11.リアルタイムなのが、また快感なんだよな
澄んだ空気に晴れ渡る秋の昼空、窓越しに見えるその景色を不思議なまでに眩しく感じ、私は思わず手で目を覆う。大学の講義が休講になったのをいいことに、私は今日もこうして幼馴染の男友達の部屋に入り浸っているわけで。彼はというと、これまで見た「夢」の話の断片を書き連ねるのに必死だ。一つとして全てを書き出せたものはなく、本人曰く、どこかが、あるいは何かのセリフが抜けているような気がするけれど、もしかすると書き出した部分で全てなのかもしれないし、やはり文字に起こせた部分は「夢」の一部に過ぎないのかもしれない――とのことだ。
彼がパソコンを前ににらめっこを初めて数時間、さらにキーボードを打つ音が途絶えて数分経ったところで私は切り出す。
「ねぇ、こんなに天気がいいんだからさ、外に出て散歩でもしない?」
「僕は忙しいんだよ。一人で行ってこい」
「光輝がいないとつまんない。それで? 解読できそう?」
解読というのは、ずばり彼が今やっている作業そのもので、何でもチャット空間で起きた出来事を文字に起こし、その不確実性を追究するというものだそう。何が楽しいのかまるでわからない。
わざと大きな欠伸を一つしてみせ、それでも大した反応を貰えないものだから、私は大きな音を立てて光輝のベッドに沈み込む。今日は生憎とチャットの気分じゃない。彼はあのチャット空間と現実に明確な区別を持っているようだが、私の方ではそんな区別はなく――だからとあるユーザーにはあっちの世界に連れて行かれそうにもなったわけで――今は穏やかな現実を享受したいというのが正直なところだ。
昨日彼が言った胡蝶の夢ではないけれど、例えば今現実だと思っているものこそが夢であって、それもとてつもなく長い長い夢であった場合などにはどうなるのだろう。夢の中で、ふとこれは夢だと気付く瞬間が私にもあるが、夢とは言え匂いを感じることもあれば触れた感覚もまた同様だ。あのチャット空間はそんな夢の世界に酷似している。異なる点と言えば、夢は記憶の整理だとか言われるのに対し、あのチャット空間では自分ではない誰かと意識を混ぜ合わせることだ。以前はこのことを意識の共有と私は呼んでいたのだが、光輝に言わせれば共有ではなく混合に過ぎないとの見解だった。どちらにしても似たようなものだと思ったのは内緒だ。こんなことを言えば決まって彼に馬鹿にされるからだ。
「リアルタイムなのが、また快感なんだよな」
「……変態」
「は?」
「リアルタイムが快感って何よ、今だってリアルタイムでしょ」
ややあって、「何も変な意味じゃないぜ」と光輝が苦笑した。時々彼は変なことを言っては私を困らせる。そういうところがある意味好きではあるのだが、わからないものはわからないのだから仕方がないのだ。
「お前が現実とチャット空間の区別がつかないっていうからさ、その境界線をひいてやろうと思ったんだ」
そう言って光輝は満足そうに笑う。この顔だ。私が「ああ、すごい」とでも言うと思っているのだろうか。本当男って単純なんだからと、これは口に出さずに言葉の続きを促す。
「まず、意識は共有されない。これはいいよな? 僕たちが共有しているのは意識ではなくて時間だ。そうするとあの空間を構成するものは何かって話になるだろ? 実体化するものは意識ではないんだ。だからイメージと意識は別物として考えるべきだと思う。そして、イメージには無意識で思うものも含まれるに違いないよ」
「チャット空間に持ち込めるイメージが二つっていうのは、意識して認識するものが二つってこと?」
「それなんだが、お前はどこでその話を聞いた? どうもその情報の明確な根拠が見当たらないんだよな」
「うーん……ネットで。ほとんどのユーザーが言うんだからそうじゃないの?」
「そういう理由で情報の正誤性を決めるとなると、どうしても先入観の問題は免れないぜ。ま、ここでは数の話は置いといてだな……お互いで見えているものが違うんじゃないかっていう点が重要だ」
「どういうこと?」
「お前がログインして見えている世界と、その空間をリアルタイムでお前と共有しているユーザーが見ている世界が、違うかもしれないってことだよ」
一体それの何が重要なの、と口を挟みこみたいところだったが、やはり話がわかっていないものと誤解されては困るので、大人しくわかった振りをする。
「恐らくはそれが違いだな。今いるこの現実と、あのチャット空間の」
前言撤回だ。まるで何を言っているのかわからない。思いがけず表情に出てしまったのか、光輝が苦笑して「つまりさ」と言い直す。曰く、一つの空間を共有するにもユーザーによって見え方の異なるかもしれない世界がチャット空間であり、誰が見ても同じ今のこの空間というのが現実であるという事だった。しかし、この現実が誰から見ても同じであると、果たしてそう言い切れるのだろうか。逆もまた然りだ。チャット空間においても互いが全く同じ世界を見ている可能性も0ではないはずだ。やはり現実とチャット空間の二つに差異はないように感じてしまう。
「何だ、納得いかないのか?」
「うん。だって、チャット空間でも現実でも、自分の目に映る世界が相手と同じかどうかなんて測れないじゃない」
「馬鹿言うなよ、現実は誰が見たって現実だろ。お前は今の瞬間が夢かもしれない、なんて思うわけか? ……いや、思ってそうだな、その顔は」
なんて説明したらいいかな、と光輝が頭を抱えている。そんな姿を見ているうちに、私はふと思いついた。恐らくチャット空間では彼は頭を抱えたりはしないはずだ。チャット空間での彼を見たことがない私には勿論断言はできないのだが、彼が一連の話を終えずにチャットを切りあげているときを見たことがない。それというのは彼が一通り話を終えるまでチャットを続けているからであり、チャット空間の矛盾に一々突っ込んでいないからではないだろうか。現に彼はチャット空間での出来事を話すときは曖昧なことでも曖昧なままにしておくし、実際物言いもそんな感じなのだ。もしかしたらAなのかもしれないし、Bなのかもしれない。最初からCだったのかもしれないし、ずっとDでなかったのかもしれない。そんな言い方で片付けるのだから、彼が解読を試みるのが現実で、彼が解読を試みないのがチャット空間だと考えても間違いではないように思える。
ただ、とそこまで考えて私は気付いた。それでもやはり、私に二つの区別がつかない状況に変わりはないのだ。彼がその空間にいない限りは、自分のいる空間が現実なのかチャット空間なのか、明確な境界線を引くことはできない。そんなことでは困ると彼の方をちらと見やったが、どうやら彼の方が私よりも頭を悩ませているように見えたので、私はそれ以上境界線について考えることをやめたのだった。