第82話 天馬の神獣の子ラウニッハ
もう引き返せないと分かっていても、まだ迷いがある。
天馬の神獣の子ラウニッハは、自分が神獣に育てられてよかったと思うことは少なかった。
天馬の国で生まれた人間というだけでこの国では白い目で見られる。
その上で神獣の子だと言えば、本当に誰も寄り付かなくなるだろう。
自分を育てた天馬の神獣フィンニルも、どこか自分には距離を置いて接してくる。
話す時は力の使い方を教える時だけ。
――自分は愛されていない。要らない子なんだ
幼き日のラウニッハは自分のことをそう思った。
天馬の国のエルフたちは、自分を不気味な奴だと言って近づいて来ない。
味方は誰も無い。
どうして自分は生まれて来たのだろう。
要らない人間なら死んでも同じか。
そんなことばかり考えていた。
出口の見えない闇をずっと彷徨い、孤独を感じていた。
そんな自分に一筋の光が差し込んだのは、突然で予想もしていない時だ。
「どうしていつも一人なの?」
顔を上げると翡翠色の瞳がこちらに向けられていた。
彼女の名前は知っている。
エルフの長老ラーヴァイカの娘であるチコ。
無邪気に笑う彼女を遠目からよく見ていた。
相手はエルフのお姫様。
こっちは神獣に育てられた怪物。
彼女は手の届かない高根の花だった。
そんな彼女に話しかけられて、顔の温度が熱くなったことを覚えている。
「友達がいないから……」
嘘だ。
友達が居ないことは確かだけど、居たとしても何も変わらない。
自分が神獣で育てられた怪物である事実は動かなかった。
「私がなってあげる!」
差し伸べられた手。
その白い手をどうするべきなのか最初は分からなかった。
自分を救ってくれる存在など、今までは居なかったからだ。
恐る恐るその手を取ると、彼女は自分の身体を引っ張って地面に立たせた。
そして改めて向き合う。
「私チコ! あなたは?」
「僕はラウニッハ……」
「長いなぁ。じゃあラウね!」
「ラウ?」
「うん。嫌?」
「い、嫌じゃない。ちっとも嫌じゃないよ」
「よかったぁ」
ニコッと笑う彼女を可愛いと思った。
そんな素直な感想を抱く。
感情が自分にもあるのだと、その時初めて知った。
それから生活は驚くほど激変し、色鮮やかに彩られた。
チコは天馬の国に広がる広大な森の中を生き残るために、武器の使い方を手とり足取り教えてくれた。
彼女の優しさには感謝しかない。
元々闘術・魔術・法術も使えたが、槍を使った戦闘方法は新鮮に思えた。
だから上達も早く、瞬く間にチコを抜き去る。
そしてチコの弟であるアレラトが大きくなると、よく三人で森の中を駆け巡った。
親であるフィンニルの元へ戻ることは少なくなり、このまま生きていければいいなと漠然と考えるようになる。
しかし運命はそれを許さない。
――神獣の子が現れた
自分以外にも居ることは予想していた。
だけど、彼らの動きは正反対のものだ。
狼の神獣の子は王となり獣人と人間を導き、人魚の神獣の子は世界の中心と言われる海都を襲った。
それを止めたのは一人の冒険者らしいが、それも神獣の子である可能性が高い。
そう言えば自分を育て理由をフィンニルに聞いたことがない。
「ラウは神獣の子をどう思う?」
隣に居るチコの言葉。
本当は自分も神獣の子だと言えば、彼女はどう思うだろうか。
世界の調和乱しかねない存在。
怖かった。
ただ彼女の見る目が変わることが。
今と同じように『ラウニッハ』として見てくれるだろうか。
その不安がただ胸にシコリのように居座る。
だから誤魔化した。
「……さぁ?」
そして数年ぶりに母親である天馬の神獣フィンニルの元へと戻った。
黄金に輝くその毛並は美しく。
背中に生えた見る者全てを魅了する羽。
そして、馬の頭部から生えた一本の角は力強い。
見上げるほどの馬体を持った母が、今日も精霊樹の頂に居た。
「母様。どうして僕たちを育てたのですか?」
「人間を懲らしめる為……それが表向きな理由……本当の理由は別にあります。しかし、どの道神獣の子は世界から疎まれるでしょう。人でも魔物でもない。世界に生まれた新たな種族が調和を乱すとなれば当然の帰結です」
――あぁ、やっぱり僕は要らない子なんだ
突き付けられた現実は残酷だった。
人間として生きることなんて出来やしない。
ましてやエルフと共に生きるなど自分には不可能だ。
あまりに大きな力を持った神獣の子は、世界から拒絶され最後は滅ぶ。
それが今の物語。
(僕の生きてきたこと……やってきたことは意味がなかったのか?)
自分に問いかける。
チコと一緒に森の中を駆け抜けた日々。
魔物に襲われて危ない目にあい、ラーヴァイカの長老が叱ってくれたのを嬉しく思ったこと。
自分を心配してくれる人がいる。
それがどうしようもなく嬉しかった。
そんな日々も全ては意味がなかった。
自分が神獣の子だから。
(ならばいいさ……とことんやってやろうじゃないか)
人間を懲らしめることが、自分が育てられた表向きな理由だとしても、どの道自分は世界から弾きだされる。
ならばそれよりも早く、世界を壊してやる。
「母様。僕は世界に反旗を翻します」
「そうですか……ならばこれを持っていきなさい」
そう言って母から託されたのは黄金の槍。
フィンニルがどうして槍を使うことを知っていたかは分からない。
でも初めて母に貰った物は、やっぱり嬉しかった。
その槍を手に取り、ラウニッハは密かに心に誓う。
――世界の調和は僕が保つ
世界が神獣の子を否定するのなら、憎しみも悲しみも全てを背負おう。
その上で世界の調和の為に消える。
それがラウニッハの覚悟だった。
そのためには他の神獣の子は邪魔だ。
特に世界を簡単に破壊できる力を持つ、竜の神獣の子は……
交渉もしない。
情けもしない。
世界にとってあまりにも危険な竜の神獣の子には、大人しく消えてもらう。
竜の神獣の子さえ居なくなれば、もう誰も自分を止められない。
『力の象徴』狼の神獣の子や、『大海の統治者』人魚の神獣の子が敵になったとしても、『幻影の略奪者』淫魔の神獣の子が裏切ったとしても……問題はない。
そうしてラウニッハは行動を起こし始める。
チコと築いた数十年の絆など、自分が見ていた夢だったのだと言い聞かせて。
神獣の子である自分が、平穏に生きようなど所詮は無理だったのだと心にそう言い聞かせて……
(あぁ……だからかな? ユーゴ……竜の神獣の子である君にこんなに腹立たしいのは……)
ラウニッハはスウッと目を開けた。
精霊樹の中腹にある地盤のある場所。
その昔に精霊樹が大地を貫いた際にくっついて来た大地からは、天馬の国がよく見える。
もちろん精霊樹の麓で何が起こっているかなんて一目瞭然だ。
だから二人の神獣の子が現れても、あまり驚かなかった。
どうやったのか分からないが、彼らは転移魔法でこちらに来たらしい。
道理で周りに張っていた結界に反応がないわけだ。
エルフたちも、淫魔の国で捕虜となった人間たちも驚いている。
自軍の陣地内にいきなり敵が現れれば当然か。
そして、竜の神獣の子と狼の神獣の子以外にも、一人のエルフの姿も遠目から確認できた。
(チコ? 今さら何しに来た?)
前に出た彼女がエルフたちに向かって、何か叫んでいる。
それを見たエルフたちの動きが止まった。
エルフの長老であるラーヴァイカの娘の言葉は、同種族にとってどれだけ大切かは知っている。
迷える者には一番効果的な手かもしれない。
「ラウニッハ。どうするの?」
「戦うしかないだろう。エルフたちじゃ彼らを足止めできない。それに……もう始めてしまったんだ。今さら戻ることは不可能だ」
「りょーかい♪ じゃあ、あたしは先に行ってくるわ♪」
そう言ってテミガーが風に包まれて姿を消した。
精霊樹の麓まで一気に移動したのだろう。
風属性の魔術は移動にも便利で羨ましい。
「さて。君の大切なユーゴ君が現れたよ」
振り返るとそこには半透明の四角い箱に閉じ込められたルフの姿。
そろそろ相手が来る頃だと思い、二・三日前から結界の中に閉じ込めている。
これなら自分たちの戦いに巻き込まれることなく、その目に映すことが出来るだろう。
――竜の神獣の子が死ぬその瞬間を……
「あいつを殺せると思っているの?」
「もちろん。今度こそ確実に息の根を止める」
「無理ね。あなたはユーゴには勝てない」
「根拠は?」
真っ直ぐな桃色の瞳が向けられる。
その目はかつてチコが自分に向けていたモノと同じだ。
疑わず。他人を信じる目だ。
「理由なんてない。信じているだけ」
腹の奥底で何かが沸々と湧いて来る。
それが何の感情なのか、上手く言葉では言い表すことは出来ない。
ただユーゴとルフの関係を見ているだけで、そんな得体の知れない感情が自分を襲った。
「彼は神獣の子だよ?」
「そんなこと、とっくの昔から知ってる」
「人間である君と神獣の子が共に生きることなんて出来ない」
「そう? 今まではそうしてたけど?」
何も言っても無駄らしい。
ならば自分が教えよう。
神獣の子が本当はどれだけの力を持っているのかを。
ユーゴとルフ。
彼らの絆など簡単に引き裂くことのできる力であると言うことを……




