第六十二話
暖かい。
いや。温かいのだ。
きっと、母の温もりとはこんなんだろうな。
だが意識がはっきりとなるにつれ、感じていなかった寒さが体を覆っていくのを感じた。
弦之介は勢いよく飛び起きた。
「うっ」
体中が痛み、また仰向けになった。
横では焚き火が燃えており、己の上には何枚もの布が掛けてあった。
「気がついた?」
女の声であった。
弦之介は落下した際にぶつけた頭の痛みに耐えられず、手で額を押さえながら女の発した声を反芻した。
「・・・萩殿か?」
彼はようやく目を開け、火の向こうの女を見た。
黒い、忍装束の萩の君が、そこにいた。
「無茶苦茶ね。もっと自重しなければだめよ」
弦之介は頭を押さえながら起き上がった。
助けてもらったのか、と思いながら己の体に目を向ける。
傷には薬が塗られ、包帯が巻かれていた。
「・・・かたじけない」
「あなた変わってるわ。父親の仇に礼を言うなんて」
萩は炎を見つめながら言った。
黒く長い睫毛まで橙に染まっている。
「憎くて殺したのか」
「ええ、そうよ」
「くの一なのに嘘が似合わぬ女だな」
「なんですって?」
萩は眉を寄せて見せたが、すぐに笑顔に戻った。
「あの人は、とてもかわいそうな人だったのよ。死なせたこと、後悔なんてしてないわ」
弦之介はしばらく、彼女の顔上で躍っている火影を見つめていたが、小さく頷き、また下を向いた。
萩はすっと立ち上がると、弦之介の隣まで来て腰をおろした。
ぐっと彼の方へ体を傾ける。
背に垂れていた髪が胸元へ落ちていき、弦之介の腰のあたりに触れた。
それはちょうど、我が子に添い寝する母の姿に似ていた。
「母親似ね。あの人には似てないわ」
弦之介の顔を見つめながら、萩は言った。
そして腰の短刀に手をやると、それを弦之介に突き出し言った。
「殺しなさい。仇を討ちたいでしょう?私は死ぬ気だった。城を出てすぐに―――。でも、そんなことしたらあなた、困るでしょう?さあ、これで私を刺しなさいっ!」
弦之介は短刀には目もくれず、萩の目を見据えた。
互いの息がかかるほどの近さだった。
「本当に死ぬ気だったのなら、俺は生きていなかったでしょうね」
彼は笑った。
「死ぬ覚悟ができていたのなら、こんなところにはいないでしょう。それに、あなたは父を死なせてあげた。恩人のあなたを殺す事なんてできない」
萩は鼻で笑った。
それは自嘲的であった。
「こんなに醜い嫉妬を、あなたは恩と呼ぶのね。やはり蛙の子は蛙。底なしの馬鹿だわ」
「それはあなたにも言えることです。愛を貫くために己を捨てるなんて、馬鹿も甚だしい」
微笑みながら、彼は続けた。
「でも、それがあなたの命をつないだ。救われた命。生きてゆきましょう俺も、あなたも」
弦之介は立ち上がった。
「もう、行かなければ」
萩はしばらく下を向いていた。
涙が溢れそうだった。
「私の馬を使いなさい。その体で城まで走るのは無理だわ」
「駿馬ですか?」
「戦場の真ん中を駄馬で駆けると思って?」
萩はにこりと笑った。
「それなら安心です」
そう言い、弦之介はひらりと飛び乗り馬上の人となると、その胴を軽く蹴った。
馬は嘶き勢いよく駆けていく。
萩は弦之介が見えなくなるまで、ずっと見送っていた。
夜であったが、無数の星と月が彼の道を照らし出してくれるだろう。




