第四十六話
「奥方様っ」
騒ぎを聞きつけ奉公人たちが駆けつけた。
開け放たれた障子の前に座り込んでいる槐に気づき、皆騒然となる。
「何でもありません、何でも・・・」
言いかけて槐は立ち上がった。
白い顔がさらに蒼白になる。
「旦那様・・・」
史が、そこにいた。
揺う炎は槐の平衡感覚を狂わせる。
奉公人たちのざわめきも、どこか遠くのことのようだ。
彼女は小刻みに震えた。
史の唇が動いたが、何を言っているのか聞こえなかった。
室内のざわめきは、いつのまにか消えていた。
「槐」
「申しわけございません、旦那様っ!」
反射的であった。
彼女はその場に突っ伏した。
「わたくしは嘘をつきました。旦那様に、嘘を・・・!」
胸中をすべて吐露しそうな勢いの妻を、史はじっとみつめている。
「わたくしの父は先の将軍定盛様にございます。しかし、母は穢多にございますっ。わたくしも、わたくしも・・・!」
それ以上、言葉は継げなかった。
匿そうと思えば匿し通せる。だが、今の幸せを打ち砕くことになろうとも言わねばならぬと、彼女は本能的に悟ったのだ。
槐は袖口で涙を拭うと、嫣然と微笑んだ。
「お別れでございます。旦那様のご名声をわたくしが落としめるわけにはまいりません。信太郎のことは後生でございますから、旦那様が―――」
「何を先程から一人寸劇をしているのだ?」
いつにも増して冷たい声だった。
顔には一切の表情がなく、眼光は切れるほど鋭い。
「旦那様、わたくしは・・・」
史に見つめられ、槐は再び夜露のような涙をこぼした。
「この憂き世が恨めしい。この身がもどかしい。槐は、槐は旦那様のお側に一生いとうございます」
その言葉を聞き、史はにこりとして妻の肩に優しく手を置いた。
「もとから何もありはしなかった。私たちが別れねばならぬ理由も、ありはしない。」
涙霞の中、槐は史を見つめた。
眩しそうに目を細める。
「槐。それでも、何かを見出していかねばならぬ。だが、それは目の前のつまらぬものではないはずだ」
「ああ、旦那様・・・我が、兄子よ・・・」
月はだいぶ傾いている。
弦之介は冷えた地面にうずくまったまま、拳を強く握り締めていた。
涙がとめどなく頬をつたう。
静かに鳴いている虫の声は、夜の大気を一層透明なものへとしているかのようだ。
だが、弦之介は闇を孕む悪魔の母胎にいた。
絶望に呑み込まれそうな中、彼はこう呟かずにはいられなかった。
―――お恨みいたしますぞ、兄上っ・・・!




