第八話
聖花は何が何だか分からなくなった。
目の前にいるのは誰なのだ。
小単は聖花の猿轡をとってやった。
「小・・・単・・・」
「立てますか、姑娘?」
「あたしの名は聖花だわ」
「是対了、花花小姐」
そう言って彼は聖花を助け起こした。
「若君っ」
巨漢は小単に呼びかけた。
しかし彼は振り向きもしない。
聖花はこの謎の男を見やり次いで青年を見上げた。
「若君、どれだけその御身を案じたか。皆も心配いたしておりますぞ。どうかわたくしめと共に・・・」
「黒田、俺は戻る気など毛頭ない。今の俺にできることなど何もないのだ。皆には俺は達者でいるとそう伝えてくれ」
「若君!」
「くどいぞ黒田・・・俺にかまうな」
小単は手にしていた鎖鎌を男の足下へ放ると、二度と振り向くこともなく去っていってしまった。
夜遅くに帰宅した聖花と小単に母と兄は問いつめた。
口ごもる聖花に対し小単は陽気に笑ってこれまでのことをかいつまんで説明した。だが、赫一派を懲らしめ尚かつ聖花や自分を助けてくれたのは、通りすがりの武芸に精通した謎の男だと言ったのだ。
何はともわれ無事に帰ってきた二人を老母は労り早く休むよう言ったのだった。
その場を辞し自室へ下がろうとした小単を聖花は呼び止めた。
「小単、何故あんなことを言うの?何故自分がやったと言わないの?」
「言って何になるのです。たかが野良犬数匹殺しただけではありませんか」
「そういう意味じゃないわ。どうして今まで正体を隠していたのか聞いてるのよ。私達を騙していたわけ?」
聖花は懸命に涙を堪えた。
「花花小姐」
「そんなふうに呼ばないでちょうだいっ」
「・・・花妹、騙していたわけじゃない。ただ俺が君の知る小単じゃなくなった、それだけだ」
聖花は絶望的な眼差しで正面に立っている青年を見た。
初めて会ったあの日から数年が経過している。
人は変わる。
森羅万象は、すべてのものは変わるのだ。
しかし目の前のこの男は一瞬にして変わってしまった。
猫の皮を被った猛虎だった。
自然に涙が溢れ出た。
それを青年が優しく拭う。
「泣かないでくれ。君がいなかったら俺は死んでいた。君は恩人だ。ありがとう・・・晩安、花妹」
聖花は青年の背中が見えなくなるまで立ちつくしていた。