英雄の日常
目の前のビールを眺めて、今月の営業成績を思い出していた。
「有村君」
ノルマは無事に達成。
上司に怒られることもなかった。
だから金曜日の晩に、こうして居酒屋でビールを飲んでいるわけだが。
「有村君。聞いてる?」
つまみで出てきた枝豆を手にとる。
指で押すと小さな豆が出てきた。
どうして塩でサッと味付けしただけなのに、こいつらは酒のつまみに合うのだろうか。
最初につまみとして食べた先人はあまりにも偉大だ。
「有村雄吾! 反応しなさい!」
「は、はい! なんですか先輩!?」
目の前に居る女性の瞳が、眼鏡の奥で揺れていた。
灰色のスーツは身体のラインがハッキリと分かる。
「イヤラシイ目してるぞ」
ビールを傾けた先輩がジト目で睨んできた。
「美人な先輩で嬉しいなぁって」
「そのセリフ。『先輩』の部分を『後輩』に変えたら、今朝新入社員の子に言っていたセリフと同じだね」
「何処で聞いてたんですか……」
「最近の若いのは色気づきやがって」
「先輩もまだ二十八でしょ? まだいけますよ」
「何? 三十路前がどれだけ憂鬱か教えてあげよっか?」
「遠慮しときます」
先輩の後ろにオーラの様な物が見える。
これ以上この話題を掘り下げたら、俺は間違いなく死ぬ。
話題を変えよう。
「それより、今月も売り上げ一番なんて先輩は流石です」
「三割くらいは、君が途中で投げた案件でしょ。全部やれば有村君が一番だし、出来るはずの案件だった」
「買い被りすぎですよ。僕にそんな能力ありませんって」
目の前の先輩はまだ若手なのに売り上げが常に一位だ。
今の会社に入ってすぐ、彼女の下で働けたのはラッキーと言える。
そっくりそのまま真似すれば、ある程度売り上げを出せるようになった。
教え方の上手だから、俺の成績は自身の実力以上に良くなっていった。
「あ。更新の時間だ」
先輩がそう言って胸のポケットからスマートフォンを取り出す。
細い指を滑らかに動かし、画面を見つめる。
「何見てるんです?」
「ネット小説。最近面白い異世界転生物を見つけたの」
「似た様なばかりじゃないですか?」
「だからこそ面白い物を見つける為に頑張るんでしょうが」
そこまでして小説を探す理由が俺には分からん。
適当にランキング上位の物でも読んでおけば、間違いないのに。
「もしかして先輩って異世界とか行きたいって思う人ですか?」
別に深い意味はない。
今日の天気はどうです? くらいの軽い気持ちで聞いた。
しかし先輩の視線が鋭くなった。
資料で間違いを発見して、俺を呼び出す時と同じ顔だ。
見慣れた表情だけど出来れば見たくない。
「……異世界から来たって言ったら……驚く?」
「飲みすぎですよ」
真面目に答えたのに先輩がため息。
そしてニコッと微笑んだ。
「そうね。ちょっと飲み過ぎたかも。水を頼んで雄吾君」
「了解です。すいませーん!」
それは懐かしい記憶だった。
俺が神獣の子として転生する前の想い出。
もうとっくに忘れたと思っていた。
それをどうして……
「おい兄ちゃん。大丈夫か?」
名も知らない爺さんの声で意識が覚醒する。
周りの状況を見て、自分が桟橋に座って釣りをしていたことを思い出した。
陽気な太陽に当てられて寝てしまったことも。
ギルドの依頼をこなしに行ったルフがいないせいで、うたた寝してしまったらしい。
「大丈夫です」
近くの爺さんにそう返すが、彼の視線は俺の手に握る竿に向けられた。
「反応してるぞ?」
「あ。ホントだ」
手に持った竿が海の方へと引きずり込まれていた。
慌てて握り直し、得物を釣る為に立ち上がった。
「よっしゃ! 逃がさねぇぞ!」
勢いよく竿を引くと……糸が切れた。
「兄ちゃん凄い怪力だな」
「まぁ……若いですから」
隣に爺さんにそう返し、再び桟橋に腰ける。
竜の国のとある田舎の村。
海鳥の鳴き声が静かに響き、優しい潮風が頬を撫でる。
潮の香りと心地い日差しは、再び眠気を誘う。
「平和だなぁ……」
しみじみと呟いた。
竿を振って再び水の中に鉤を入れた。
あとは待つだけだ。
しばらく暇だと思い、顔を上げた。
見上げると今日も竜の国の空高くにワイバーンが舞っていた。
今頃ルフも依頼をこなす為に乗っているだろうなぁ。
俺は依頼をこなすのが嫌で釣りを楽しむことにした。
ちなみにまだ一匹も連れていない。
さすがにゼロ匹は怒られるような気がするので、残りの時間は全力をつぎ込まないといけない。
覚悟を決めた俺の脳裏に、さっきの夢の映像が浮かぶ。
前の世界で仕事終わりに先輩と飲みに行ったときの想い出だ。
そして先輩のあの一言……
――異世界から来たって言ったら……信じる?
当時はやっぱり信じなかったと思う。
だけど今は違う。
俺自身が経験したからだ。
案外俺の先輩は、異世界から来て社会人やっていたとか……
いや。それはないな。
こんな変な経験。
俺一人で十分だろう。
竜の子供に転生して、元神様の魔帝を倒して、世界を見て回って……
こうして田舎の村で釣りを楽しんで、夜は現地の人と飲んでバカ騒ぎ。
隣のルフに小言を言われながら……
俺はそんな生活が好きだ。
ただの日常を愛している。
これからもずっと俺は日常を生きるのだろう。
「いい天気だ……」
そんなひとり言も、溺れそうなほど澄んだ蒼い空へと消えていった。
続編 神獣の子~英雄の過ごす日々~の連載を始めました。