわかる。しかし本たちはその数字に従って並べられているというわけではないようで、ランダム、つまるところ不確実な集合体であるようなのだった。
あてどもなく僕がその場を彷徨っていると、「こんばんは」と、久しぶりにまともな挨拶を受ける。見れば相手を模る黒い人影には何の装飾もなく、通常スタイルという言葉がこれはまたしっくりくるほどだ。この頃は不可思議なユーザーばかりと話をしていたせいか、却って普通であることに違和感を覚えてしまう。
「こんばんは。本、お好きなんですか?」
「えっと……はい。好きっていうか、何ていうか。友人が、小説を書いてるもので」
「そうなんですね。実は僕も、趣味で小説を書いてるんです。ご友人はどんな本がお好きなんですか?」
いきなり僕が小説の話題に食いついてしまったからか、相手は「いや……」「あの……」といった曖昧な繋ぎでもって対応している。僕にこのような壮大な書庫を思い描けるような想像力があるとは到底思えないので、やはり夥しい量のこの本棚たちは相手の思い描くイメージであるに違いない。それにしてもこの蔵書数たるや、一体合計でどのくらいになるのだろう、気が遠くなりそうだ。
「すごい本の数ですよね、これは何かの光景ですか?」
「昔に読んだんですけど……記憶の図書館といって、人間の記憶を一か所に集めている図書館の話があるんです」
実を言うと僕には、相手の言う「記憶の図書館」に心当たりがあった。それというのは、僕が初めて書いた小説――そもそもあれを小説とカウントして良いのか定かではないが――の設定である。大した物語性は秘めていなかったが、初めて自分で作り出した文字の羅列をすぐさま幼馴染の女友達に見せに行ったのをよく覚えている。大して時間をかけて読むものでもないものを、彼女は必死に読んでくれたのだ。しかし、その設定は既出だったのだろうか? そうだとしたら彼女に合わせる顔がない。僕はと言えば、彼女の前で格好つけようといかにその設定が素晴らしいものであるかを散々力説していたのだから。
そんな事情を相手に知られるわけにはいかないので、僕は知らなかった振りをして話に応じる。
「そうなんですね、そんな話が。面白い設定です。何という本ですか?」
「あの、本ではないんです。友人が、初めて書いた小説で。とても面白い作品だったんですけど、所々表現が難しいものだから読むのに時間がかかっちゃったんですよね。でも友人はそれを真剣に読んでる態度ととったみたいだったので、私もそういうことにしておきました」
「すごい偶然ですね、実は僕も……初めて書いた小説っていうのが全く同じ題材で。まさか同じような人がいようとは……」
やや躊躇いがちに僕がそう白状するなり、相手はぐっと近づいてきて小説の出だしを尋ねてきた。出だし。その小説を書いたのはもう数年前なのだ。初めて書いた作品としてはかなり記憶に焼き付いているが、出だしの一文というのはそう易々と記憶から抽出できない。その旨を正直に相手に伝えたならば、なんでも相手の方では出だしを覚えているというのだから驚きだ。「昔に読んだんですけど」という前置きの割にはすさまじい記憶力である。
覚えていると言っても、私は特別記憶力に優れているわけでもなくて。そう言いながら、相手は数ある本棚の間をすり抜けていった。その足取りには迷いがなく、僕は何を言われたわけでもないがひたすら相手の黒い影を追いかけて行く。
「最初は限られた冊数でしかなかった。それだから興味のない本でも時間つぶしのために読み、すっかり内容が頭に叩き込まれたところでようやく次の本が届くのだ」
恐らくは早速出だしを読み上げてくれているのだろう。そうかと思えば相手はやがてとある本棚の前で立ち止まり、今度は背表紙を順番に指さしながら巡る作業に入っている。その中の一冊を探しているようだ。再び出だしの朗読を相手が続ける。
「ところが次第に読む速度は追い付かなくなってしまった。次から次に届く本、しかし自分にはそれらの本を整理して棚に収める義務があるのだ。本の全てを読むことはほとんどなくなった。それでも、たまに最後まで夢中になって読んでしまうものがあり、そういった本はとりわけ特別な棚へと収容していくのである」
右から左へ規則正しく動いていた相手の指が一点で止まり、指差された本が僕の目の前でゆっくりと引き出された。その本にタイトルはない。ぱらぱらと頁を捲る相手に、僕は両手を差し出す。わかっていたとでも言わんばかりに、「彼女」は僕の手の上に本を乗せた。気恥ずかしさを悟られるまいと、僕は努めて冷静に発言した。
「あなたのいうその小説は、僕のよく知る小説で間違いないと思います。やがて記憶の図書館の管理人は、その職務を放棄するんですよね。とある棚に入り浸ってしまって。届く本はその場で散らばり、だけど管理人の目には綺麗に整理された一つの棚しか見えていない……」
「結局その図書館にあるのは一人の人間の記憶なのか、複数の人間の記憶なのかは分からずじまいだった。あれってどうなのよ?」
「管理人は一人だったから、記憶も一人の人間のもの、とするべきかな」
そうね、と彼女は短く相槌を打ち、「他人行儀な光輝、見ていて面白かったわ」などと言って黒い体を小刻みに揺らす。
「まさかここで君に会うとは思わなかったからな。僕としたことが、とんだ誤算だ」
「君ですって! 随分気障じゃない、いつもお前呼ばわりのくせに」
「チャット空間なんだから、そのくらいはいいだろう。君は君の知らない僕を見て、僕は僕の知らない君を見ている。舞台は……どうだろう。説明しろと言われたって難しいけど、同じかどうかを聞くのは愚問だろうな。君の想像力にはお手上げだよ」
「光輝のあの小説をイメージしたらこうなったの。一つの小説を読む複数の人たちが、皆全く同じ情景を思い浮かべるというなら、このチャット空間は誰が見ても全く同じもの。でも実際は個々によって違うから、やっぱりここでの見え方は違うと考えるのが妥当ね」
「それにしても、あの出だしを覚えているなんてすごいな」
「だからあの小説そのものをここに持ち込んだんだよ。もしここが記憶の支配する夢の世界だったなら、私はあんなに長い文章言えやしない。覚えていないからさ。眠っている時に見る夢とこのチャット空間の間にもまた、ちょっとした違いがあるというわけだね。それで、どう? やっぱり現実も、この空間も、区別なんてつけられないでしょ?」
彼女から受け取った本を僕はまじまじと眺めた。規則的に並べられた、しかし不確実な情報群。その中の一冊がこれだ。彼女は区別をつけると言いながら、その実この空間と現実の共通点を探しているように見える。両者とも、観測者によって見え方が異なることは証明された。つまり僕の立てた仮説は間違っていたわけだ。尤も、この場合の見え方というのは物質的なそれではなく、意識的なそれであるのだけども。
「そうだな、この間君に聞かせた論は正しくなかったらしい。でも、一つだけ確かなことがある」
彼女が何かを言いかけたところで僕は即座にログアウトした。十中八九彼女の方ではこのログアウトを僕の意図とは違う意味で捉えるだろうが、それは致し方ないことだ。
僕は彼女のいない部屋で一人目を開ける。そうしてすぐさま携帯を片手に彼女へ電話を繋ぎ、呼び出し音を聞きながら彼女の第一声を推測する。体感できるほどの秒数が経った後で電話口の彼女の声を聞いた。
「もう滅茶苦茶よ! 今まで光輝が途中で切ったことなんてなかったじゃない、せめてそれが区別の指標になると思ってたのに」
「そんなことを想われていたとは露知らず、ね。ところで、一つ言いたいことがあるんだ。さっきの続きなんだけど」
「何なの、もう。……聞いてあげるから早く言って」
「不確実なこの世界で、君の言葉だけが僕を確かなものにしてくれるらしい」
見落としているもの、見えずにいるものは僕が思っているよりも数多くあるようで、それでも彼女の言葉があれば、僕はどうしようもなく不確実なこの世界でも生きていけるような気がした。
人ひとりとっても様々な側面がある中で、例えば自分から見た他人、他人から見た自分というのはかなり限られた部分であるというようなことを最近痛感させられていたので、書き始め当初では予想もしなかった展開での完結となりましたが、諸々のことを考える上でとても良い機会になりました。