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10.どうだい君、わたしの夢を見たくはないか

 それは祈りにも似た響きだった。誰かが、どこかで歌っているような、しかしそれが歌でないのも同時に僕は理解している。この感覚というのは例えば、何の気もなしに流した音楽から突拍子もなく断片的なテキストが頭に流れ込んでくるのに似ている。そういうときには僕は決まって何かを書き綴りたい衝動にかられ、すぐさまワードを立ち上げる。しかしそうした瞬間にその何かとやらは僕の中からすっかり零れ落ちているようで、僕は過去とすっかり決別してしまったような気にさえなるのだ。

 さて、僕の視界の両端に並ぶのは形の形容しがたい黒い岩のシルエットだ。その間に見える紺碧の海には、幾重にもガラスを重ねたような不規則な月。見慣れない月だった。それもあまりに大きいものだから、彩度の低い空は隙間から僅かに顔を見せる程度だ。


「やぁ、君はこの景観を知っているかい?」


 右か左か、どちらかの端から相手の声が聞こえる。僕の方では相手の姿は確認できないが、恐らく相手の方では僕の姿を認識しているのだろう。僕は半ば叫ぶように応じる。


「いいえ、こんな場所は知りません! それにあなたも!」


 目前にある月面が視界の中で揺れたかと思えば、次の瞬間にはその赤土色の地表が海に溶けゆくところであった。一体月の表面で何が反射しているのかはわからないが、所々で小さな色のある光が反射して、見つめれば見つめるほどに掴みどころがない。

 異様な月光の前を、黒い何かが走り去った。それはもしかすると相手の影だったのかもしれないし、相手が作り出した何かだったのかもしれなかった。恐らく、と僕は思う。どちらにしてもこの状況の解釈の助けにはならないだろうと。遥か遠くで先ほどの声が続いた。


「ところで君は何者だ?」


 何者、と僕は頭の中で繰り返す。斬新な問いかけだ。


「僕は大学生で、趣味で小説を書いています。あなたは?」

「わたしは何者でもない」

「はぁ……」

「君だってそうだろう。何せこの場所では肉体がないんだから。小説も書けないし、君の通う大学はここにはない。つまり君はこの空間においては何者でもないのさ」

「……答えがわかっているなら質問しないでくださいよ」


 まるで意地になった幼馴染と話をしているみたいだと、僕はやり場のない呆れを海面にぶつけてみる。思い切って足で波のリズムを崩してみると、遠くで月の溶解が一層早まったかにも見えた。何をどう想像すれば、終焉を迎えた後の世界のような、こんなに退廃的な空間を作り出せるのだろう。相手に聞かれないようひっそりと思考しながら、僕は未だ姿の見えない相手を探す。


「君はどうやら少し苛立っているらしい。わたしの姿が見えないから? それともこの景観が気に入らないから?」

「そのどちらでもありません。苛立っている、というのも少し違いますね。ああでも……あなたの姿を見たいかな」

「成る程、不安を感じているのか。わたしに固定された外見はない、あるのはここで共通して使われるある種の言語、そして個々に意味を与えるための概念的な思想。わたしと君で区別をつけるならば、それはユーザー識別番号くらいだな」

「識別番号?」

「最初のデータ登録時に、一人一人のユーザーに割り当てられるのさ。そうでなければ、どいつが何者か、わからなくなってしまうからね。どうだい君、わたしの夢を見たくはないか」

「あなたの夢、ですか? ……どうやって?」

「君がわたしになり、わたしが君になる。何、難しいことじゃない……お互いの識別番号を書き換えるんだよ」


 足元を漂う海面が、僕の影の形を複雑な動きをして真似ようとしている。どうしても生まれる歪みが、事態はそう単純なことではないと告げているように見えた。何かの警告だろうか。相手は無言になった僕を了解の意で取ったのだろう、依然として姿を見せないまま一方的に話を続ける。


「いいかい、翌朝を迎える頃には君がわたしだ。君が目覚めて真っ先に見る光景はこうだ――」


 相手が言い終わるか終わらないかといったところで、僕はログインしてすぐに耳にした得体の知れない音を聞いた。僕が目覚めて真っ先に見る光景はこうだ。月の溶けきった海が朝日に照らされ、次第に輝きを帯び始める。孤独に沈黙していた岩々にも日が当たり、その鍛え抜かれた肌が露見する。そこに僕の姿はない。何故なら僕は……。


「……僕は何者だ?」


 太陽の浄化を受ける地で、僕は一人自問する。


「僕はこの景観を知っているだろうか?」


 声に出すだけ空しく、答えの見つからない問いを続ける。白濁した波が僕の方へすり寄ってきては離れ、離れてはまたすり寄ってくる。僕は声をあげて笑いそうになった。勿論そんなことはできないに決まっているのだけども。


「もう限界ですよ! 僕はあなたにはなりきれない。だけど、この景観は是非他の人とも共有してあげるべきだと思います。だって……こんなに孤独で、美しい」



 夢を見るようにできるチャットとは、言い得て妙だ。僕はその日見た「夢」の物語を幼馴染に話して聞かせた。


「やっぱり、あの空間に住んでいるユーザーがいるんだ。そうして彼らは肉体を持たない。だけど危険な奴ばかりじゃないと僕は思った」

「どうして相手になりきれないと判断できたの? 私は、その区別をつけられる自信がないよ」


 それはさながら胡蝶の夢だな、と僕は笑う。あのチャット空間においては、双方のユーザーが共有したイメージ――それは意識的なものも無意識的なものも含む――でしか世界を構成できない。大体で作り出された環境に矛盾を感じないのは、勝手にユーザー同士で合理化しているからなのだ。だからログアウトしてからいかに自分たちが創出したものが非現実的であるかということに気が付くし、それはまさに「夢」の内容を思い出すのと似た感覚なのだ。

 識別番号の存在も、相手がもっともらしい演出をしてくれただけだろうと僕は思い返す。機械一つあればどの人間が使ってもチャットにログインすることができるのだ。そもそもレスが文字やデータとして残らないというのが大きな特徴なのだから、ユーザーを識別する必要もない。言語、あるいは思想の共有をしたところで、意識は共有できないのだと、相手はそう言いたかったのだろう。それは祈りにも似た響きだった。その事実は何者でもない僕たちにとって、ひどく寂しい現実だ。

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