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1.何でもいいから質問してくれっていうのは横着でしょうか?

 こんなにも気持ち悪い夜は、雨に流されてしまえばいいと思う。

 時刻は23時。私は折り畳み傘を片手に、自転車を押しながら線路のある方へと向かった。電車がレールをなぞる音、やがては遮断機が落とされるのだろう、ゆるやかな警報の音が彼方で聞こえる。消えかかる街灯の下を一つまた一つと歩き進む。どこからともなく現れた黒い人影に、私は物言わず頭だけ下げる。今夜は自分から話しかけるような気分ではなかった。それを知ってか知らずか、黒い影の方から私に話しかけてきた。


「こんばんは」


 この空間での会話の仕方は少し特殊にできている。言葉を話しているようで、実際に口を開いて話をしているわけではない。相手に投げかけているのは意識の中の言葉であり、例えるなら、夢のようなものだと考えてもらえば話は幾分早いだろうと思う。夢の中で話をするのに、口を開くことを意識することはあまりないだろう、つまりはそのような感覚なのだ。意識下の言葉とはいえ、勿論思っていることの一切が相手に筒抜けというわけではない。頭の中のキーボードを、随時かたかたと打っているような感覚なのだ。意識の一部を自分で選択し、それを反映させることができる。反映させるのは言葉にとどまらず、イメージも可能だ。この度私は、いつも乗り慣れている自転車と通学に使う街並みをこの場所に形作ってもらっている。

 挨拶を始めてくれた相手を待たすわけにもいかないので、私は早々に言葉を返す。


「こんばんは。こんなに冷たい夜更けに雨を降らせるとは、中々酷なことをしてくれますね」

「いやぁ、すみません。何だか気分が晴れなかったもので。やっぱり僕の気分が反映されてしまったのかなぁ、雨を降らせるつもりはなかったのです。それにしても寒いですね」

「折角の春なのに、こんな状況では何とも。私、寒いのは苦手なんです」

「そうですか……」

「冬なんかは朝起きるのが一番の試練ですよ。今は学生だからともかく、社会に出てやっていけるかが心配です、我ながら」

「学生さん? 若いなぁ」


 花の女子大生ですよ、とおどけて見せれば、どうやら相手はかなりの人生経験者であったらしい。何でも私の三倍以上は生きているということだった。

 この空間では性別というのはあってないようなもので、年齢もまた然りだ。いくらでも偽れるし、演じることができる。私も時々の気分で役者気分を味わうこともあるが、この頃はありのままの私で話に臨んでいる。


「若い女の人と話せるなんて嬉しいなぁ」

「私も、そうそうある機会ではありませんので嬉しい限りです」


 正直なところ、私は男性が嫌いだ。日常生活に支障が出るほどの嫌悪感や恐怖を抱いているわけではないが、男性にはあまり良い経験がない。男に生まれていたらどんなにか良かっただろうと思ったこともあったが、如何せん体力がないのである。恐らく男としてやっていくにも困難に立ち会うことは避けられなかっただろう。

 私はしばらく相手からの話に応じ、様々な受け答えをした。話すうちに相手が私に何を求めているのかがわかってくる。顔が見えないとはいえ、言葉の波長から相手がいかに感情を込めて話をしているのかまで伝わるほどだ。私は感情的な人間が特に嫌いだ。感情の裏返しほど怖いものはない。どうせ憎まれるくらいなら、愛されない方がましだ。極端な感情を得るくらいなら、平坦な感情の波で構わない。人情に欠けると言われようが、冷酷だと言われようが、それは私が私を守るうえで決めた私だけの取り決めだ。


「何だか僕ばっかり話してしまってすみませんねぇ。何でもいいから質問してくれっていうのは横着でしょうか?」

「いえいえ、私も沢山お聞きしたいことがあります」

「それなら良かった」

「それでは、これまでの人生で最大の不幸を教えてください」

「……有難うございます。よくぞ聞いてくださいました」


 この空間にいると、言葉は思念だというのがよくわかる。相手にとっての一番の不幸は、某人の死であった。淡々と綴られる言葉の数々、私はふと不思議に思う。何も感じないのだ。この男性はただ単に事実を述べているに過ぎない様子であった。押し殺された感情の存在も感じられず、後悔の念もなければ悲しみの色も見当たらない。死んでしまったんです。冷たい水の中に飛び込んで、一人ぼっちで……それはもう本当に本当に辛かったのでしょうね。前兆ですか? ええ、ありましたとも……。私は相槌を打つのをやめた。


「忘れられない女性はいらっしゃいますか。今の奥様以外で」

「それは勿論」

「その方のお話を是非お聞きしたいです」


 一度、たった一度手が触れることがあったのみの、その女性についての話を私は聞いた。まるで中学生の、それも初恋の話を聞いているようだった。もしかすると相手は老紳士を装った学生ではないかと疑ったほどだ。しかしながら事細かに語る教師の職業の様子からはその可能性は考え難かった。

 貧しくてね、その言葉を相手は何度も話の合間に入れた。そしてやはり不思議なのは、その言葉に何の感情も見出せないことだ。雨はやまない。夜は深まるばかり、シャッターの下りた商店街に閉じ込められているままだ。現実であれば車が行き交う交差点も、この空間では無人地帯に等しいのである。今度は別の女性の話に移った。


「抱きたいと思ったんですよ。だけど、もし抱いてしまえば結婚しなくちゃいけないかもしれない、そう思うと声はかけられなかったんですよ」


 私は、「抱く」と「抱きしめる」の違いがわかっていなかった小学生の頃を思い出していた。意味が解ったところで、恥ずかしさを覚えることもなかった。愛情表現というより、孤独を紛らわせているような、そんな風にしか思えないのだった。完全に繋がることができないことを知っているからこそ、その人の鼓動を確かめたいのではないか……そのための行為ではないだろうか、と。

 珈琲でも飲みたい気分になってきました、そんなことを不意に言い出す相手に、そろそろ時間ですのでと私は制した。無人の街だが、私か相手、どちらかの想像力によっては喫茶の場が設けられてもおかしくはないのだ。尤も、そこまで創造豊かな相手に私は会ったことがないけれども。

 去り際に握手を求められた。お互いがお互いを黒い人影としてしか認識できないこの空間だが、握手を交わすことはできる。それほど力は込められなかったはずだが、その流れで私は相手に抱きしめられた。不意打ちというのはまさにこのことだろうと思う。私が完全に意識を切るまで、相手は私を見送ってくれたようだった。



「長いな……4時間も話してたんだ」


 目を開ければキーボードに向かって文字を打つ幼馴染の姿。目覚めたばかりの私をちらりと見て、どうだったと問う。


「相手は70の老紳士だった。最後に抱きしめられたよ。あんなこともできるんだね、触れた感覚があった」

「抱きしめられた、だと?」

「私も予想すらしなかったよ。あの手の男の人、やっぱり苦手だ」

「触れた感覚か……」

「どうしたの?」

「いや。そういう感覚って大事だよな、って思っただけ」


 そう言って彼は私に背を向け、再びキーボードで文字を打ち込み始めた。

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