第七十二話
伽谷馬であった。
目を転じれば、その後ろに数人の公家が太刀を手に座っている。皆、蒼白な顔に諦めの色が滲んでいた。
そして、さらに奥で震えているのは帝ではないか。
弦之介は目を瞠った。
小さく無様に震え上がっている、あれが帝なのか。
現人神と畏れられ、皇尊とまで敬称される帝なのか。
「これ以上進めばきさまを殺す」
伽谷馬は掠れた声で言った。
彼はおそらく天皇が直轄している忍の一人なのだろう。
群を抜いた精鋭にして、帝が自身の命を委ねるほどに信頼を寄せている男。
「内裏を俺如きの血で汚すのか?」
伽谷馬はぐっ、となり刀をおろした。
弦之介はその場で膝を折った。
「臣弦之介、謹んで政権および土地・人民、官位すべてを朝廷に返上いたします」
その言葉に、伽谷馬をはじめ数人の公家、天皇は驚いた。
「嘘を言えっ。そのような申し出、誰が信じるか!」
公家の一人が甲高い声で叫んだ。
「信じるも信じないも帝次第。しかし、私は己の誇りにかけて申し上げているのです。代十七代将軍の名にかけて―――」
そう言い、彼は懐から書状を取り出した。
己の親指をぎっ、と噛み切り、滲み出た血を書状に押し当てた。
「今、申し上げた事柄が詳しく書いてあります。お目通しを」
書状を受け取った公家は胡散臭そうに弦之介と書状を交互に見やり、帝の前まで行くと恭しく渡した。
帝はしばらく書状を見つめ、それから「うむ」と唸った。
「帝に、もう一つ申し上げたき儀がございます」
「何だ」
はじめは怯えきっていた帝も己に害をなす者ではないと分かったからか、いつも通りに振る舞いはじめた。
弦之介は一度、目を下に落とし、改めて強い視線で帝を見た。
「我が幕臣に職をお与えくださいますよう、心からお願い申し上げます」
「ふむ、もっともな申し出だ。和解した以上、おぬしの望みも聞き届けなければなるまい」
そう言い、帝は声高らかに笑った。
弦之介もほろりと笑った。冬の風に揺れる残菊のような笑みだった。
こんなにも弱く醜く、ちっぽけで清らかなひとが存在することを、彼はこの日初めて知った。
この後すぐに遠征している兵に撤退命令が下され、数人の配下がその旨を伝えるべく馬を走らせた。
戦は終わった。
大内裏を出たときには、日はもう昇りきっていた。
青みを帯びていない空は、どこか初々しく感じられる。
弦之介は彼方を見つめた。
黒田も聖花も、響四郎も右近も―――。
突然、聖花に抱かれていた信太郎が泣き出した。
幼子の声は、どこまでもどこまでも陽の煌めきの中を伝わっていく。
これが新しき世の産声であることを願い、皆それぞれの一歩を踏み出した。
正史を用いてその後の歴史を語るなら、1868(明治元)年、京都の鳥羽・伏見の戦いから勃発した戊辰戦争に旧幕府軍は敗れ、勝利した新政府軍は国家統一を成し遂げている。
1889(明治22)年二月十一日には、伊藤博文らによって作成された憲法草案が審議され、欽定憲法としての大日本帝国憲法が発布された。ここに、絶対天皇統治国家が誕生したのである。
その後の日本は日清戦争、日露戦争と怒濤の時代に入り1941年に始まった太平洋戦争の際には、広島長崎と相次いで原子爆弾が投下され、約十四万人と七万人がそれぞれ犠牲となった。
九月十四日、日本はポツダム宣言を受け入れることを決定し、翌十五日には天皇のラジオ放送によって終戦の詔書が発表されている。
今日に存在している日本国憲法は主権在民、基本的人権の尊重、平和主義をおもな特徴とし、天皇は『日本国民統合の象徴』とされている。
この日、空は隅々まで晴れ渡り雲一つなかった。
そんな空中を一羽の鳥が飛んでゆく。
その鳥は小さいようにも大きいようにも見て取れた。
羽毛の色も白く見えるが、光り輝いているが故にそう見えるのではあるまいか。
どれだけの人がこの鳥を目撃したかは定かではないが、一人の少年は確実にその大きな瞳に映し出していた。
鳥はどこまでもゆく。
その翼を支える強いちからが、純白の鳥をどこまでも羽ばたかせてくれるだろう。
この果てしなく広がる蒼穹の向こうへ―――。




