黒衣の魔女
寒い。それが最初に感じたことだった。
「無事か? テミガー」
呼ばれて固く閉じていた目を開ける。
霞む視界に見えるのはアレラトの顔。
そして空から舞う粉雪だった。
「なんで……」
「緊急脱出用の転移魔法を精霊の力を借りて使った。しばらく飛ぶことは出来んが、あの状況では仕方なかった」
アレラトが言う『あの状況』とはソプアニに魔術を放たれる状況のことだ。
どうやら彼は自分がやられる直前に助けてくれたらしい。
「男の子ね」
「動くな。今傷を塞いでおる」
立ち上がろうとした自分にそう言って、アレラトが腹部に手を添えていた。
翡翠色の魔力の模様が広がり、傷口を癒している。
天馬の国では禁術となっている治癒魔法。
ただしアレラトは森に住むと言われる精霊たちの力を借りて使うことが出来る。
「さすがね」
「厳密には個人の治癒能力の向上に過ぎん。ユノレルの姉御に比べると子供だましのようなもの」
「精霊魔法の原理はよく分からないわ」
一部のエルフたちの使う精霊魔法は謎が多い。
本人たちも理解していない部分があるので解明にはまだ至っていない。
基本的には森に住む精霊たちを介して使う魔術らしい。
ただし精霊は地域によって数や質も異なる為、使う地域によっては魔法の質に影響するとか。
たとえば天馬の国では転移魔法は魔法陣を描けばある程度の距離は飛べるが、他の国だと精霊たちの問題でそれが出来ない。
強力な分、使う時はその場所の影響を受けやすい。
それが精霊魔法のイメージだ。
テミガーは周りを見渡す。
どうやらここは商業都市の外に広がる森の中らしい。
雪の積もった地面に大樹たちがこちらを見下ろす。
油断していたとはいえ、なんとも情けない姿だ。
「みぃつけた♪」
あの女の声。
次の瞬間、足元の地面がボコボコと動き始める。
「テミガー! 掴まれ!」
アレラトが自分を背負い、その場から大きくジャンプ。
相手の攻撃を回避した。
土属性の魔術だろうか。
さっきまで居た所の地面が隆起して一つの塊になる。
地面に着地したアレラトが顔を上げるとそこには土の巨人が居た。
「エルフの王子様も一緒なのねぇ」
土の巨人の肩に乗るソプアニ。
彼女に手には長剣ともう片方には杖が握られていた。
先ほどまでとは違い、黒い外套を身に纏った彼女の黒髪が風に揺れる。
「テミガーを狙って何が狙いじゃ?」
「ソプアニの研究材料にするの。捕まえて身体を弄って色々と調べるんだぁ……知らないことが分かると思うだけでゾクゾクしちゃう♪」
美しいかを歪め、醜く口端を吊り上げたソプアニの姿にアレラトが後退り。
まだ実戦経験の少ない彼は、完全にソプアニの狂気に押されている。
「アレラト。あたしを降ろしなさい」
「ダメじゃ。テミガーは手負い。ここは吾輩が止める」
「格好つけてるんじゃないわよ。相手は五傑よ? 荷が重いことくらい分かっているでしょ」
そう指摘されたアレラトが背負う自分を乱暴に落とした。
尻から地面に落ちて強打した。
ベルトマーと言い、もうちょっと優しく扱ってもらいないのだろうか。
「同じことを言わせるな。ここは吾輩がやる」
アレラトが腰に差していた愛用の刀を抜いた。
エルフ特有の翡翠色の刀身に刻印の施された仕様は、ソプアニが持つ物と同じである。
「エルフの王子様もいいわねぇ……貴方のお姉さんでもよかったんだけど……色々と知りたいことがあるのよねぇ」
「チコの姉御には手は出させんし、テミガーもやらせん。奇襲をするような奴に吾輩は負けない」
小さな背中で刀を構えるアレラト。
その姿に少しだけドキッとしたが、相手が悪すぎる。
五傑と呼ばれるギルド屈指の冒険者。
いわばルフと同格の相手だ。
アレラトには荷が重い。
そもそも自分が油断したせいで、こんな窮地に立たされている。
彼が巻き込まれる理由はない。
「いい加減にしなさいっ、貴方は今すぐ逃げるのよっ」
テミガーはまだ痛む腹部を抑えて立ち上がる。
治療はまだ半分だが傷は塞がった。
左肩は上手く動かないが、右腕一本でもやるしかない。
「ユーゴの兄貴が言っていた。女の守るのが男の役目だと」
「一度寝たくらいで彼氏気取り? 目を覚ましなさい坊や!」
「いつまでも子ども扱いするでない。ゆくぞ!」
アレラトが地面を力強く蹴った。
ソプアニが操る土の巨人まであっという間に距離を詰める。
「もう少し茶番を見ていたかったのに……もう終わり?」
「これから見るのは悪夢だぞ!」
土の巨人を巧みに登り、肩に乗るソプアニを刀の射程圏内に捕える。
「もらった!」
アレラトが水平に刀を振るが、そこにソプアニの姿は無い。
ジャンプした様子も無いのに、彼女は姿を消した。
「こっちよ」
後ろから声。
テミガーが振り向くとそこには上半身だけ地面から出したソプアニの姿。
左手に持った長剣で顔面めがけて突いて来た。
「くっ」
首を捻って攻撃を回避すると魔力剣を発動させ、魔力で精製された半透明の緑色の剣を両手に握った。
反撃でソプアニ斬りかかるが、また彼女の姿が消えた。
(土の中を移動しているのか)
どうやら彼女は土の中を自在に移動できるらしい。
土属性の魔術にそんな使い方があったのは驚きだが、今はそんなことも言っていられない。
それに土の巨人を生み出しながら、土の中を移動するには常時魔力を消耗していなければならないはず。
この状態はそう長くは続かないはずだ。
「吾輩の邪魔をするな!」
アレラトが巨人の振り降ろされる腕を回避していた。
彼は巨人の足止めをくらっている。
(はぁ、情けない)
自分をそう叱咤する。
実戦から長く遠ざかっていたと言え、神獣の子である自分がこんなミスを冒すなど恥ずかしくて仕方がない。
三年前ならソプアニの放つ殺気も読み取れていたはずなのに、すっかり鈍ってしまったらしい。
(今度から時々魔物退治もしましょ)
そう心に決めた直後、ズシッと身体が重くなった。
まるで重りを手足につけられているかのような感覚。
それに身体も痺れて上手く動かない。
「隙あり!」
地面から伸びて来た長剣に幻術を使おうとしたが、魔力が上手く操作できない。
伸びて来た切っ先が左の肩を貫いた。
「テミガー!!!」
アレラトの声が遠くで聞こえた。
心なしか頭がボーッとしてきて、意識が朦朧とする。
ソプアニが左の肩に突き刺さった長剣を抜いた。
なんとか身体を支えるテミガーだが、身体に上手く力が入らない。
そしてようやく気がつく。
「毒か……」
「やっと効いて来たのね。流石は神獣の子……常人なら死ぬほどの毒なのにまだ立っているなんて」
ようやく土から完全に出て来たソプアニが、一歩ずつこちらに近づいて来る。
彼女が一歩足を前に出すたび聞こえる雪を踏み音でさえ、今は遠くで鳴っているようなだ。
思った以上に毒のダメージは深い。
(せめて……アレラトだけでも……)
かなり劣勢だが神獣化すればまだ逆転のチャンスはある。
その為には巻き込まないようにアレラトを逃がす必要があった。
土の巨人と戦う彼を逃がす方法を考える。
「余所見はダメね」
タンッとソプアニが軽やかな身体捌きでこちらとの距離を詰め来る。
完全に反応が遅れた。
大きく振りかぶられた長剣を避ける余裕はない。
――やられる
そう本気で覚悟した時、視界が灰色で覆われた。
一瞬何が起こったのか分からなかったが、次に聞こえたのはキンと小高い金属音。
誰かがソプアニの攻撃を防いだらしい。
でも誰が?
「あなた……何者?」
ソプアニの綺麗な顔に皺が入る。
不快。そう呼ぶには十分な顔だ。
しかし灰色の外套を来た謎の者は何も返さない。
目にも止まらない回し蹴りでソプアニを吹き飛ばすと、一気に加速。
土の巨人と戦うアレラトに近づいた。
「おい! 何を……」
驚いたアレラトが謎の者に掴まれこちらに投げられた。
そして土の巨人が足元に居る灰色の外套に向かって巨大な腕を振り降ろす。
謎の者はそれを意に介さず、手に持った片手剣を振り上げた。
巨人を中心に風が吹き、同時に土の腕が崩れた。
信じられないことに灰色の外套を着た者は、一撃で巨人の腕を切り落とした。
(何者なんだろ)
そんなことを思っていると、再び灰色の影が近づいて来た。
そしてソプアニと向かい合い、剣を構える。
「ここは引きます! 私について来て下さい!!」
若い女の声だ。
彼女は左手の親指を噛むと、一滴の血が流れた手をそのまま地面につけた。
同時に土属性の魔術が発動し、目の前を大きな土の壁を覆った。
そして彼女が左腕を振るうと土の壁が炎に包まれる。
この退避手段は、竜聖騎士団で使われているモノだ。
相手と距離をとった後に離脱。
そして彼らは事前に魔術を仕込んでおり、それの発動タイミングは各自で異なると聞いたことがある。
「テミガーさん! 私に摑まって下さい!」
そう言って手を差し伸べた彼女は、竜聖騎士団に所属する獣人のフォルだった。
「ここまで来れば大丈夫ですかね」
フォルがそう言って灰色のフードを外した。
彼女の茶髪のショートカットと猫耳が顕わになる。
今三人は商業都市近くの村の宿の一室に居た。
ベッドが二つあり、シンプルな内装の部屋だった。
テミガーを背負い、ひたすら走っていたのにフィルの息は全く乱れていない。
さすが竜聖騎士団。鍛え方の比が違う。
「助かったわフォルちゃん。だけどどうして淫魔の国に?」
「王女様の指示です。テミガーさんに『例の件』の協力を依頼するように指示をうけたので……まさか襲われているところに遭遇するとは思わなかったですけど」
「助けが無くても勝っていたぞ!」
アレラトが騒いでいる。
彼は途中で戦いを中断させられたことに不満らしい。
「勝つことだけが戦いじゃない。それにあの状況はテミガーさんの治療が先でしょ? 勝手なプライドは仲間を死なせるよ」
口調は静かだが、アレラトを諭す彼女には迫力がある。
いくつもの死線を潜り抜けて来た彼女の言葉には、経験による重さが乗っていた。
「さっきのはあたしのミスだから、あんまり彼を責めないであげてね♪」
「……テミガーさんがそう言うなら」
フォルがそう言ってベッドに腰かけた。
問題は彼女がここに来た理由と今後の対応だ。
勝手に部屋の端で落ち込むアレラトを今は放置する。
「で、『例の件』と言うのは?」
「海都であった神力玉の盗難に関してです。出来れば一度海都に行くために竜の国へ来て欲しいのですが……」
どうやらフォルは最近話題の魔術学院での盗難の件で来たらしい。
内政に関わる人物たちは、思った以上に事態を重く見ているのだろうか。
それにソプアニも竜の国の王都へ行くと言っていた。
借りは返さないといけない。
協力を口実に竜の国に行くのもいいだろう。
それに実戦の勘を道中で取り戻す為に、フォルと模擬戦でもすれば十分だ。
「もちろん行くわよ」
「ホントですか! ありがとうございます!」
喜ぶフォルが自分の笑みに気がついたかどうかは分からない。
それでも受けた屈辱は倍にして返してやる。
テミガーは静かにそう誓った。




